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【後編】そうするしかなかったとしても

 朝、机の上にノートを開いた。

 裏表紙の角が折れていて、何度も擦った跡が残っている。

 左端の余白に線を引き、ゆっくりと文字を置いた。

 〈もう戻らない〉。

 そう書いてから、長い息を吐く。黒インクがわずかに光り、指先の震えが紙に伝わった。


 頭はしっかりしている、と自分に言い聞かせる。

 眠れなくても、考えることはできる。昨日までのやり方では駄目だった。

 真夜に伝えようとして、結局、何も救えなかったのは——わたしではだめだったから。

 説明の仕方も、時期の選び方も、全部。


 だから今度は、別の方法でやる。

 伝え方ではなく、出来事そのものを変える方法で。


 ノートに二本の矢印を書き、途中に小さく「事故」と書き込む。

 どうすればこの一点を消せるのか。

 時間を戻す前の、テレビの光景がよみがえる。ニュースキャスターが雪の映像を背にして、「一部区間で運休」と読んでいた。でもあの日、バスは止まらなかった。

 「市内は雪が落ち着いたから——」そんな判断を、誰かがした。

 でも、本当はまだ風が強くて、視界も良くなってはいなかった。

 それなら、あの瞬間を、止める。


 ペン先を強く押す。

 落ち着いていなかったのは天気だけじゃない。

 わたしも、落ち着きを失っていた。

 もし、あの時の自分が冷静に調べていたら、もっと違う手が見つかったかもしれない。

 そう思うだけで、胸がぴりつく。


 バスが走らなければ、誰も傷つかない。

 きっと、真夜のお母さんやお父さんも無事で、わたしも……もう戻らなくていい。

 そう考えると、心がわずかに軽くなるようにも思えた。

 そうでも思わなければ、立っていられないからだと分かっていても。


 ノートを閉じ、机の引き出しにしまう。

 立ち上がると、教室の外から朝の喧噪が聞こえてきた。

 水を飲もうと廊下を抜け、洗面台の鏡の前に立つ。

 蛍光灯の白さが肌の色を薄くし、目の下に細い影を落とす。

 髪を整えてみても、表情は動かない。

 マフラーの陰でだけ口角を上げてみる。けれど目は笑えない。

 袖で頬をぬぐい、もう一度深呼吸をした。


 あと一日。

 行動を始めるしかない。

 このまま考えているだけでは、また何も変えられない。

 戻らないと決めたのだから、前へ動くしかない——そう自分に言い聞かせる。

 そうして窓際の席でノートを挟んだまま指を止めていると、背後から名前を呼ばれた。


「……小雪」


 昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、少し掠れた声がわたしを呼ぶ。

 振り向くと、真夜が立っていた。

 顔色が悪い。朝もそうだった。どこかぼんやりして、目の焦点が定まっていない。

 けれどその瞳がこちらに向いた瞬間、わたしの胸を掴むような気配が走る。

 わたしを見ているのに、何かを確かめようとしているみたいだった。


「……どうしたの?」


 聞き返す声が、自分でも小さすぎた。


 真夜はほんの一拍、言葉を探すように唇を動かしてから、ゆっくり言った。


「なんか……朝から、違う顔してるなって思って」

「違う?」

「うん。いつも、もうちょっと柔らかかったというか……」


 言われて、何も答えられない。

 自分では普通にしているはずなのに、どこかが崩れている。

 真夜の言葉が刺さるというより、届く場所がなくてすり抜けた。

 わたしはノートを閉じ、急いで鞄にしまう。


「……何かあったの?」


 声に焦りが混じっている。

 彼女は一歩、距離を詰めた。


「なんか、すごく焦ってる感じ。無理してる?」


 本当は嬉しかった。

 朝から誰にも視線を向けられなかったのに、彼女の声がそこにある。

 それでも、口から出た言葉は違った。


「なんでもないよ」


 笑ってみせる。うまくいかない。口角だけが上がっている。

 真夜の眉がわずかに動きかけ、止まった。

 押し殺した不安が喉の奥でつまづくような顔。


「でも……」


 声が上ずる。

 わたしはすぐにかぶせた。


「大丈夫。ほんとに」


 間があいた。

 昼休みのざわめきが、ちょうどカーテンの隙間を通り抜ける風みたいに流れていく。

 わたしたちだけが、その音の外に取り残されていた。


 真夜は何か言いかけて、やめた。


「うん。……そっか」


 笑顔でも、諦めでもない中途半端な表情で。

 わたしはうなずく。

 そうする以外、できなかった。


 沈黙のあと、真夜は「じゃあ、またあとで」とだけ言って、背を向けた。

 歩き出していく肩が、わずかに震えて見えた。


 残された教室に、昼の日差しが差し込む。

 ノートを握り直した手が、湿っている。

 「なんでもない」——言い切った瞬間から、その言葉が胸の内で腐りはじめるのを感じた。


 うまく守ったつもりだった。

 でも守ったのは、たぶん自分の覚悟だけ。

 マフラーの端を握りしめ、呼吸を整える。

 真夜の気配が遠ざかるたび、心のどこかがゆっくり削れていく。






 放課後。

 真夜の机の上には開きっぱなしのノートが置かれていて、シャープペンが転がっていた。いつもなら一緒に片づけて、図書室へ寄り道して、それから並んで帰る。今日もきっとそうすると思われていただろう。

 でもわたしは「ちょっと用事あるから、先に帰るね」とだけ短く告げて、鞄を抱えて教室を出た。

 嘘だった。なんの用事もない。ただ、あのまま隣にいたら泣いてしまいそうだった。


 階段を下りながら、胸の奥がきゅうっと痛んだ。

 真夜の顔が頭から離れない。

 何も話せなかった。

 何も言ってはいけなかった。

 だから、知っているのに嘘をついた。

 “なんでもない”と笑った自分の声が、鼓膜の裏で何度も再生される。そのたびに、胸の奥の何かが破れていく気がした。


 この痛みをどう処理したらいいか分からないまま、校門を抜けた。

 陽の沈んだ空に粉雪が舞っている。気温は低いのに、頬が熱い。

 吐いた息がすぐ白くなって、夜風の中で溶けた。


 坂の上に街灯が一つ。

 灯りの下に人影があった。

 彼だった。陽岳 修。


 声をかけられたのは、その前を通り過ぎようとした瞬間だった。


「夜風さん、だよね?」


 立ち止まる。

 耳が、心臓の打つ音と同じリズムで跳ねる。

 彼の瞳が、街灯の光で浅く染まっていた。どこか既視感のある色。

 坂道の風が、彼とわたしの間を通り抜ける。


「夜風さん、前に──」


 初対面の彼が言葉を探すように言いかける。

 その“前に”がどこを指しているのか、わたしは知っていた。

 でも、答えてはいけなかった。



 昨日の夜のようによみがえる、父の言葉。


『戻すたびに、母さんは弱っていった……。説明のつかない疲労が、どんどん積もっていった』

『やり直せないことはある。逃げてもいい。そうしてくれたほうが、母さんも喜ぶと思う』


 あの声の奥にあったのは、祈りではなく、絶望だったのだとようやく分かる。


 時間を戻しても、消せないものがある。

 心のどこかに残って、形を変えて、現れる。

 クラスのみんなは、理由もわからずわたしを避ける。

 真夜は、わたしがお母さんとお父さんを救えなかった記憶を知らぬまま、理由のない恐怖に怯えている。

 そして──陽岳さんは。

 わたしが消したはずの時間の中で、わたしを覚えている。

 それなのに、ここに立って声をかけてきてくれる。

 優しい人だ。

 でも、だからこそ、もう近づいてはいけない。


「前に……話したことなかったか?」


 彼の声には探すような、確かめるような響きがあった。

 思わず一歩、後ずさる。

 その仕草に彼のまなざしが小さく揺れた。


 もし言ってしまえば、今度こそ取り返しがつかなくなる。

 また誰かを、苦しめてしまう。

 この心の内側に沈んでいる、自罰の棘ごと、相手を刺してしまう気がした。


 彼がなぜここにいて、なぜ迷いながらもわたしを呼び止めたのか、その理由を考える余裕もなかった。

 目の前の彼が、あまりにも現実的で、あまりにもあたたかかったから。

 あれほど冷えた空気の中で、わたしの頬だけが熱を持っている。


 これは罪の熱だと思った。

 罪を指先で溶かしてしまう前に、喉が先に動いた。


 「……知らない」


 言葉が空気を切った。

 かすかな雪の音でさえ、そのあとには聞こえなかった。

 視界の隅で彼がわずかに眉を動かす。何かを言おうとして、でもその前にわたしが動いた。


 踵を返し、坂を下る。足元の雪が音もなくひびく。

 振り返る勇気は、もうどこにもなかった。

 背後で陽岳さんが、何か言いかけたような気配がした。けれど風がそれを攫った。


 坂を下りきると、街の灯りが白く滲んでいた。

 ひとつひとつがぼやけた光球のようで、世界が遠い。

 わたしの胸の奥では罪と空虚だけが膨らみ、細い呼吸を繰り返していた。


 “知らない”と口にした自分の声がまだ残響している。

 唇がひりつく。マフラーを引き寄せ、口元を隠す。

 その布の中で、声にならない言葉が溶けていく。


 ——本当は、知っている。

 でも、知らないふりをしなければ、もう誰も守れない。


 街灯の明かりが背中に当たり、足跡の線がその光の中で消えていった。

 降り続く雪が視界を埋める。粒ひとつひとつが、冷たい赦しのように感じられる。


 わたしは歩きながら、最後にもう一度だけ振り返る。

 坂の上、街灯の下に、まだ彼が立っていた。

 立ち尽くし、凍える指先をポケットに押し込みながら、ただこちらを見ていた。

 胸の奥で何かが軋む。悲しみの形をしていたが、声にはならなかった。


 もう一歩進む。世界の音が遠ざかる。

 白い息が夜気に散る。

 雪の粒が頬を打つたび、心の輪郭が削られた。





 玄関で靴を脱いだとき、指先が震えていた。母の置いた小さな植木が、廊下の隅で影を落としている。

 父はまだ仕事で帰っていない。家は静かすぎて、外の風の音と、時計の秒針がやけに大きく聞こえた。

 鞄を置く。コートもマフラーも掛ける前に滑り落ちた。どれも拾わずに部屋へ入る。


 机の上のノートを開く。新しいページ。

 罫線の始まりに日付を書いて、そこから線を引き、文字を置いていく。

 「路線」「坂ノ下交差」「折り返し地点」――思い出せる限りの言葉を並べていく。

 スマホを立てかけ、検索した地名を地図アプリに打ち込む。

 道路管理の連絡先。バス会社の問い合わせページ。天気の履歴。

 指が止まらない。

 同じ語を何度も検索し、同じ行に何度も写し戻す。

 数字や線を書いている間は、世界を動かせるように感じた。


 小さな四角で交差点を描き、バス停の間に矢印を引く。

 雪の強さや風向きを想像で記して、危なそうだと思った場所には赤を塗る。

 ニュースで聞いた情報しか知らないのに、描けばそこに道が生まれるような気がした。

 再現できない現場を、線と数字の上で少しでも理解したかった。


 窓の外の灯りがにじんで、紙の上に落ちた。

 黒インクが滲んで広がる。滲んでは乾いて、また滲む。

 最初はペンのせいだと思った。

 でも、視界がぼやけてから気づいた。泣いている。


 涙を袖で拭う。乾く前に次のが出てくる。

 文字が歪む。線が合わなくなる。

 「調べて止める」――そう考えたときは、きっとこれが唯一の正しい形だと思っていた。

 でも、書けば書くほど、机の上に残るのは紙と光だけで、何も近づいていない。


 それでもペンを取る。

 泣きながら、もう一度ペンを取る。

 ページの端に、「大丈夫」と書いた。

 書いても消せなくて、少し間を置いて、もう一度「大丈夫」。

 三度目で、ペン先が止まる。


 力の入れ方がわからなくなる。

 手のひらが湿って、紙が波打つ。

 わたし、大丈夫。

 泣けているうちは大丈夫——そう言い聞かせる。

 大丈夫のふりをしていれば、またちゃんと考えられる。

 考えなきゃ。誰も助けてくれないんだから。


 ノートの上に、最後の「大丈夫」が半分だけ書かれたまま残る。

 “じ”の右側がすうっと薄れて、黒が灰に変わる。

 笑おうとしたけど、頬の筋肉がうまく動かない。


 ペンを離して、机に置いた銀の懐中時計を両手で握りしめた。

 冷たさが皮膚の下へ刃のように入る。

 鎖が、彼の手から戻された時と同じ、やわらかな光を帯びていた。

 あのときの声も、視線も、時間の隙間にまだ残っている気がする。

 だけど思い出すほど、自分が何を壊してきたかが鮮明になる。


 掌の中で金属が熱を帯びるまで握りしめる。

 放したら、これまでやってきたことが全部ほどけそうだった。

 涙で濡れた手が滑りそうになっても、構わず握り続ける。

 時計の表面に、自分の歪んだ顔が映る。


 「わたしは大丈夫」ともう一度だけ言葉にしてみた。

 声に出した音が部屋に跳ね返り、すぐ消える。

 何も返さない家が、やけに広く感じる。


 時計を胸に当てるうちに、鼓動と秒針の音が重なる。そのリズムに合わせて、心の奥の何かを必死に押さえ込む。

 今さら止まれない、わたしが決めたのだから。

 涙が渇くまでノートの地図を眺め続けた。

 白紙と線でできた世界が、夜更けの灯りの中でかすかに揺れていた。




*   *   *




 うまくいかなかった。

 そう結論づけるしかなかった。


 事故の前日、夜明け前に家を出た。

 まだ起床していない父の部屋のドアの前で足を止めてから、静かに靴を履く。新聞受けの金属が冷たく、外へ出た瞬間、風に細かい雪が混じって頬に刺さった。

 坂ノ下まで十五分。通学路と近い道なのに、誰もいないと別の国のように感じた。

 交差点の信号に立つ。道路の白と、まだ薄い灰をした空が溶けあって境目が分からない。ライトが走らない時間帯。人がいない場所ほど、音が膨らむ。


 ノートを開いて、書きつける。

 「視界:二〇メートル」「横風、右から」。

 昨日、机の上で想像した線が、現場ではまるで別の形をしていることに気づく。雪が積もるだけでこんなに世界が違うなら、きっとわたしの書いた地図なんかただの図形でしかない。それでもノートのページを埋めていった。空白を作ることのほうが、もっと怖かった。

 数字を重ねるたび、何かしらの正しさに近づいていくような錯覚が生まれる。それでも、自分の目で見たものの軽さを一番よく知っているのはほかでもないわたしだった。根拠の重さが足りない。たとえこのページをそのまま差し出したとしても、誰も動かないだろう。



 始業ギリギリで学校に着いた頃には、くつの中の靴下が湿っていた。暖房のきいた廊下を歩いても、足先の感覚は戻らない。友人たちが笑い合う声が遠くで弾んでいる。そこに混ざれないのは寒さのせいか、別の理由かも分からない。ただ机にノートを開き、細いペン先で昨日の地図を補正する。

 隣の子が椅子を引いて少しだけ距離を取る。彼女は悪くない。ただ、理由も分からないまま身体がそう動くのだろう。真夜も教室にほとんどいなかった。すれ違うときは、目を合わせない。


 わたしはノートの端を指で押さえながら、頭の中で何度も計算をやり直した。

 この風なら、ブレーキは利きづらい。

 歩道と車道の段差が隠れる。そこへ下り坂。

 大人なら分かるはずだ。正しいと思う方を選んでくれるはず。

 胸の奥で、その“はず”が何度も呼吸を詰まらせる。


 昼休みの図書室。机にスマートフォンを出して、バスの問い合わせフォームを開く。

 これはバス会社に事情を伝える方法。

 電話はうまく伝えられない。わたしは、たったひとりの親友にさえ伝えられなかった。

 だからまずは文章で書く。

 名前欄にカーソルが点滅したとき、母の言葉が指を止めた。

 名前は書かない。

 入力欄の一つひとつが、指に吸い付くほど冷たい。

 「どんな風に書けば伝わるか」それだけで十分のはずだった。

 でも、送信の直前には全身が震えていた。


 ここで間違えたら、また大切な人が死ぬ。

 それなのに、どう書いてもどこかが抜け落ちている気がして。

 指先が汗ばむ。漢字を間違えないように、何度も書いては消す。

 わたしは事故の時間も、場所も知っている。書けば届くかもしれない。


『どうして、そんなことが分かるの?』


 真夜の言葉が耳の奥で何度も再生される。

 書けない。いいや、書いてはいけない。

 名前を書けば巻き込む。匿名なら悪い冗談だ。

 時間をかけるたび、文面は整うのに、根拠だけが痩せていく。


 ――送信しました。


 画面には“投稿ありがとうございます”と淡い文字が現れて、その下に「内容によってはご回答できない場合があります」と小さく添えられている。

 時計を見ると、学校の終わりのベルが鳴る少し前。

 帰りの雪が強くなっていた。



 家に戻って、制服のままベッドに横になった。

 あの日のためにやれることを、全部やった。

 けれど形になったのは、細い線がいくつも並ぶノートと、送信済みの文字列だけ。

 それでも、きっと誰かに届く。届いてほしい。——そう思おうとすればするほど、胸の底が冷えていった。


 その夜、メールの通知音が鳴った。

 反射的に体を起こし、画面の光をのぞき込む。

 そこには丁寧で、何ひとつ間違っていない言葉が並んでいた。


〈貴重なご意見をありがとうございました。運行につきましては当日の状況を確認のうえ判断いたします〉


 指先から力が抜けた。

 読み返しても、どこにも自分の声はなかった。

 文面のやさしい定型句が、まるで病室の白い天井みたいに、自分を遮断していた。世界が粗いガラスの向こうにある。

 “当日に判断”。その一言で、すべて分かってしまう。

 彼らの「判断する」がわたしの「間に合わなかった」と同じ未来を意味することを。


 ベッドに座り込んで、爪先を見つめる。

 足音のしない家の中で、心臓の音だけが二拍遅れて跳ねる。

 どこで届かなくなったのか。どこを間違えたのか。

 ノートには誰にも見せられない線が走る。鉛筆の芯が折れるたび、紙の繊維が裂けていく音が部屋にこだまする。


 窓越しに外を見れば、街灯の下で再び雪が強くなっていた。

 白い粒が視界を埋めて、世界の輪郭を消していく。

 その奥に青い路線灯がある。

 確かめようとしても、すぐに見えなくなる。

 まるで、もうすぐ起こることを隠すように。


 机の上の懐中時計に指を置く。

 金属の表面はまだ温かい。押せば、また戻れる。

 でも、戻らないと決めた。

 歯を噛んで、目を閉じる。

 代わりに、心の奥で別の音が鳴った。

 ——これは失敗だ、と。


 わたしの“努力”は、誰にも届かない。

 そう理解する頃には、涙すら出なかった。

 部屋の中は、暖房を切ったように静かだった。風の音も時計の音も、壁の中に吸い取られていく。机の上に伏せても、何も感じない。冷たい木の感触だけが皮膚に残っていて、それがわたしのかろうじて現実にいる証のようだった。


 やれることは全部やった、と何度も頭の中で繰り返した。

 けれど、やったことが全部間違いだった。

 真夜の両親は助からない。あのバスは止まらない。もしいま時間を戻しても、何一つできることがない。わたしは何もできない。

 それを知ってしまったせいで、あらゆる時間が意味を失っていく。


 「大丈夫だよ」って、何度も言った。

 笑いながら、嘘をついた。

 嘘で守ったつもりだったのに、わたしのしたことは、みんなを傷つけただけだった。

 真夜の信頼も、陽岳さんの優しさも。全部、自分の手で壊してしまった。


 指先が冷たい。

 視界の端で、ノートの上の「大丈夫」が泣いているみたいにゆがむ。

 この紙を破れば、ぜんぶ無かったことになるだろうかと一瞬だけ思う。

 だめだ。

 何も無くならない。

 わたしのしたことは、戻せない。

 戻したはずの時間の分だけ、壊れていく。


 部屋の空気が、もう呼吸として入ってこなかった。

 喉の奥が音を立てずに乾いて、肺の隅に溜まった空気が毛羽立つみたいに痛い。

 机に伏せていた額を上げると、視界がぐらりと白く揺れた。

 雪が降っているのかどうかも、もう分からない。

 窓を閉めているのに、風の冷たさが頬を刺す錯覚がする。


 やれることをやった。誰にも頼らずに、自分の頭で考えて、自分の足で動いた。

 それなのに結果は何も変えられなかった。

 真夜のお母さんとお父さんは、あした、死ぬ。

 わたしはそれを知っていながら、何もできない。


「わたしが、間違ったんだ……」


 言葉が舌の上で切れる。涙が勝手に溢れて、頬の骨を伝う。

 呼吸するたび鼻の奥が焼けるように痛い。


「なんで、もっと、ちゃんと……」


 掠れた声が机の板に吸い込まれた。空気が震える。

 手のひらで顔を押さえる。掌の中で息がこもって熱くなる。


「真夜のことも、陽岳さんのことも、みんな……」


 ――助けたくて始めたのに。

 守りたくて、置き去りにしたくなくて。

 なのに、やってきたことのすべてが、反対の意味に変わっていく。


 喉の奥から声が漏れた。もう言葉の形をしていない。


「いやだぁ……いやだよ……っ」


 胸の真ん中に針を打たれたみたいで、体が勝手に丸まる。

 肩が震え、吐くたびに空気が悲鳴みたいな音を立てた。背中に力を入れても、止まらない。


 陽岳さんの顔が浮かぶ。薄い街灯の光の下で、真っすぐにこちらを見ていた瞳。

 「知らない」なんて言いたくなかった。

 知らないなんて、嘘の中でいちばん冷たい言葉だった。

 ああ、どうしてあの時、逃げたんだろう。

 もしも彼が、もう一度だけ声をかけてくれても、わたしには返す言葉がなかった。


「全部、わたしが悪いんだ」


 嗚咽に混じって唇が動いた。


「全部、わたしのせいだ……」


 ベッドに倒れ込む勢いで体を横たえる。布団の匂いが鼻を刺した。顔を埋めても、涙は止まらない。

 腹の底から出る声が、部屋の壁に当たって跳ね返る。

 聞く人のいない嘆きが積もって、辺りの空気を震わせる。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 謝る相手の顔が次々に浮かんで消える。

 お母さん。お父さん。真夜。陽岳さん。

 どの顔も次第に輪郭をなくし、雪みたいに白く溶けていく。

 みんなを傷つけて、取り返しのつかないものをふいにした。


「どうしたら……よかったの……?」


 誰にも届かない問いが空に向かってすべっていく。喉の奥で嗚咽が絡み、声の端が切れていく。

 涙と鼻水のせいで息がしづらい。布団の端を掴んで顔を上げ、息を吸い込んだ。

 胸がひゅうっと鳴る。次の瞬間、崩れたように泣き声がこぼれた。


「たすけて……」


 小さな声が出た。呼吸続かず、声は震えるだけ。

 誰の名前も呼べない。

 誰にも届かない。

 みんな、わたしが遠ざけた。


 呼吸と泣き声の区別がつかなくなるほど静かな呻きが、かすかに部屋の中に残る。


 机の上の銀の時計が、薄い反射で光った。

 秒針が一歩進む音が聞こえた気がした。






 夜が終わらないまま、朝になった。

 時計の針が動くたびに、耳の奥で空気が擦れる。眠れた時間はゼロ。まぶたの裏ではずっと同じ映像が繰り返されていた。


 雪に包まれたバス停。白い光。

 あの時間を知っていながら、止められなかったわたし。

 シーツを握った指先に、爪の跡が残る。

 起き上がる瞬間、体の中が砂でできているみたいだった。



 制服の襟を整え、鏡を通して自分の目を見る。

 誰かに似ている。お母さんが最後にわたしを見たときの目の光。

 胸の奥がきゅうっと痛くなって、呼吸が浅くなった。

 思考より先に体が動き、玄関を出た。冷たい空気が顔に当たる。鼻の奥がつんと痛んだ。お父さんはいない。気配のない家に謝りを残すようにうなずき、通学路を歩き出した。


 坂に差しかかる。白い息が天へ伸びて、吹雪に流された。

 歩幅のリズムがぐしゃぐしゃになる。足の裏が硬く、膝が震える。

 いつもならここで立ち止まって、携帯を取り出して真夜の既読を確認する。今日はそれさえできなかった。心臓が勝手に早くなる。

 このあと学校に着けば、ニュースが流れる。

 真夜が呼ばれて、クラスの空気が変わる。絶望が、教室の隅に残る。

 三度見てきた光景。四度目の光景がまた来る。


 足裏が途端に拒否するように動かなくなった。

 坂を登る道が壁のように立って見えた。喉から息が漏れる。


「いやだ……もう……」


 声にならない音を吐いた。

 認めたくなくて、空気を噛みながらじっと耐えた。

 体のどこかが、学校へ行くことを拒んでいた。

 冷たい外気、誰かの顔、そのすべてがこれから起こることの前触れのように思えた。


 歩けない。

 一歩も、上へは進めなかった。

 信号の点滅がやけに遠い場所でまたたく。

 雪が強く降ってきた。喉に入った息が、引き金のように心臓を打つ。



 ――ここにいても、何も変わらない。

 頭のどこかがそんな言葉をつぶやいたと同時に、靴の底を返していた。


 体が、無意識に。

 下へ。少しでも遠くへ。


 走り出した瞬間、膝に残っていた硬直が砕ける。

 坂を下ったほうが、冬の風を正面から受けなくてすむ。

 何より、そこには、あのバスの通り道がある。


 雪を踏むたび、音がむき出しになる。

 マフラーの端が風を切って頬を叩く。

 心臓の音と、呼吸の荒れが混ざって、世界に何も入り込まない。


 なぜ走っているのか、頭では分からない。

 「止めなきゃ」と言葉にまでならない感情が、骨の奥で響く。

 止めなきゃ、止めなくちゃ。

 どうやって? そんな疑問を考える前に、足がもう転げるように動いている。


 焦るというより、焦りを通り過ぎた。

 転びそうになって、両手をつく。雪の中で手袋が滑り、片方が落ちた。

 拾う時間がない。手先に冷たさが入り、指が動かなくなる。

 膝まで雪を浴びながら、肩で息をする。


 視界がひらけて、刹那、朝焼けの白が差す。

 遠くで機械の唸りが重なって聞こえた。タイヤが雪を踏みしめる音に似ている。

 通学路とは反対方向に、坂を下りきる道。あの先が交差点へ続いている。


 「もういい」「もう十分」――頭のどこかでそう聞こえる。

 けれどそれは、諦めの言葉ではなかった。

 もう十分耐えたから、次は動け、という命令のようだった。


 足がまた前に出た。

 吐く息がすぐ霧になり、目の前を曇らせる。

 胸の奥で何かが弾ける。

 お母さんの言葉が掠れて浮かぶ。


 〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉


 後悔しないように。これ以上何をすれば後悔が減るのか。

 答えのないまま、坂の下まで駆けた。


 息が詰まって世界の色が薄くなっていく。

 雪の反射がまぶしすぎて毒のようだ。

 それでも止まれない。

 止まったら、また大切なものを失う。


 視界の奥で、ゆっくり動くヘッドライトの列が見えた。

 バスなのか、別の車かはわからない。

 けれどわたしの体は即座に理解した。――この先が、運命の場所。


 耳の奥で血の音が高鳴る。痛みよりも先に、体が動く。


 坂を下る。

 世界が白く滲みながら、胸の奥にひとつの決意が固まっていく。

 止めなきゃ。

 止めなきゃ。

 理由も、方法も、誰にも聞けないまま、心の底からその言葉だけが溢れ続けた。


 手に残った指の痛みと、脈打つ音。

 そこにまだ光がある限り、自分は動ける気がした。

 息を整える余裕もなく、ただ坂の下の白い世界を見つめる。


 縁石を蹴り、横断歩道の白を踏み越える。

 その瞬間、懐中時計の重みがポケットの中で跳ね、金属の冷たさがわたしの肋骨に刺さった。


 見上げた空に、雪が滝のように降り注ぐ。

 クラクションが裂け、タイヤが雪を噛む音が押し寄せるのを聞いて。

 わたしは、光の円へ踏み込んだのだと知った。






 音もなく、風だけが世界を横切った。

 雪がきらきらと散って、視界が一瞬で真白に塗りつぶされる。

 体が宙を浮いたあと、時間の針が落ちていくように、すべての動きがゆっくりになった。耳鳴りの奥で、わたしの息だけが遠くから聞こえる。


 ──これで、止まる。

 あのバスも、真夜のお母さんとお父さんも。

 今度こそ、もう誰も泣かないはず。


 わたしは、そう思っていた。

 胸のどこかに、静けさがあった。

 雪が音を吸い、風の流れに体が溶ける。

 白の中で、まるで別の世界に入り込んだようだった。


 これでいい。きっと、わたしはやり遂げたんだと。

 でも、真っ白な視界の中で息を吐いた瞬間、ふっと何かが引っかかった。


 ……あれ?

 これで、本当に、よかったんだっけ。


 母の言葉が蘇る。

 お母さん。わたし、ちゃんと守ったよ。

 後悔しないように、ぜんぶやり切った。


 世界がゆっくりと傾き始める。視界の端に、橙の滲みが見える。

 気を抜いたら、涙が零れた。

 悲しいとか、怖いとか、そんな単純な感情じゃなかった。


 心の底で、何かがずっと叫んでいた。

 もう一度考えて。

 ほんとうに、これでいいの? と。


 胸の奥で、微かに何かがきしむ。

 「これでいい」――その言葉が自分の中で響くたび、少しずつ形を変えていく。

 これでいい? ほんとうに?

 あとを続けようとして、息が詰まった。

 なんだろう、この感じ。

 白い風景の中で、何かを見落としている気がする。


 母の声がもう一度、脳の奥で響いた。


 〈後悔、しないように〉


 言葉だけがやけに鮮明で、そこに母の顔はなかった。

 その一節が、雪の中で刃のように冷たく光る。

 後悔、しないように。

 ……わたし、後悔なんてしない。

 ちゃんとやった。ちゃんと守った。


 なのに、口の中が急に乾く。

 ゆっくりと理解が追いついていく。


 わたし、いま、後悔している。

 お母さん、これ、違う。違うよ。

 こんなの、選ぶべきじゃなかった。


 自分が、ただ、ここで終わるために走ったのだと、遅れて気づいた。


 胸の奥で氷が砕ける。

 そこから急に冷たさが広がって、喉の奥まで満たされる。

 「……あっ」小さな声がこぼれた。

 息を吸おうとしても、空気が入らない。


 ――これが、死ぬってこと?

 そんな言葉を頭の中で思って、すぐに怖くなった。

 怖い。まだ呼吸できる。何かを言いたい。でも唇が動かない。


 わたしは、死ぬつもりだった?

 そんなはずない。助けようとしただけで。

 なのに、どうしてこんなに静かなんだろう。

 風の音も雪の音も、なにも聞こえない。

 “これでいい”って、誰が言ったの?

 お母さんじゃない。真夜でもない。陽岳さんでもない。

 あれは――逃げるための言葉だった。

 怖くて、間違いを認めたくなくて、自分に言い聞かせた。


 胸がぎゅっと縮む。

 わたし、取り返しのつかないことをしたんだ。

 止まれば助かると思っていたのに。

 止まるはずだったものを、別の何かで壊してしまった。

 わたしが止めたのは、未来そのものだった。

 真夜の笑い声も、隣にいてくれた陽岳さんも、父のあたたかい手も、全部ここで切り落としてしまった。


「いや……」


 声にならない声が喉の奥で擦れた。

 手を伸ばそうとした。動かない。

 足も、腕も、全部止まっている。


 わたしは、取り返しがつかないことをした。


 視界の縁がにじんでいく。雪と世界の境目が消える。

 穏やかだった白は次第に冷たさを帯び、頬に刺さるたびに痛みが微かに蘇る。

 どうして、こんなに寒いんだろう。

 それとも、もう痛みすら感じなくなっているのだろうか。


 最後に感じたのは、冷たい金属のきらめきと、心の底から響く「間違えた」という声。

 何かが拾い上げられた音がする。

 風の中でほとんど聞こえない小さな音。

 もう指先は動かない。目だけが光を追う。

 そして、そのまま、すべてが遠のいていく。


 白と、冷たさと、後悔だけが、わたしの中でゆっくり沈んでいった。














 世界が折りたたまれていく。

 光と闇の境が何度もひっくり返って、形のあったものが一枚の模様みたいに溶け出す。音も熱も、体の重ささえも順番を忘れて、ばらばらに沈んでいく。


 小雪はもう動かない身体の奥で、その崩れていく順序だけをぼんやり眺めていた。

 下には底があった。柔らかくもなく、固くもなく、靄のようで泥のような層。そこに体が沈み、髪が絡まり、指先の輪郭がほどけていく。

 息をしていないはずなのに肺のあたりが膨らんで、冷たい水のなかで泡を吐いた気がした。

 泡は光をまとって上へ昇る。けれど本人は沈みつづける。


 遠くで、何かが一度、微かに光った。

 泡の粒が夜の底から浮かび上がるみたいに、銀色の放物線がゆらりと伸びる。その線に触れた途端、ひとつだけ、はっきりとした音が生まれた。


 ――カチッ。

 金属が指先で弾かれたような音。それは確かに「時計」のものだった。

 それは自分がいまいる場所以外から――まるで別の世界から届く、外側の鼓動のように思えた。


 カチ。

 濁った水の表面がわずかに明滅する。

 知らない誰かの「指」が、その振り子に触れた。

 指が置かれた瞬間、闇の層が反転した。


 時計が再び鳴った。

 金属がきしむように光を削り取っていく。

 世界が、その中心から円を描くようにひしゃげ始めた。

 白い繊維が裂ける。闇が逆流する。


 時間が、逆再生するように音を巻き取っていく。

 風の音が生まれ、雪片が上へ舞い上がる。


 すべての出来事が色を戻していくのを、見上げていた。




 体が軽くなる。

 水中から浮上するように、黒い泥が少しずつ離れていく。

 髪がふわりと広がり、頬をかする。

 遠くで耳鳴りが続き、その奥で誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。

 その音が揺れ、幾何学模様の破片に変わって弾けた。

 透明な線が放射状にひろがり、網のように時間の層を織り上げていく。


 無数の光が、少女の体を通り抜ける。

 痛みと、あたたかさ。


 次の瞬間、光が世界を満たした。

 上下の区別が戻り、体がぐいと引かれる感覚。

 胸の奥でざらざらとした砂を吐き出すように、空気を吸い込む。

 それでも息は途切れ、視界が白く揺れた。








 ――目を開けた。


 息が跳ねて、上体が自動的に起き上がる。冷たい汗が背中を伝い、喉の奥が焼ける。

 部屋の天井。薄い朝の光。

 見覚えのある自分の部屋。机、ノート、時計。

 ……わたしの、部屋。


 でも、なにかがおかしい。

 泣いた後みたいに呼吸が乱れて、心臓が痛い。足の先まで震えているのに、何を怖がっているのかが思い出せない。

 どこかで小さく鳥が鳴く。ストーブのタイマーがカチ、と音を立てた。

 朝日がカーテンの隙間からこぼれている。いつもの朝。

 だけど、胸の奥で何かが渦をまいている。


 戻ってきた。

 そう理解したのは、しばらく経ってからだった。

 机の上に置かれた銀の時計が、薄く朝を映していた。

 いつもと同じ位置。いつと変わらない形。

 なのに、見ているだけで胸の奥がざわざわと波立つ。指先が冷えて、息が浅くなる。


 陽岳さんの顔がふっと浮かんだ。

 ――夜道。あの静けさ。遠回りの帰り道で聞いた穏やかな声。

 彼は言ってくれた。「困ってるなら、力になる」って。

 その言葉を思い出したとき、胸に刺すような痛みが走る。


 わたしは決めたはずだった。

 あの出会いをなかったことにするって。

 彼を巻き込まないように。真夜と、真夜の家族を守るために。

 真夜に振り払われた手を思い出して。

 この4回目(・・・・・)で最後にするって決めた。

 その責任を、自分ひとりで背負うって。


 なのに、涙が出た。


 息が引っかかる。心臓が早鐘を打って、視界が霞む。

 理由がわからなかった。ただ、胸の奥でものすごい圧に押し潰されているみたいだった。


 時計に手を伸ばす。けれど、触れる寸前で指が止まる。

 金属の冷たさが空気を通して伝わってきて、背中にじわりと嫌な汗が滲む。

 腕が強張る。――怖い。触れたくない。

 理由もわからないのに、全身がそう訴えた。


 それでも、触れなければならない気がした。

 この感情の意味を、知らなければ前に進めない。

 脳のどこかがそう命じる。口の中が乾く。


 ひとつ息を呑み、指先に力を入れた。



「あ――」


 触れた瞬間、光が弾けた。


 雪。風。音のない夜。

 自分の足音が滑り、息を詰めて走る。

 バスのライト。白い壁。ブレーキ音。


 ――誰かの叫び。

 ――あれは、わたしの声。


 意識がごう、と反転した。

 世界が裏表をひっくり返していく。

 自分が誰かもわからなくなる。


 そして、知った。

 塗り潰すように浮かび上がる、最後の瞬間。



 真っ白な光の世界で、わたしは――死んだ。



 胃の底からこみ上げる恐怖で体が弾けた。


「いや……いやだっ、やだっ!」


 喉が勝手に叫んだ。声が自分のものじゃないみたいだった。

 音が空気を裂いて、涙が噴き出す。

 呼吸が荒れて、身体が勝手に跳ねる。


 止めなきゃいけなかったのはバスじゃない。

 母との約束を破り、父の言葉を裏切り、真夜を置いて、自分まで失くした。

 そんな終わり方しか選べなかったなんて――。


「ちがう、ちがうよ……やだよぉ……!」


 膝を抱えて床に崩れ落ちる。

 涙がとめどなく流れて、唇が震える。

 息を吸っても胸の奥が痛く、世界が音もなく遠ざかっていく。

 金属の反射が涙の粒を照り返す。

 その光が波紋のように広がり、頭の奥に泥のような闇を思い出させた。


「小雪……!」


 襖の向こうで音がした。

 わたしの嗚咽に気づいたのだろう。

 扉が開き、父がコートのまま立っていた。


「どうした、どこか痛いのか?」


 両肩に触れた手が、いつもよりずっと強い。

 でも、首を振ることしかできなかった。


「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」


 消え入りそうな声。

 父は眉を寄せたまま、わたしを抱き起こした。


「謝らなくていい。……息ができるか」


 言葉を探すように間を置いて、ストーブの前まで連れて行く。

 炎がゆらめく音がして、部屋の空気がじわりと温まる。

 けれど震えは止まらなかった。

 膝の上で手を握りしめ、まだ止まらない涙を見ているしかできない。


 父はストーブの前にしゃがみこんで、黙って見守っていた。

 慰めの言葉も出せず、ただ小さく息を吐いた。

 その沈黙が、責めでも距離でもないことを、わたしは知っていた。


 火の音の下、時計の秒針がまた跳ねる。

 その響きが胸を刺して、心臓が硬く震えた。


 ――あの世界。闇の底で鳴った音と同じだ。


「誰が……あれを……?」


 わたしの呟いた言葉に父が顔を上げた。


 音のない場所。沈んでいく身体。

 ――外から聞こえた、あの「音」。

 〈カチ〉と鳴らしたのは誰だった?


 時計の秘密は、お父さんしか知らない。

 視線を隣に向ける。お父さんはただわたしを心配して、そばにいてくれた。

 でもわたしの見た記憶を、感じている様子はない。


 お父さんじゃない。じゃあ、誰が――。


 頭の奥が滲む。指の間に泥のような感覚。

 思い出す。話してしまった相手。

 小雪の降る夜の坂道で、わたしの弱音を聞いてくれた人。


 陽岳……さん。


「……まさか……」


 唇が自分の意思と別に動いた。

 半信半疑。でも身体が勝手に理解していた。


 立ち上がる。ふらついて、父の手が肩を支える。

「小雪、落ち着きなさい。まだ顔が真っ青だ」

「行かなくちゃ」

「どこへ――」


 玄関に向かって駆け出す。冷たい風が顔を叩く。

 涙の跡を拭っても、掌はまだ震えていた。


 雪が舞う外に出る。

 息が白く散る。街の気配が覚めきらない。

 雪の上を、ほとんど転がるみたいに走っていた。

 吐く息が白く散るたびに、胸の奥で何かがざり、と音を立てて崩れていく。

 家を飛び出してからどれくらい経ったのかも覚えていない。ただ、止まることが怖かった。


 ――どうして、間違えてばかりだったんだろう。


 坂の途中で、一度だけ息を整える。脛の奥が軋み、心臓が痛いほどうるさい。

 それでも、頭の中は静かだった。静か――だけど、痛い。


 真夜に、ちゃんと話せばよかった。

 全部、最初から。

 事故のことも、見たことも、怖かったことも。

 「夢だ」とか「気にしないで」なんて、あんな言葉で済ませるんじゃなかった。


 足音が雪を踏んでいく。

 乾いた音が、ひとつひとつ胸をえぐる。


 お父さんに謝らなきゃ。

 何も言わずに時間を戻して、何度も振り回してきた。

 わたしを信じて、「後悔しないように」って言ってくれたのに。

 なのに、わたしは嘘をついて、自分で取り返しのつかないことをした。


 お母さんの大事な時計を、あんな使い方して――。

 約束を破った。

 ほんとうに大切なときにだけ使えって、お母さんに言われていたのに。


 陽岳さんにも。

 話を聞いてもらったあの夜、あたたかい缶の熱で、勇気をもらったのに。

 あれを“なかったこと”にしてしまうなんて、ひどすぎる。

 ――ちゃんと、ありがとう、って言うべきだった。


 足が止まる。涙が一粒、頬を過ぎて跳ねた。

 後悔の形は、雪に落ちても消えない。

 胸の奥でひとつひとつ、場所を変えながら疼いている。


 もう、二度とあんなふうに終わらせたくない。

 ごめんなさい、お母さん。お父さん。真夜。陽岳さん。

 全部、消えちゃうからって、簡単に“なかったこと”にしてはいけなかった。

 “なかった”ことになんて、ならないのに。


 視界が白く霞んで、世界の境がなくなる。

 頭の奥が熱く、目の裏が痛い。

 立ち止まれば崩れてしまいそうで、また一歩前へ出る。

 雪の匂いのする風が吹き抜けて、マフラーが膨らんだ。




 曲がり角を抜けたとき、彼はいつもの場所に立っていた。


 陽岳(ひだけ)(おさむ)

 列から少し離れた、坂の手前。車道のほうに半歩だけずれて立っている。

 朝の光に背を向け、自販機の明かりの反射がその輪郭を縁取っていた。


 いつもと同じ――のはず、だった。

 けれど今日の彼は、こちらを見ていた。

 まるで最初からわたしを待っていたかのように。


 目が合った瞬間、心臓が跳ねた。

 驚いたような目。けれど、それだけじゃなかった。

 知っている。そんな光の揺らぎがそこにあった。

 わたしを、知っているひとの目。


「……陽岳、さん……?」


 声は掠れていた。喉が震え、呼吸がひっかかる。

 彼は小さく眉を寄せ、それからゆっくりとこちらに歩み寄る。

 そして、一歩分の距離を保ったまま、言った。


「……向こうで話せるか?」


 雪の降り方がほんの少し変わる。

 風の音が、彼の低い声をさらって遠くに持っていく。

 わたしはうなずくことしかできなかった。




*   *   *




 雪の中で、足音だけが周りの世界を埋めていった。

 通学路から外れて、少し下った先のバス停。屋根の端に積もった雪が風に削られ、粉みたいに落ちてはすぐに溶ける。学校へ向かう列とは違う方向。朝なのに、ここだけ夜の残り香があった。


 黒いコートの背中。車道側に体を傾け、いつものように雪の斜面を見ていた。ふいに振り返った彼の目とぶつかる。何かを知っている瞳の奥が、わたしの心拍を一気に掴む。


「……陽岳、さん」


 マフラー越しの声が、喉で絡んで途切れた。


「ここ、朝に来たの初めてだ」


 陽岳さんはそうつぶやいて、視線を街道の向こうに滑らせる。

 車は通らない。

 人もいない。寒気の音だけが耳を刺した。

 前に、二人きりで話した、あの場所だった。


「話すなら……こっちのほうが静かだろ」


 そう言って、少し離れた屋根つきのベンチを示した。

 わたしたちは向かい合って座った。

 彼の息が白く漂い、わずかな距離を残して溶けていく。その白が、怖いくらいに綺麗だった。


 何を話せばいいかわからなかった。

 けれど、言わなければいけないことはたくさんある。一緒くたに胸の奥で膨らんで、喉の出口でせり上がってくる。声にならないまま、唇が冷えていた。


「……本当に、ごめんなさい」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。

 彼の視線がわたしを探すように動く。眉尻が少しだけ下がる。


「どうして、謝るんだよ」


 雪が風で流れ、ベンチの隅の粉雪が舞った。

 わたしは手袋を外して、指の腹で時計を撫でた。

 光の面がぼんやりと自分を映し返す。


「わたしは、あなたにひどいことをしました」


 吐く息を飲み込んで、顔を上げる。


「陽岳さんに助けてもらったのに、それを“なかったこと”にしたんです」


 陽岳さんは何も言わない。

 ただ、手の指を組んで、膝の上でじっと握っている。

 その無言で、余計に胸が軋んだ。


「本当は、ありがとうって。ごめんなさいって、ちゃんと言いたかった。

 でも、言わないまま、全部を消したんです」

「…………」

「こんなふうに話したら、気持ち悪いと思うかもしれないけど、ここで温かい飲み物をくれたことも、最後まで話を聞いてくれたことも、本当に嬉しかったんです。なのに、わたしが、そのことを消した」


 言葉が途切れて、あたたかい雫が落ちた。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。

 陽岳さんは深く息を吸って、膝の上に視線を落とした。


「やっぱり……そういうこと、なのか」


 声が震えていた。困惑と、その奥にある何かを押し殺したような響き。


「昨日、夜風さんを見たんだ」


 その言葉の前に、陽岳さんはいったん呼吸を整えた。

 吐く息がうっすら揺れて、朝の冷気に溶ける。


「坂の上で、逆方向に走ってて、そのとき手袋を片方落としただろ。拾って渡そうとして追いかけたけど……バスが来た。間に合わなかった」


 彼の目が一瞬、遠くを見る。

 雪の反射が淡く映り込み、そのなかで瞳の奥だけがじんと濃く沈んだ。


「すぐに救急車を呼んだけど、助けられなかった。そこに……それも、落ちてた」


 わたしのポケットに視線を向ける。

 促されるように、わたしが取り出した銀の時計が光を返す。

 息が詰まる。指先が自分の膝の上で固まり、凍りつく。


「どこかで見たような気がして、拾って……思い出した。冬の坂道、図書室の帰り、白いコートの子と話してる自分。……多分、夜風さんだ。知らないはずなのに、思い出したんだ」

「…………」

「それで起きたら、日付が戻ってた。携帯のカレンダーも、ニュースも前と一緒。俺、寝ぼけてるのかと思った」


 心臓が跳ねた。

 彼の声は、掠れ気味なのに妙に現実感があった。

 覚えているのだろうか。わたしと出会った時間を、消してしまったはずなのに。


「夢じゃないって思ったのは、通学路に出たときだ。景色も人も、前とまったく同じで……例の事故の二日前と、何もかもが同じだった」


 わたしは唇を噛んだ。

 彼の語る日は――自分が死んだ日だ。

 頭のどこかでそれを理解してしまい、喉の奥が細く締めつけられる。

 わたしが膝の上で時計を握りしめるのを見て、陽岳さんは息を詰めて、言葉を探しているみたいだった。


「何が起きたのかって思ったよ。確か触ってるうちに、ボタンを押したんだ。それで気づいたら朝だった。日が昇る前で、起きたら――お前が、生きてる。」


 雪の上の静けさが、呼吸の残滓までさらっていく。

 彼は言葉の端を揺らしながら、それでも問いを投げる。


「これって……その時計の、せいなのか?」


 短く間を置く。


「時間、戻るとか……そんなこと、ありえるのか?」


 どこか怯えにも似た響きが混じる声。

 否定したい常識と、目の前の現実の板挟み。

 彼自身が信じたくないことを、確信しかけていて、どうしようもなく混乱している。


 わたしは、真っ直ぐに彼を見られなかった。

 それでも、指の下の時計に残った微かな熱――あの夜、彼が触れた時の気配を、確かに感じ取る。


 やっぱり――。

 この人が、戻してくれたんだ。


 胸の奥で何かがほどける音がした。

 涙が出そうで、でも泣いちゃいけないと思った。

 彼は何も知らずに、わたしの代わりに重みを背負ってしまったのだから。


「……そう、です」


 かすれた声で、わたしは頷いた。


「それは……この時計の力です。時間が……ほんの少しだけ、巻き戻る。でも、それは――」


 そこまで言って、唇を噛む。

 “戻った先では何かが必ず歪む”――母の言葉と、父の沈黙が同時に胸を刺した。

 伝えるべきか、黙るべきか。どちらを選んでも傷つける気がした。

 結局、消させてしまったことは変わらない。


 陽岳さんの目が、静かにこちらを待っている。

 答えを急かさない。

 けれどその沈黙が、言葉より強く背を押した。


 彼の掌が膝の上でわずかに動き、雪の音が間を埋める。

 自分の鼓動の音が、耳の裏で重く跳ねた。


 伝えなければ。

 謝らなければ。

 彼をまたひとりにしてはいけない。

 息を飲み、マフラーの奥の唇を震わせた。


「本当のことを、全部話します。その時計のことも、わたしがしたことも……」


 その瞬間、風が止んだ。

 ほの白い粒が宙に浮かび、世界が息を止めたように静まり返った。


 わたしはマフラーの端を握ったまま、全てを話した。

 何かを伝えなければいけないと分かっていた。けれど、何から話せばいいのか、順序をつけようとするたびに胸の奥が軋んだ。


 陽岳さんはわたしが話している間、息を潜めていた。

 雪の光の中で、彼の制服の肩に落ちた粉が、音もなく溶けていく。




「……怖かったんです」


 風の音が戻るより早く、わたしは、静かに息を吸った。

 声に出してしまえば、それ以外の形にはできなかった。陽岳さんは小さく目を見開いて、それから何も言わずにうつむいた。否定も、問いも、なかった。


「わたしが、がんばれば全部なんとかなるって思っていました」


 吐息が白く消えていく。ゆっくりと、指の温度が戻ってくる。


「でも、どうやっても救えなかった。どんなに時間を戻しても。誰かを助けようとしても、いつも、違う誰かが傷つく。わたしが間違えた。何度も、何回も」


 胸の奥のつかえがほどけて、涙になりそうに滲む。


「それでも、止められなくて。もう誰にも迷惑をかけないように、一人でやらなくちゃって思って……」


 言葉の先が、雪明かりで霞む。


「でも、最後には自分まで消えて……それで終わりでした」


 言いながら、頬が痛いくらい熱くなった。

 彼はただ静かに座っている。少しだけ唇を結んだまま、わたしを見つめていた。その沈黙が責めではないことが分かるのが、余計に苦しかった。


 怖かった。

 この話を誰かにするのが、ずっと。

 わたしは、お母さんの遺言を守れなかった。

 でも、ようやく分かった気がした。

 本当に大切な時だけ。

 伝えたかったのは、きっと、時間を戻すときだけじゃない。


「また誰かを傷つけてしまうのが、怖いんです」


 手のひらに力が入る。時計の冷たい縁が皮膚に食い込んだ。


「誰も巻き込みたくなくて……全部、自分でやらなきゃって思っていました。

 でも……わたしじゃ駄目なんです。わたしじゃ、真夜の未来を変えられない」


 言葉は途切れていき、吐く息と一緒に雪の中へ消える。


 沈黙。

 遠くでバスのブレーキ音が小さく響き、現実を思い出させる。

 朝の空はまだ淡く、雲と空の境が曖昧だ。


 陽岳さんが吐いた息がすぐに風に溶け、もう一度深く吸い込まれる。


「……仕方なかったんじゃないか」


 淡々とした声だった。でも、その一語の奥に揺らぎがあった。

 顔を上げたわたしに、静かに頷いた。


「その時、そうするしかなかったんだろ。どうすればいいか分からないまま、それでも動いて……」


 足元の雪を見つめ、とぎれとぎれに言葉を探しているみたいだった。


「俺、昔は、あとからこうすればって。そういうことばっか考えてたんだ。でも結局、あの瞬間は、それしかできなかったんだって思うしかない。そうでもしないと、やってられないし、後悔すると気分も悪い」


 彼の声は落ち着いていて、不思議と寒さを遠ざけた。

 「でも」と言って、そこでいったん口を閉じる。

 代わりに視線だけがまっすぐこちらに戻ってくる。雪の明かりを映した瞳がぶれずに、わたしを射抜く。


「それでも、こんな大事なこと、簡単に諦められないだろ。真夜って子のことも、今のことも」


 歯を食いしばったその一言に、わたしの胸がかすかに揺れた。

 諦められない――その言い方は、わたしの気持ちの奥をそのまま掬い上げるみたいだった。


「……陽岳さん」


 声が微かに震えた。

 言葉を探すのに、少し時間がかかった。


「わたし、あなたを……勝手に巻き込んでしまいました。それなのに、こんなふうに優しくされる理由なんて――」

「理由とか、そういうの、どうでもいいよ」


 彼は、そこで初めて小さく首を振った。

 短く、かすれた声。


「今がこうなってるんだから、なんとかしなきゃいけないだろ」


 言葉の代わりに、彼がひとつ息を整えて姿勢を直す。

 ベンチの間に細く影が落ち、靴の先がわたしの隣まで届いた。

 何も聞かず、腕も伸ばさない。

 けれど、その近さだけで、“一緒にいる”という意思が伝わってきた。


 動作は小さなものだった。

 わたしの中の何かが、音もなく崩れた。

 ずっと、自分の責任で閉じ込めていた思いが、薄氷みたいにひとつずつ欠ける。


 わたしはマフラーを下ろした。

 頬に触れた空気が冷たい。

 けれどその冷たさの下で、不思議と生きている感覚があった。

 あの瞬間、闇に落ちたときのことを思い出す。

 もしかしたらお母さんが、あのとき引き戻してくれたのかもしれない。

 「生きなさい」と、言ってくれた気がした。


 生きている。

 また、やり直せる。この人となら。


 だけど、怖い。

 誰かに助けてと言う勇気が、どうしても出ない。

 ずっと、自分でなんとかしなきゃって思ってきた。

 もう一度、巻き込んで傷つけるのが怖かった。

 けれど、目の前の彼はただ黙ってそこにいて、わたしを責めるでも、怖がるでもなく、見つめてくれていた。


 だから――胸の奥で、声がほどけた。


「……陽岳さん」


 名前を呼ぶと、彼はほんの一拍で顔を上げた。

 唇の端が、ゆるやかに動く。何も言わないまま、ただ頷く。

 続く言葉を待っている。

 押されるんじゃなく、待つことで、背中を押してくれる人の顔。


 怖くないと言えば嘘になる。

 けれど、違う。

 怖いのは、誰かを頼って、また失うことのほうだった。


 涙が頬を伝う。

 止めようとも思わなかった。

 ぼたぼたと落ちて、マフラーに吸い込まれていく。


「わたし……ひとりじゃ、できません」


 声が震えて、途中で息が途切れた。


「がんばるって、何度も言ったのに……もう、どうしていいか、わからなくて……」


 陽岳さんはわずかに動いた。

 車道側に半歩立って、雪を踏む音が合図になる。


「――もう、大丈夫だ」


 その一言が、音よりも先に心臓に届いた。

 断定じゃない。それでも、確信のある響き。

 お母さんの「大丈夫」と重なって、胸の奥で小さな音を立てた。


 わたしは目を閉じた。

 泣き顔のまま、それでも声を絞り出す。


「たすけて、ください」


 言葉が雪の中に落ちる。

 その途端、肺の奥まで空気が入った。

 世界がゆっくりと明るくなっていくのがわかる。

 涙の向こうで陽岳さんが頷いた姿が、朝の光に溶けて見えた。


 初めて誰かに向けて放った小さな声が、雪の粒の間で静かに瞬いた。




*   *   *




 放課後の図書室は、冬の光がすでに傾いて、窓際の机を白く照らしていた。

 閉館前の時間。暖房の音だけが響いている。


 扉を引くと、背の高い影が一つ、すでに奥の席にあった。陽岳さんだった。手元の本を閉じて、静かにこちらを見上げる。

 他には誰もいない。司書も、常連の生徒もきょうは帰りが早い。

 がらんとした空間が、余計に息苦しいほど静かだった。


「……遅くなって、ごめんなさい」

「いや。ちょうど来たところ」


 その声が、机の向こう側で小さく響く。


 席に座ると、木の表面の冷たさがじわりと掌へ染みた。

 ここは、ほんとうは、真夜と並んでいた場所。

 たったそれだけの記憶が、今は痛みに近い。


 沈黙の中、背中に刺さるような視線の記憶がよみがえった。

 廊下で、教室で。通りすがりに向けられる“なにか”。

 理由を知らない顔たちの中で、わたしだけが責められているみたいで。

 でも、それも仕方のないことだと思っていた。

 わたしがしたことだから。巻き込んだのはわたしだから。


「友達と仲直り、できたのか?」


 窓の外に視線を逃がした。粉雪がまだ落ちている。


「……まだ、何もできていません」


 口の中で言葉を転がすように、ようやく出た声。

 わたしは、すべきことを果たせていない。


「真夜とも、挨拶以外はできていません。もう、怖がられてるのが分かるから」

「怖がられてるって分かってるのに、行くつもりなんだな」

「はい。だって、それでもやらなきゃって……思うから」


 陽岳さんは、消してしまった時間のことを覚えていた。

 彼自身が、この時計に深く関わったから……なのだろうか。理由はわからない。

 ひょっとすると、お父さんなら、分かるかもしれない。


 しかし、そうだとしても、真夜は何も覚えていない。

 消えたものは戻らない。

 そして、きっと心のどこかに傷が残っている。

 わたしがやったことで、今も苦しんでいる。


 謝らなきゃ。

 何度もそう思ったのに、勇気が出ない。何度も人生を弄んでしまって、いまさら、どんな顔をして謝ればいいのだろう。

 痛いくらいに手を握りしめていた。


 陽岳さんは少しだけ目を伏せ、机に置かれた自分の手を見た。

 その仕草は、何か思い出しているようにも見えた。


「俺さ、家、あんまり静かじゃないんだ」

「えっ……?」


 唐突に口を開いて、彼は笑うでもなく言った。


「小さい頃から、家がうるさかった。両親、ずっと喧嘩しててさ。朝も夜も声が大きい。だから、静かな場所が好きなんだ」


 淡々とした声だったが、どこか遠くの過去を踏まえるような落ち着きがあった。

わたしは顔を上げ、何も言えないでいると、続けた。


「まあ、俺は後ろ向きな理由だけどさ。でも落ち着くから。多分、夜風さんもそういう性格は一緒だろ」

「は、はい……」

「ここは誰もいない。ここなら誰にも聞かれずに、落ち着いて話ができる。だから、」


 “ここから何とかしよう”――彼が続けて言った。たったそれだけで胸が熱くなる。

 その言い方はとても普通だったのに、机越しに届いたその響きだけが、まっすぐに響いてきた。

 自分で切り取ってしまった世界の隅にいるのに、一人じゃない。


 わたしはマフラーの端を握りしめ、しばらく黙ったまま息を整えた。

 時計の金属がポケットの中で小さく触れ合う。

 母の声が一瞬よぎったけれど、今は違った。

 わたしが動かなくては、誰も救えない。


 目を閉じ、ひとつ深く息を吸う。

 胸の奥にある名前を呼ぶような感覚で、自分の言葉を選んだ。


「……陽岳さん」

「ん?」

「わたし……わたしは、真夜のお母さんとお父さんを、助けたいです」


 言葉にした瞬間、心臓が痛いほど脈打った。

 机の下で拳を握る。

 彼は静かに頷く。何も挟まない。続きを待ってくれているのが分かる。


「嫌われてもいい。やり直さずに、やり遂げたい」


 目をきつく閉じて吐き出すように言う。

 閉じた瞼の裏に、真夜の絶望と、四度の朝が交互に浮かぶ。

 あの白い光景、夜の続き。もう二度と繰り返したくない。


 彼の指先が机に触れて、ほんのかすかな音がした。

 それは頷きの代わりのようだった。


「一緒に考えて欲しいんです。どうすれば、助けられるかを」


 わたしはまっすぐに顔を向けて、頼んだ。

 声が震えて、終わりの言葉が風に吸い込まれる。


 陽岳さんは少し目を伏せ、何かを噛みしめるように沈黙した。

 やがて顔を上げ、視線がまっすぐ重なった。


「分かった。やろう」


 その短い言葉が、妙に熱を持って胸に落ちた。

 “ひとりじゃない”という事実で、全身が少しずつ冷たさを忘れていく。

 わたしは深く息を吐いた。

 外の雪が少し強まり、窓硝子に細く筋を描いていく。

 それを眺めながら、机の端にノートを置いた。

 視界が僅かに滲む。


「……ありがとう」


 その一言を絞り出すまでに、呼吸を三度繰り返した。

 彼は、眼差しを逸らさないまま、わずかに笑った。






 その夜、雪が降りはじめた。

 窓の外はまだ街灯のあかりが届くほどの静けさで、降りてくる粒のひとつひとつがゆっくりと、黒い空の向こうへ溶けていくように見えた。

 カーテンから離れて、机の上にノートを広げる。スマホをスピーカーモードにする。


「……聞こえますか?」

『ああ、ちょっとノイズ入ってるけど大丈夫。窓、開けてたの?』

「はい。少し寒いですが、外の空気を感じたくて」


 閉じたカーテンの端が揺れる。

 自分の息が白く映るのを見て、ようやく夜が深くなったことを実感する。


『そっちも降ってる?』

「降り始めました。予報より早いみたいです」

『……この雪が、明日には吹雪になるのか』


 その一言で、息が詰まった。

 画面の向こう側で、彼も同じ景色を思い出している。

 わたしが最後に見た、白い道。


 しばらく何も言えなかった。

 沈黙のまま、ノートに落ちる雪明かりだけが揺れる。

 声を出したのは、彼のほうが先だった。


『ごめん、変なこと言った。なんか、思い出しちゃって』

「……大丈夫です」


 わたしは小さく首を振りながら言った。


「もう後悔はたくさんしてきたので。いま悔やんでも、間に合いませんから」


 その言葉を聞いたあと、彼が深く息を吸う音がした。


『じゃあ、整理しよう。あの事故は何が原因だったんだ?』

「あの日は風が強くて視界が悪かったから。たぶん、最初に車がスリップして……そこで、バスが事故に巻き込まれたんです」


 わたしは今日の放課後までにまとめた、線と点だらけのページを見下ろす。

 陽岳さんも向こうで、何か紙をめくるような音を立てた。


『あの日は、確かにすごかった。真っ白で、車からじゃお互い何も見えなかったかも』

「えっ?」

『その、前回はバスの近くにいたから。雪がすごくて遠くが見えなかった』


 彼の言葉は淡々としているのに、胸の奥が痛くなる。

 そうだった。彼は見ていた。わたしがバスの前に出て行って、消えていった瞬間を。


 すぐに声を出そうとしたけど、喉がふるえて言葉がうまく出なかった。


『ごめん。余計なことを言ったよな」

「いえ。むしろ、忘れてはいけないと思ってます。あの場所で、わたしは止まらなくちゃいけなかったのに」


 机の端に置いた時計の影が、わずかに震えた。

 その重みを指先で確かめるように撫でる。手放せない。四度目の夜、あれを使えずに終わった記憶が、まだ体に残っている。


 彼の声が少し遠くなり、窓を開ける音がスピーカーから聞こえてきた。


『たぶん普通の投稿だけじゃ伝わらない。言葉って軽く見られるから。これ、人の目で見て分かるものに変えたほうがいい。誰が見てもそうと分かる形に』

「……たとえば、写真とか、ですか?」

『うん。といっても、俺もどうすればいいか分からないけど。未来から、写真や動画を持ってくるわけにはいかないもんな』

「ええと……すみません。この時計でも、そこまでのことは、できなくて」


 映像。写真。

 ――なるほどと思うと同時に、ため息が出た。

 確固たる証拠があれば動いてくれるに違いない。でも未来の事故の写真なんて、やっぱり信じてはもらえないだろう。そもそもスマホのデータは、時間を戻しても持ち越せない。


『別にそのものじゃなくてもいい。

 風が巻く瞬間を撮って、ホワイトアウトで視界がなくなるのを分かるようにする、とか。できるだけあの時の瞬間を、それっぽく見せる感じで』

「でも、どこに、どうやって見せれば信じてもらえるでしょうか」

『直接バス会社に送っても、多分スルーされるかぁ。匿名で“危ない”って言われても、怪文書扱いだろうし。名前付きで送っても、なんでわかったんだって話になるだろうし』

「……そういうものですよね」

『あ……うん。だけどまだ、時間はある。この後も本気で考えてみるよ。この一回でなんとかしないとな』


 わたしは笑うような、泣くような息を漏らして「はい」とかえした。

 窓の向こうで音を立てて、雪が吹きつけてきた。


『あのさ、夜風さん』

「はい」

『もしうまくいかなくても、全部自分のせいとか思うなよ。あの時だって、どうしようもなかった』

「……ええ」


 彼のその言葉に、胸の奥が小さく鳴る。

 それは優しさであり、同時に刃でもあった。

 もう二度と同じ過ちを繰り返すつもりはない。だけど、あの時バスの前に飛び出したのは、わたしの意思だ。

 あれを“仕方なかった”で片付けてしまえば、たぶん、また繰り返してしまう。


「いえ……あれはわたしのせいです。事故は偶然でも、ああなったのはわたしが決めたことなんです」

『……夜風さん』

「でも、もう同じことはしません。あんな責任の取り方は、絶対に、もう二度と」


 お互いに無言。

 少しして、また静かな呼吸が聞こえはじめる。


「陽岳さん」

『……うん』

「わたし、真夜に謝らなきゃいけないんです。どんな結果になっても。

 事故を止めるだけじゃなくて……それをちゃんと言わなきゃ、意味がない」


 言葉を並べながら、自分の世界がまた少し現実に戻る気がした。

 体の中で、冷たさと熱が交互に巡る。

 彼は返事をしなかったけれど、マイクの向こうで小さく頷いた気配がした。


 雪は一段と強くなっていた。

 窓硝子を流れる粒は、さっきよりも大きく、速い。

 その音が、会話の合間に入り込んでくる。


「……明日は、もう一度現場を見てきます。どうすればいいのかを、ちゃんと確かめたいですから」

『うん。それがいいと思う』


 ノートに視線を戻す。

 今日だけで書き込んだ線は十ページを超えていた。

 決め手はまだ見えない。けれど、どう動けばいいのか、少しずつ見え始めている。


 だけど、それだけでは終われない。

 もし、この事故をやり過ごしたとしても、真夜との間に残った亀裂は消えない。

 信頼関係を、裏切ったのはわたしだ。

 だから、明日。逃げない。


 わたしはペン先を止め、深く息を吸った。

 スマホ越しに、彼が言葉を探している音がかすかに聞こえる。

 ありがとう、が喉まで出かかったけれど、まだ違う気がした。


 静かな数秒が流れる。

 やがて彼が小さく「おやすみ」と言い、わたしも「おやすみなさい」と返す。

 通話が切れたあと、夜は一気に冷たくなった。


 ノートを閉じてから、改めて窓の外を見る。

 白い粒が網戸の向こうで踊っている。明日の朝も、降り続ける。

 胸の奥で、眠れないほどのざわめきが続いていた。



 事故の前日。夜明けの空は、白と灰のあいだで迷っていた。

 夜から続く雪が、音を立てずに降りてくる。風はまだ穏やかで、けれど粒の重さが、いつもと違う。あしたはきっと、本当に荒れる。そんな気配をはらんでいた。


 吐く息が薄く凍っていく頃、わたしは交差点に着いた。ここだ。

 ニュース写真と角度を揃える。背景の屋根、そして歩道脇に並ぶ電柱の影。大きな神社の林が向かいに見える。三車線と三車線が重なる広い場所。

 朝の通勤にはまだ早く、車はまばらに走っている。

 ここから見て少し先の歩道に、バス停があった。

 風で積もりきらない雪が、路線の表示板の表面をさっと撫でていく。


 しゃり、と背後の雪を踏む音。


「早いな」


 振り向くと、陽岳さんが息を白くして立っていた。外気に濡れた髪が少し跳ねている。


「おはようございます」

「おはよう。……朝は冷えるな」


 並んで立つ。信号の青と赤が、二人の頬を交互に照らした。

 わたしはマフラーに口を埋めながら、朝日が差し始めたばかりの景色を眺めた。


「事故が起きるのは、ここの真ん中あたりだったと思います」


 わたしは道路を見渡しながら言った。

 破片はこの標識の手前に落ちてたはず……記事の細部は、正直もう曖昧だ。

 彼は頷いたあと、屈んで雪を掬い、小さく握ってはほぐした。


 二人で信号の向こうを見た。


「バスと……横から来たトラックの事故、だよな」

「はい。吹雪でトラックの運転手が信号を見失って、減速できずに……。

 バスも、直前まで見えなかったみたいです」


 口に出すと、胸の奥がきゅっと固まった。

 ニュースでは“バス事故”の見出ししかなかったけれど、実際には違った。

 乱暴に運転した誰かのせい、という単純な話ではない。

 この雪が、視界と判断を一瞬で奪った。


 陽岳さんが、雪を踏む音のほうへ目を向けた。


「こうして見るだけでも、トラックの方を止めるのは難しいな」

「はい。どこの会社の車なのか分かりません。

 わたしたちが何か言える立場でもないですし……」

「バスなら、運行表もあるし、止められるかもしれない」

「でも、それで別の車が事故にあったら」


 吐いた白い息が、すぐ空に溶けた。

 胸ポケットの内側で手が汗ばみ、紙がしわになる。

 誰かが犠牲になる形でしか世界が動かないのなら、傷口が広がるだけな気がした。


「それは今考えても仕方ない。まずは目の前のバスだ」


 彼は少し間を置いて静かに言った。


「どこか一つ止まれば、起きることも変わる」

「……はい。その通りです」


 わたしはうなずき、雪の積もる道路を見た。

 でも、どう伝えればいい? ただ“危ない”と言っただけでは、誰も信じない。


「どうすれば、話を聞いてもらえるんでしょう」

「うーん……」


 陽岳さんが眉のあいだに皺を寄せ、しばらく空を見ていた。


「実際に来てみたけど、ここで雪が降ってる写真を撮ったって、きっと運行は止まらないだろうな……あ、そういえば」

「?」


 彼は呟き、スマホを取り出した。


「運行情報を拾ってるアカウントがあるのを思い出した。非公式のだけど、地域のアナウンスみたいに使われてる。人が投稿した道路の写真とか天候の報告に反応して、情報をまとめてるやつ。フォロワーも多い」

「そんな仕組みがあるんですね」


見せてもらった画面には、雪道で車列が滲む写真や、通行止めの報告が流れていた。

彼は指先でスクロールしながら言う。


「こういう写真があれば、“注意しよう”って思ってもらえるかもしれない。

 投稿そのものを見にくる人もいるし」

「……やってみます」

「うん。見た瞬間に危ないって分かるような一枚を狙おう。あいつら、反応早いから」


 そのとき、背後から声がした。


「おはよう、こんな朝に二人で何してるんだい?」


 黒い犬を連れた老夫婦が雪を踏みながら近づいてきていた。

 純粋な興味の光に、わたしは言葉を失う。

 「どうしよう……」声はほとんど吐息になった。


 するとかわりに、陽岳さんがすぐに一歩前に出る。


「学校の自由研究なんです。冬の朝の交通量を調べてて。雪が強くなる日ほど滑る車が増えるのかなって、実際変わるのかを見ていたんです」

「あら、えらいねぇ。この時期にご苦労さんだ」


 わたしも慌てて補う。


「明日は吹雪になるって聞いたので、その前に様子を見ておこうと思って。あの……わんちゃんのお散歩、ですよね。滑らないように気をつけてください」

「あら、ありがとうねぇ。あなたたちも気をつけなさいね」


 老夫婦は顔を見合わせ、軽く笑って通り過ぎていった。犬も慣れた様子で雪道を歩いていく。


 その背中が遠ざかるのを眺めながら、胸の奥に小さな温度が残った。

 “危ないから気をつける”。たったそれだけの言葉が通じたことで、心の奥が少しあたたかくなった。

 思っていたより、ちゃんと聞いてくれる人がいる。

 ほんの一言のやりとりだったのに、“伝わるかもしれない”という感覚が、雪と一緒に心を覆った。


 でもその温かさはすぐに、別の冷たさに変わる。

 誰かに理解されただけで、こんな気持ちになるわけにはいかない。

 わたしが伝えなきゃいけない相手は、真夜だ。


 陽岳さんが地面の雪を軽く蹴り、息を吐く。


「もうすぐ八時だ。学校に行こう」

「はい」


 交差点の先には、まだ誰も歩いていない。

 雪を踏みしめるたび、音が小さく沈んでいった。

 胸の中で、やるべきことの順番をひとつずつ並べ直しながら、わたしは前を見て歩いた。




*   *   *




 廊下の奥で椅子の脚が一度だけ軋む。

 窓から射す昼の光が、床に細い影を落としていた。

 放課後のように静まり返った空気の中で、わたしはノートを胸に抱きしめ、ほんの少し緊張していた。


「真夜……」


 ドアの隙間から顔をのぞかせた真夜が、「……小雪ちゃん?」と呼ぶ。

 きっと断られると覚悟していたのに、真夜は来てくれた。

 でも、その声のトーンだけで、彼女がどれほど警戒しているのか分かった。


「ごめんね、急に。少し話したくて」

「うん。いいよ」


 返ってくる声はやわらかいのに、瞳は落ち着かない。

 スカートの端を指でつまむ癖。昔から緊張すると出る仕草だった。


「今日の昼、授業中眠そうだったね」

「うん。なんか変な夢見た気がするんだ」

「夢?」

「うまく説明できないけど、すごく冷たくて……目が覚めたとき、泣いてた」


 わたしは小さく息を飲む。

 記憶にはない感情の残響。それを彼女の身体が覚えている。


「……最近、その、体調は大丈夫?」

「平気。でも学校に来ると、なんか動悸がする。へんだよね」


 真夜は笑った。ぎゅっとマフラーを握りしめた指の白さが、笑いとぜんぜん合っていなかった。

 出来る限り普通の会話を続けようとしている。でも顔色は薄く、目の焦点が不安定で。


「昨日……急に帰っちゃって、ごめん」

「ううん。なんか、忙しいのかなって」

「ちょっとね。でも、あのね。実は伝えなきゃいけないことがあるの」


 真夜が視線を机に落とす。息の奥に、なにかを感じ取ったような緊張が走る。

 その瞬間、わたしはすべてを説明する覚悟を決めていた。

 けれど彼女の顔が、ふいにこわばった。

 何かを察知したようにスカートの縁を握り締め、眉を寄せる。


「……真夜?」

「ごめん、なんか……怖い」

「怖い? どうして」

「わかんない。でも小雪ちゃんの声が、昨日の夢の中と同じで」


 そして、息を詰めた。

 見えない記憶が彼女の心臓を締めつけている。

 それがわたしの繰り返してきた時間の、歪んだ名残だと分かっても、何もできなかった。


「真夜、落ち着いて。話すだけだから――」

「待って!」


 叫びのような声。真夜は耳を押さえて頭を振った。


「やめて……今、それ聞いたら駄目な気がする。ごめん、小雪ちゃん」


 机と椅子が擦れる音だけが響いた。

 わたしは唇をかすかに噛む。

 首を横に振って、いやいやと頭を抱え込む真夜を前に、胸の奥が冷たくなる。


 わたしが予告して、事故が起こる。


 時間を戻すたびに感情の断片が積み上がる。ならば真夜は今まで、一体どんな気持ちで話を聞いていたのだろう。

 いままで、知ろうともしていなかった。


 もう、なにも届かないのかと思った。

 それでも、彼女の耳を塞いだ手の内側、思わず小さな声がこぼれた。


「……やだ、怖いよ」


 一生のお願いをするように、頭を下げた。

 声にならない祈りだけが残る。


 真夜がか細い息を乱しながら、ゆっくりと目を伏せた。

 その様子を見て、わたしの中の混乱が少しずつ落ち着いていく。

 泣きたい気持ちは喉までこみ上げたけれど、ここで折れたらすべてが終わる。

 倒れそうな心を支えるように、息を吸い直した。

 もう逃げない。

 ここで諦めるほうが、ずっと怖い。


 わたしはしゃがみ、彼女と同じ高さまで顔を落とした。


「……分かった。ごめんね。何も言わない。でも、これだけは聞いてほしい」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。

 真夜の涙の跡が、ほとんど乾かないまま光っていた。

 逸らさないように目を合わせる。

 彼女は迷いながらも、小さく頷く。


「……明日、お母さんとお父さんを、バスに乗せないでほしいの」

「え……どういうこと?」

「理由を言ったら、たぶんまた怖くなると思う。だから、今は言わない。

 でも、意味はあることだから。

 あとで全部説明する。ちゃんと謝る。だから――今はお願い」


 息を飲む音がした。

 真夜は視線をさまよわせた。目の奥に戸惑いと混乱が交じっている。

 しかし、それで終わりなのか……? と、言わんばかりにわたしを見る。頷くと、わずかに気を緩めたようだったけれど、微かな疑念が浮かんだようだった。


「……どうして小雪ちゃんが、そんなことを言うの?」

「どうしてかは、今は言わない。でも、信じて」


 真夜の瞳に一瞬だけ光が揺れた。

 彼女は自分の胸に手を当て、何かに気づいたようにまぶたを閉じる。

 疑いたくない。けれど動揺してしまう――その心の揺れが、空気に触れて伝わってきた。


 何が起きるのかは、今は言わない。

 どれだけ時間をかけてでも、あとで必ず謝る。

 ほんとうのことを全部話す。

 でも今は、彼女とその家族に生きていてほしい。

 わたしの言葉で再び苦しめるくらいなら、沈黙を選ぶ。

 だから今は、伝えて動いてもらうことがすべてだ。


 「お願い」ともう一度だけ告げると、

 真夜はしばらく動かず、そのまま立ち上がって背を向けた。何の返事もないまま出ていく真夜の足取りは、ひどく重く見えた。


「真夜……」


 名前を呼んでも、彼女は振り返らなかった。


 いかないで――。

 それは声にならないまま、喉の奥で溶けた。

 視界の端で、雪がまた静かに降り始めていた。






 雪が静かすぎて、時間だけが風のように流れていく。

 スマホの光に照らされたノートが、まだ机の上に開きっぱなしになっている。


 線だらけの地図、色褪せた文字。

 できることは、もう全部やった。

 それでも、眠れなかった。


 夕方から何度も画面を更新して、送信の確認をした。

 バス会社への匿名投稿――路線と時刻、交差点の天候。「危ない」とか「止めてほしい」とか、そういう言葉を足す勇気は、どうしても出なかった。

 言葉を選びすぎて、結局「気象状況の確認をお願いします」とだけ書いて、匿名フォームに送信ボタンを押した。送信できたのは夜十時を過ぎてからだった。

 「これでは間に合わないかもしれない」と思いながら、指先に力が入らなかった。



 送信記録を閉じる直前、通知が一つ増えていた。

 簡素なメッセージと一緒に、動画のサムネイルが送られてくる。

 開くと、夜の坂の下交差点。はっきり分かるほどの吹雪ではないけれど、雪筋が斜めに流れていて、信号の光を一瞬ごとに覆い隠している。

 投稿時刻は午前〇時二十八分。

 わたしと別れたあとも、彼はあの場所にいた。


 激しく胸がざわついた。

 わたしの言葉を信じてくれたとはいえ、こんな時間に外を出歩いていたら、危ないのに。動揺を隠せない指先を動かして、投稿先のSNSを開く。


〈0:00 坂ノ下交差 吹雪で視界不良 #札幌市 #道路 #天候〉


 載っているのは写真。

 さらに投稿にはすぐ下にリプライが二つほどついていた。

 「ここ、昼間も風強いよね」「明日はやばそう」。

 非公式の運行情報アカウントが、ほんの数分でそれを拾って反応した。

 「#坂ノ下交差 の映像ありがとうございます。明朝の運行に影響あるかもしれません」、自動メッセージとは少し違う定型文。


 それだけのやりとり。でも、胸の奥で何かがわずかに動いた。

 彼の投稿が誰かの目に留まった。

 断片的なリプライが雪のように積もっていくのを、わたしはじっと見ていた。



 送信画面を閉じると、部屋の静けさが戻る。風の音が壁の内側まで届いてくる。

 時計を見上げても、針の動きはほとんど感じられない。

 真夜とは、教室で別れたきりになってしまった。

 伝えた言葉がどう受け取られたのかも分からないまま、わたしにはもう何もできない。

 毛布を肩まで引き寄せても、眠気は降りてこない。

 何をしても胸の熱が消えなかった。


 「どうか、止まって」と祈るように呟く。

 お母さんなら、どうしただろう。

 真夜に信じてもらえなかった。

 もう一度話せたとしても、あの目の怯えを見るのは耐えられない。

 でも、放っておけば、きっとまた――。


 答えのない問いばかりを抱えているうちに、外が少しずつ青白くなっていった。

 窓の縁に気配を感じて顔を上げると、雪が淡く光っている。

 電気を落としても、光の粒が消えなかった。


 スマホが一度だけ震えた。

 その音が、空気に吸い込まれて消える。画面を見ると、心臓だけが跳ね上がった。

 タップする指が冷たい。画面には真夜の名前が光っていた。


『今日は学校休むから、ちゃんと説明してね』


 文章はそれだけ。

 昨日、廊下で伝えた言葉への返事。

 時間を戻しはじめてから止まっていた会話の下に、急に現れた続きを見る。


 目の奥が熱くなる。

 張りつめていた何かがほどけて、涙が勝手に出てきそうだった。

 震える指でスマホを握りしめていると、ほかの通知アイコンがもう一つ光った。

 陽岳さんからの短いメッセージ。


 メッセージには、「見て」とだけ書かれて、リンクが添付されている。

 タップすると、バス会社の公式運行情報ページが開いた。

 電子掲示の写真が一枚。


〈大雪のため 一部路線運行見合わせ〉

〈社内規程に基づく臨時運休〉の文字。


 その一文を読んだ瞬間、胸の奥の力がすっと抜けた。

 窓の外の風の音が急に大きくなる。

 スマホを置くと、握っていた手のひらに汗が滲んでいた。

 たった数行の文字が、こんなにも重く感じたことはなかった。


 スマホの動画サイトを開く。地元のニュースが今日の出来事を伝えている。


 『本日、雪の影響により――』


 内容を聞くより先に、胸の奥で風が吹き抜けた気がした。

 スマホの画面には〈運行見合わせ〉の文字がまだ光っている。

 再読み込みしても消えない。

 何度目かの確認のあと、ようやく手が落ちた。


 バスは止まった。

 それだけで、胸の奥で張りつめていた糸がぱちんと切れる。

 手のひらを見つめる。震えているのかどうかもわからない。


 たぶん、真夜のお母さんとお父さんも、止まってくれる。

 何が決定的だったのかは分からない。匿名の投稿か、陽岳さんの映像か、誰かが見てくれた声か。

 それとも、ただの偶然かもしれない。


 ――でも、止まった。

 止まってくれた。それがすべてだった。


 それでも心が落ち着かなかった。

 止まったとしても、それで別な事故が起こって、巻き込まれる人がいるかもしれない。事故が起こらないという証拠を、目で確かめなければならない


 スマホの時計を見ると、針が六時十五分を指している。

 ストーブを落とし、マフラーを巻き直し、コートの襟を立てた。

 靴音が廊下に響く。

 珍しく早起きしたわたしを見た父が、寝ぼけまなこで「もう出るのか」と一言、驚いた声を漏らした。


 「うん、ちょっとだけ」


 それだけ答えて、玄関の雪明かりの中に出た。




 風が目尻を冷やしていく。

 歩道を踏むたび、雪の層が細かく鳴った。

 止まるはずのバスが来ない停留所を通りすぎ、坂ノ下交差点を目指す。

 道の端に積まれた雪は、夜のあいだに凍って、透けるような青になっていた。


 七時ちょうど。交差点は薄靄に包まれていた。

 街灯がまだ点いていて、信号の光がぼんやりと白の中で滲んでいる。

 雪は思っていたよりも強い。顔を上げると無数の粒が視界を横切っていった。

 車の数は少なく、トラックは一台も通らない。今日はまるで誰もいない別の場所のように静まり返っている。吹雪の荒い風音だけが、広い道路を吹き抜けていた。


 「……これで、いいんだよね」


 風の中。白いマフラーの中で、小さく声にしてみた。

 真夜の家でも、きっともうニュースを見ている。

 お母さんがリビングのテレビを見て、お父さんが「今日はやめておこうか」と言う。そのやりとりを想像するだけで、気持ちがわずかに落ち着いた。

 少なくとも、もう真夜に辛い想いをさせることはないって……安心できたから。


 七時半。まだ何も起きない。

 雪の粒の流れ方が、ゆっくりから時々速くに変わって、また静まる。

 ほんの一瞬、視界が真っ白になった。

 けれど、何も現れない。

 衝突音はなかった。ブレーキ音も、タイヤの唸りも、聞こえない。

 

 曇ったゴーグルのような視界の向こうで、人の脚跡が二つ、緩やかに並んでいる。

 自分のものと、通りすぎた誰かのもの。

 一つの線になって、その先が雪に埋まって消えていく。

 わたしは、ずっとそこに立っていた。


 八時。

 凍えるような吹雪の中で、庇うようにスマホを取り出す。張り付いた雪が溶けて、側面が凍った画面。手袋を外してスワイプして、ニュースアプリを開く。

 最新の記事の見出しが並んでいるけれど、「交通事故」の文字はどこにもなかった。

 “道路凍結”“通勤影響”――そういう文字ばかり。


 瞬きを繰り返しても何も変わらない。

 ページを更新しても、差し替えられた見出しは雪かきの写真。

 事故は、起きなかった。

 ようやくその意味を、現実として理解する。


 風が頬を荒っぽく撫でた。一瞬、視界はひらけ、空の奥が薄く青く見えた。


 雪の結晶が息に溶ける音がした。

 その瞬間、胸のどこかで、はじけるように何かが砕けた。

 力が抜けて、膝がわずかに沈む。

 膝の裏から指先まで、すべてがゆるくほどけていく。

 長いあいだ絡みついていた糸が、ゆっくりと体から離れていく。


「……あっ、あぁ……」


 声のつもりだった。けれど出たのは、掠れた呼吸の音だった。

 マフラーの内側が急に濡れていく。

 相変わらず視界は白くて、どこまでが空で、どこまでが雪なのか分からない。


 よかった――たぶん、それが最初の感情だった。

 けれど次に浮かんだのは、嬉しいと思うような感情ではなかった。


 何度も泣かせた真夜の顔、

 何度戻っても救えなかった母の言葉、

 そして、この手から零れ落ちた時計の冷たさ。

 その全部が一度に押し寄せた。


 嗚咽が声にならないまま、空気の中にただ溶けていく。

 誰にも見られない建物の影で、声にならないまま泣いた。

 真夜の両親も、トラックも、バスも、誰も死ななかった。

 世界が変わったという事実が、震えるほど、まぶしかった。




*   *   *




 朝の光は、まだテーブルの端をかろうじて照らすほどだった。

 ストーブの音と湯の沸く匂い。小さな湯気の筋が立ちのぼり、やがて消える。


 キッチンに出ると、父がテーブルの前に立っていた。

 すでにコートを椅子の背にかけ、出勤の支度を済ませている。

 その前には湯呑みが二つ――お父さんと、そしてお母さんのもの。


 二つとも薄く湯気を立てていて、母の方のテーブルにはわずかに水滴が落ちていた。たぶん、さっき注がれたばかりだ。

 見慣れたはずの情景なのに、どうしても胸の奥がざわついた。

 お父さんが、お母さんの席をそのままにしていることを、わたしは初めて知った。


 気づかれぬまま立ち尽くしていると、お父さんが振り向いた。


「……毎日、俺より早いな」


 目が合った瞬間、声の調子がわずかにほどけた。咎めるわけでもなく、本当に不思議そうに。


「今日はね、なんだか早く起きちゃって」


 軽い調子で返すと、お父さんは一拍おいて、ふっと息をついた。

 それきり言葉はなく、かわりに茶筒を取って三つ目の湯呑みを持ち出してきた。


「待ってろ」


 盆を持って戻ってきたお父さんが、わたしの前に湯呑みをそっと置く。

 三本の湯気が静かに立ち上がった。

 小さいころから見慣れていた並び──でもずっと前に、もう出さなくなったと思っていた。

 もしかしたら、知らないあいだにも、父はこの形を続けていたのかもしれない。


「……冷めないうちに、飲め」


 そう言って、父は向かいに腰を下ろす。

 湯気が顔のあたりで揺れて、表情の奥が少し見えにくい。

 それでも、言葉を探しているのがわかった。


 わたしは湯呑みを両手で包み、深く息を吸う。

 香りのなかに、季節の端のような苦味があった。


「ねえ、お父さん」


 声に出した瞬間、心臓が小さく脈打つ。


「……この前、教えてくれたの。お母さんのことを話してくれて、うれしかった」


 父の指が一瞬止まる。

 湯気の向こうで、瞳の奥がすこし揺れた気がした。

 でも、何も言わず、ただわたしの方を見た。

 わたしは構わず続けた。


「ありがとう。聞けて、よかったなって」


 ほんの短い時間、父のまぶたが震える。

 理解してくれたのを感じた。

 その「話してくれた時間」を、今のお父さんが覚えていないことは、分かっている。

 でも、どんな形であれ、わたしがそれを経験した。そして今ここにいる。

 そのすべてを、父は追及しない。

 湯呑みを持ち直し、小さくうなずくだけだった。


「……そうか」


 その声が、湯気の中で沈む。

 もう一度だけ、うなずいたあと、お父さんは立ち上がった。

 コートのボタンを留めながら、窓の外をちらと見やる。

 目尻のシワの奥に、穏やかな光が差していた。


 玄関まで見送る。

 外気がドアの隙間から入りこみ、雪と朝日の匂いが一瞬だけ家の中に流れた。

 コートの襟を上げ、振り向く。


「小雪」

「うん」

「今日も冷える。転ぶなよ」


 響きは短いのに、どこかあたたかく、懐かしかった。

 わたしは少し驚いて、すぐに笑った。


「いってらっしゃい、お父さん」


 扉が閉まると、家の中にはまた静かな世界に包まれた。


 テーブルの上には、三つの湯呑みが置かれている。

 お母さんの席のものも、お父さんのも、わたしのも。

 背筋を伸ばしたら、ほんの少しだけ、涙が滲んだ。






 坂の上まで来ると、風向きが少し変わった。

 白い粒が頬に当たる。冷たいというより、ただ、静かに降りていた。

 闇が明けきらない曇天の下、街灯の光が細かく滲んでいる。


 わたしは欄干の手すりに指をかけたまま、じっとその光を見ていた。

 陽岳さんが言っていたように、今日は休みで人通りがほとんどない。

 けれど、胸の奥は落ち着かなかった。


 すべてが終わったはずなのに。

 運命をどうにもできないと何度も思って、それでも諦めきれなかった時間。

 バスが止まり、真夜のお父さんとお母さんも家にいた。

 事故は、起きなかった。

 それは確かに救いの結果で、もう何も失われなかったはずなのに――心は晴れなかった。


 ポケットの懐中時計をきつく握りしめる。息が白く伸びて、すぐ空に溶ける。

 親友を何度も傷つけた。その記憶は消えない。

 「何も言わなかった」こと、それが一番の痛みとして残っていた。

 最初から打ち明けるべきだった。

 どんなに信じてもらえなかったとしても、話さなければならなかった――あの時計のこと、時間を戻そうとしていたこと。


 たとえお母さんに「誰にも話してはいけない」と告げられていたとしても。

 たとえ陽岳さんが「お前に責任はない」と言ってくれたとしても。


 言わなかったこと、それ自体がわたしの罪だ。

 真夜を怖がらせ、疑わせ、何度も泣かせてきた。

 「仕方がなかった」で済むことじゃない。


 指先に触れた冷えた金属の感触が、懐中時計の輪郭を教える。

 ポケットの内側、布の擦れる音。

 “巻き戻す”ための道具なのに、今だけは、その存在がむしろわたしを過去に縛りつけていた。


 ふと、足音。

 気配を感じた瞬間、坂の下の方からひとりの影が揺れた。

 真夜だ。マフラーの色で、すぐわかった。


 以前なら、彼女はマフラーの端を軽く叩き、二度コンコンと合図をくれたはずだった。

 でも今日は、その仕草はなかった。

 足を止め、距離をとるようにして立ち、視線をこちらではなく地面に落とす。


 その姿を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。

 真夜が不安そうに見える。

 まるで今から、人生がまた崩れるような話を聞かされるのではないか――そんな恐れを背負っている顔だった。


「……真夜」


 声を出すだけで、息が震えた。

 彼女は反応する。けれど、近づこうとはしない。


 少しの間、風の音しかない。

 白い粒子が二人の間に舞い落ちる。


 やっと真夜が顔を上げた。瞳が小さく揺れている。


「小雪ちゃん……聞いても、いいんだよね」


 頷く。声を出す余裕がなかった。


「どうして、あの日、うちのお父さんとお母さんを家に留めろって言ったの?

 ……あのとき、すごく怖かった。何が起きるのか分からなかったけど、どうしても嘘だと思えなかった。

 だから仮病を使って休んだ。

 バスが止まって、それで午前中、お父さんもお母さんもずっと家にいてくれた。

 でも……どうして、そんなことを頼んだの?」


 雪が、真夜の肩に積もっていく。

 わたしは答えようとして、言葉を探した。けれど、声にならなかった。


 真夜は続けた。


「それに……学校のことも。急にみんなが小雪ちゃんを避けるようになった。何かされたわけじゃないのに。

 今も嫌われたままで、誰も理由を教えてくれなかったよ。

 でも、どうして? なんでみんな、あんな変な空気になってたの?

 ねえ。わたしが怖いって感じてるの、分かってるよね。何が起きてるの? ……小雪ちゃん、一体何をしたの」


 矢継ぎ早に出てくる疑問の全部が、わたしの胸に突き刺さる。

 雪の降る音だけが、二人の間をかすめていく。


 真夜の声が震えている。

 その震えは、わたしが何度も時間を戻した夜の恐怖の残り香。

 確かにこの世界に残ってしまった“歪み”だ。


 わたしは俯き、手のひらの中にある時計の重みを確かめた。

 答えを探そうとしても、どの言葉も軽すぎた。


「……真夜」


 声にならない吐息が、風に溶けていく。


「全部、話すよ」


 言った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 その言葉ひとつで、何もかも曝け出す覚悟をしていたはずなのに、口の中が急に乾いた。

 思い返してしまう――あの昼の光。カーテンの間から差す風の音。

 全部一人でやり遂げると心に決めた時、たくさん嘘をついた。

 不安を感じている真夜の顔を見ながら、守るつもりで放ってしまった、これも嘘。


 ――なんでもないよ。


 あの瞬間に、胸の真ん中にとげが刺さった。

 いまも息をするたび、痛む。

 知っていながら、わたしは何も言わなかった。真夜にそれを信じさせた。


 でも、もう逃げない。

 お母さんが、わたしに残してくれた、「本当に大事なときだけ」。

 その意味を、やっとわかった気がする。

 時計を誰にも見せないことじゃない。秘密を守ることでも、巻き込まないことでもない。

 本当に大切な人を、信じること。

 わたしにとってそれは、いま、ここしかない。


「……信じてもらえないかもしれないけど、見て」


 手袋を外す。

 白い息の中で、懐中時計の銀が鈍く光った。

 曇天の色を小さく閉じ込めながら、淡い息のようにかすかに脈打っている。

 何も言わない真夜を見て、わたしは、雪の上で立ち止まった。


 真夜の瞳が、わずかに揺れる。

 その表情を、わたしは知らない。


「真夜……?」


 怖がっているようでもあり、何かに触れそうになっているようでもある。

 唇がかすかに震えて、声にならない吐息が漏れた。


『もうやめて!』


 ——あのとき、下駄箱の前で。

 払いのけた手。

 その中で滑り落ちた銀の輝き。

 記憶の底から、ほとんど消えかけた痛みがふっと浮かぶ。


 真夜はその痛みに、無意識に手を伸ばした。

 掴みとるように、ゆっくりと。


 わたしは驚いて息を止めた。

 拒む理由は、ない。そのまま待つ。

 真夜の指先が、雪を溶かすようにそっと時計の縁に触れた。


 風が止んだ。

 白い光が、街灯の明かりを滲ませながら揺れている。

 その中で、真夜の瞳がふいに見開かれた。


「……っ」


 声にならない息。

 顔の筋肉がわずかに引きつって、そのまま彼女は動きを失った。

 瞳の奥で、何かが一気に結ばれていくのが見えた。

 理解よりも早く、それは衝撃として彼女を貫いた。


 わたしは思わず後ずさった。

 彼女の肩が小刻みに震えている。

 雪が降り落ちて、髪の上で溶けた。


「……真夜?」


 尋ねても、応えがない。

 真夜は息を詰めたまま、何かを見つめるように空を仰いで――そして、崩れた。


「……ああ……」


 手を口元に当て、震える声を押し殺す。


「……どうして……知らなかった、わたし……!」


 何が起こったのか、理解できなかった。

 彼女の中で、何かの輪が音を立てて閉じたようだった。

 真夜が泣きそうな顔で時計から目を離した、その動作のひとつひとつが、異様にゆっくり見える。

 その顔には、知っているはずのない痛みの影が差していた。


「……なんで……」


 声が掠れた。

 時計に触れただけで、何かを“思い出した”ように見える。

 そんなこと起きるはずがない。

 取り戻せないはずの時間なのに。

 真夜の唇が震え、ひとつ、息がこぼれた。


「……ずっと、怖かったの。あの日から。

 理由もないのに、みんなが変にざわざわして、小雪ちゃんの顔が見られなくなって。

 なのに、心のどこかで“小雪ちゃんを責めちゃいけない”って思ってて……でも、なぜか分からなかった」


 言葉が途切れ、破裂するように嗚咽が漏れた。

 呼吸のような、それでも確かな言葉だった。


「……違ったんだ。わたし、何も知らなかったんだ。

 怖い、意味がわからないって、そればっかりで。本当は、小雪ちゃんが一番……痛かったのに。

 小雪ちゃんは……何度も、わたしのために……」


 ――思い出している。

 わたしが消した、あの時間を。


 膝が折れて、雪の上に落ちる。

 両手で顔を押さえ、泣くというよりも、嗚咽そのものが体の奥からあふれ出していた。


「お父さんもお母さんも……あの日、本当は死んじゃったんでしょ……?

 何度も、あんなのを……ひとりで……! 気づきもしなかった……!」

「真夜……」

「みんなの目が変わっていったのも、小雪ちゃんのせいじゃなかったのに。

 なのに、わたし……小雪ちゃんを、傷つけてた!」


 言葉にならない叫びが喉を焼くように続いて、雪がその上から静かに覆っていく。

 わたしは立ち尽くしたまま、指先がかじかんで動かなかった。

 目の前の景色がゆがむ。

 頭の奥で、ずっと響いていたひとつの言葉が、形を持ってせり上がってくる。


 ――取り返しのつかないことは、ない。


 お母さんは、そう言いたかったんだと思う。

 どれだけ時間を巻き戻しても、やり直せないことがある。

 全部うまくいくわけじゃない。

 けれど、それでも。


「……真夜」


 わたしの指が、そっと真夜の腕に触れる。

 冷たい。雪と涙の温度が混じって、目の前の様子がうまく見えない。


「ごめんね」


 声が自然に漏れた。

 何度も言いたかった言葉。届かないまま、あっという間に失われた時間で、何度も心の中だけで繰り返してきた。


「……全部、わたしが悪いの。

 本当のこと、ちゃんと話さなかったから。真夜は何も悪くない。

 今まで黙っていて、ごめんなさい」


 涙で濡れた頬が、街灯の下で光る。


「……違う。違うよ」


 首を振りながら、何度も言う。


「わたしが、何も……知らなかったから。知ろうともしなかった。

 小雪ちゃん、ずっと苦しかったのに、それに気づいてあげられなかった。だからこんな……っ」


 しゃくりあげながら、震える声が溢れる。


「ごめんなさい……ごめんなさい、小雪ちゃん……」


 その声が、わたしの胸を突き抜けた。


 真夜を抱き締める。

 震える体を抱え込むと、今度は逆に真夜の腕が、わたしの背中を掴んだ。

 言葉を無くして、互いの声が混ざり合って、どちらの涙かもわからなくなった。


 呼吸と呼吸がぶつかって、互いの口もとから白い息が溢れる。

 その混ざる瞬間、世界がやわらかく溶けたように感じた。


 腕の中の真夜が震えている。

 わたしの体も同じように震えていた。

 声にならない音が漏れて、涙が滲んでくる。

 長い冬の底で、膝から崩れ落ちて、ようやく誰かと心臓の音を分け合う。


 運命の形も、嘘の痛みも、この抱擁の外にはなかった。

 雪が音を吸い、街灯の光が滲んで――


 白い凪が、わたしたちを包んだ。

 もう、嘘はなかった。








 朝の気配は、まだ眠りの続きのように淡かった。

 天井に反射した白が、静かに揺れる。

 起き上がったばかりの部屋には、冷えた空気と、窓の外で降り続ける雪の気配が滲んでいた。


 ベッド脇の机。

 そこに置かれた布包みをそっと開くと、懐中時計が現れる。

 金属の曇りは、指の熱を受けるたびに少しずつ溶けていくようで、拭いている間だけは時間がやわらかく止まる。


 ――今日で、ちょうど一週間。


 針は変わらず刻み続けている。

 その中の空間だけは、どれほど刻を巡っても変わらないように思えた。

 五回。数えてみると、それだけの時間を過ごした。

 でも体の方がおぼえているのは、もっと長い“日々”だった。


 指先に小さな重みを乗せる。

 ダイヤルをつまむ前に、ふと、胸の奥が揺れる。

 これでまた――この「一週間」を本当のものにする。

 もう、戻ることができなくなる。


 戻りたいわけじゃない。

 けれど、ここまで積み上げてきた日々のことを思うと、ほんの少しだけ、寂しくなった。

 小学校の卒業式のあと、校舎を背にした、あのときに似た感覚。もう戻れないと分かった時の感じ。


 深呼吸をひとつ。


「……ありがとう」


 指が一拍止まり、息と合わせてダイヤルを回す。


 ――かちり。


 金属が音を持つ。

 時計の中で、いまが永遠に定点として打たれた。

 世界は何も変わらない。

 でも胸の奥で、小さな針が確かに動いた気がする。


 運命は変わった。

 もう、誰かのいなくなる朝へは戻らない。

 後悔も、もうしない。

 わたしは、お母さんの言っていたことの意味を、ようやく知ったから。


 布でそっと覆って、懐中時計を静かに引き出しへしまいこんだ。

 学校に行く用意をしてリビングに出ると、机の片隅に置かれた写真立てが目に入った。

 父の出勤でリビングは空っぽになっている。湯呑みもない。

 でも、いつもは伏せられていたその写真が、今日は立てられたままになっていた。


 三人。雪道の前で撮った家族写真。

 父はまだ若く、母が笑っていて、幼いわたしは真ん中で白いマフラーを巻いている。

 ――あの頃の冬だと思い出す。

 お母さんと、お父さんの腕の中は、温かかったのだと。


 窓の外では、粉雪が舞う。

 世界が真っ白に見えるほどの静けさ。


 わたしはコートを羽織り、マフラーを巻く。

 靴を揃えて、玄関に立つ。

 引き出しの向こう、家に置いたままの時計の輪郭が、頭の中に浮かぶ。


「お母さん、行ってきます」


 声に出すと、家の中の空気が微かに震えた。

 返事はない。けれど、それで十分だった。


 ドアを開けると、白い息が外に広がる。

 雪は静かに降り続いている。

 その冷たさを胸いっぱいに吸い込みながら、わたしはゆっくりと、一歩を踏み出した。



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