彼の心配
不治の病が判明したため、婚約を解消してほしい。そんな知らせが来て、あわてて婚約者の家を訪ねた。
「グレイズ子爵、ジェシーが不治の病とはどういうことですか。一月前の夜会では元気な様子で」
「話よりも娘の様子を見ていただいたほうがよろしいでしょう。娘の部屋にまいりましょう」
玄関ホールまで出迎えてくれた子爵に詰め寄ると、そのまま二階にある彼女の私室に連れていかれた。
婚約後は忙しく、あの夜会以外はメッセージを付けた花を贈るだけで精一杯だった。やっと会いに来られたのだ。こんな場合でなかったら、どれほど嬉しかっただろう。
部屋にはあちこちに手配した覚えのある花が飾られていた。喜びと強い不安を同時に感じる。彼女の姿が見えない。
子爵は部屋を横切って、ベッドのカーテンをめくった。
「ジェシカ、起きていたんだね。お客様を連れてきたよ」
不治の病、という言葉が改めて頭に浮かんだ。いったい彼女はどんな状態だというのか。
婚約者とはいえ、中が見えない位置で控えていると、子爵に手招きされた。
ベッドの上で丸まっていた人影が、おもむろに体を起こす。彼女だ。顔色は悪くない。
目が合った。
無表情に瞬きを一回。彼女は興味なさげに下を向いて、指先を丸めた手で左右交互にシーツを押しはじめた。――まるで猫が寝床を整えるように。
「ジェシー?」
思わず呼びかけて、はっとして口をつぐむ。子爵へと向き直り、彼女に話しかけていいか尋ねる。もっと近づいてもいいのかも。
「どうぞ。自分の名前はわかっているようですので」
自分の名前は? では、名前以外は?
「ジェシカ、レナートだ。会いに来たよ」
ベッドの傍らに跪いて声をかけた。私と子爵が話している間に、体を丸めて寝転がってしまったジェシーは反応しない。
立って子爵に寄り、声を潜めて尋ねる。
「触れても大丈夫ですか? あ、腕です。もちろん、そっとです」
子爵の思わしくない顔色に、懸念されているであろう条件を付け加えていったが、子爵は横に首を振った。
「おすすめしません。ひっかかれるかもしれませんので」
ふと思いついたこと聞く。
「……なついてない猫みたいに、ですか?」
「はい。……なにを馬鹿なことを思われるかもしれませんが、ジェシカは中身が猫になってしまったとしか思えないのです」
「猫と中身が入れ替わってしまったのですか? 最近、猫と触れあう機会があったのですか? その猫はどうされましたか?」
猫の中にジェシーが閉じ込められていたら大変である。ジェシーが野良猫生活だなんて。猫のジェシーを保護しなければ。
「いえ、猫と触れあう機会はありませんでした。家に居着こうとする猫もいません。
なにがなんだかわからないのです。ある日、目が覚めたら猫のようになっていたとしか……」
「なるほど。では猫のジェシーがひもじい思いをしている可能性は低いのですね。とはいえ、何か不思議な力が働いていることは確かです。遠くにいた猫と入れ替わって、一生懸命こちらに向かっている最中であるかもしれません。寄りつく猫がいたら保護してください。うちに来た猫も保護します」
振り返って彼女を見る。声は聞こえているだろうに、どこかへ姿を隠すことなく寝ている。警戒されていない。それが嬉しい。
「ところで、ジェシーの食べ物の好みは変わりましたか? 魚を好むとか生きたネズミがいいとか」
「いいえ、そういったことは。いつもどおりのものを与えています。一人では器に顔を入れて直に食べようとするので、メイドが介添えを」
「では、中身が入れ替わったというより、ジェシーはジェシーなのかもしれませんね。……たとえば、生まれる前の生の記憶がよみがえってしまったとか。最近、異国の不思議な出来事をまとめた本に、そんな話が載っていました」
「生まれる前の生……ですか」
「教会の教えでは、死ねば魂は神の御許に行くと教えられますが、異国のその本では、その前に何度かこの世で魂の修行をするのだそうです。
常識では考えられないことが起きたのですから、常識から外れて考えませんと。……神の試練、妖精のいたずら。……あるいは呪い、ということもあり得ますね」
もしもジェシーを呪った奴がいるのだとしたら、絶対にただでは済まさない。
「早急に、教会だけでなくオカルトニストにもあたってみます。歴史学の教授や王宮の図書室にも。
子爵はどうか、ジェシカを保護することに注力してください」
「それはもちろんです」
ジェシカのところに戻り、声を掛ける。
「ジェシー、明日また来るよ。君の好きな食べ物を持ってくるからね。一緒に食べよう」
とりあえずジェシーの命に別状がなくて安心した。
さあ、ありとあらゆる伝手を総動員してジェシーを助けないと。
あいさつもそこそこに、急いで子爵家を辞したのだった。




