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【前編】本当に、大事なときだけ


 夜の病室には、点滴の雫が落ちる小さな音だけがあった。

 暖房の風がときどき天井を撫で、白いカーテンを震わせる。

 窓の外は雪。粉のように降り続く白が、薄い蛍光灯の明かりよりも冷たい。


 母は痩せて、頬が青白く沈んでいた。

 それでも、わたしを見つめる目だけはやわらかい。

 唇を開くのが苦しそうで、呼吸の合間にようやくひとことがこぼれる。


「……小雪」


 声が震えた。

 わたしはマフラーに口を埋めて頷いた。もう声が出なかった。

 呼吸音が、細い糸みたいに途切れそうで怖い。

 涙を止めたくても、とめられない。


 母は枕元から手を伸ばした。骨の浮いた指。

 その掌に、小さな銀の時計が乗っていた。

 丸い蓋のある古びた懐中時計。傷のついた鎖が布団の上で揺れている。


 わたしの手をとると、無理やり指を開かせて、その時計を握らせた。

 ひやりとした金属が、皮膚を通りぬけて骨に沈む。

 強く握りすぎて、手は震えてしまう。


「これを……持っていなさい」

「……やだ。そんなの、いらない……。お母さん、置いてかないで」


 言葉の途中で喉がつまる。嗚咽に押されて、言いたいことが崩れていく。

 母の額に小さな汗が滲み、それでも笑みを作ろうとしているのが痛々しかった。


「小雪。……これはね、ただの時計じゃない」


 必死に吐き出す声だった。

 わたしは何も分からない。ただ涙で視界が曇る。時計なんて、どうでもいい。ただお母さんを失いたくない。


「……時間を、戻せる。眠って……目を覚ました瞬間に、戻れる」


 手に重ねるように、お母さんは時計の蓋を撫でる。弱々しい指がわたしの震えをなぞる。


「でも……戻したからって、全部うまくいくわけじゃない。……失敗することだってある。私は……そうだったから」


 息が途切れ、わたしは「やめて」と泣きながら首を振る。


「いらない……時計なんて。そんなのより、お母さんじゃなきゃいや」


 掛け布団に縋りつき、声がつい大きくなる。言葉の形にならない叫びを吐くしかなかった。

 でも、お母さんはわたしを制するように、息を絞った。


「小雪……聞いて。これだけは……」


 乾いた唇が少し割れても、目の奥だけは強かった。母がこんなに必死に見つめてくるのを、初めて見た。


「誰にも……見せないで。本当に、大事なとき……だけ」

「……わかんない。そんなのわかんないよっ」

「後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……」


 それが限界みたいに、母は目を閉じる。

 浅い呼吸の間隔が広がる。

 わたしは時計を胸に抱きしめて泣いた。

 冷たさが皮膚に食い込んで、なおさら現実みたいに重かった。


「いやだ……やだよ……」


 何度繰り返しても、声は母に届くのかどうかも分からなかった。


 夜の病室には、点滴の音と、わたしの泣き声だけが残った。

 窓の外の雪はただ静かに降り続いていた。







 泣き疲れて目を閉じていたのか、時間の感覚が曖昧になっていた。

 詰め込んだ嗚咽がようやく途切れて、わたしはお母さんの浅い息の間隔を探そうと耳を澄ませた。でも、返答はなかった。


 胸の奥に空洞があいた気がして、ふらつく足で病室を出た。

 扉を閉めた瞬間、外の廊下は不意に冷たい。病室に溜まっていた湿気も、母の匂いも切り離される。人工の灯りが直線上に並び、床を白く照らしていた。


 角の自販機の光はひときわ強く、赤と青が雪の夜みたいに滲んでいる。硬貨を落とす音がこだまして、知らない誰かが缶を取り出す気配がする。その微かな生活音すら、やけに遠かった。


 窓に近づくと、すぐそこに冬がいた。

 外は闇と雪。群青の空気を、小さな白点が絶え間なく横切る。握っている時計はまだ冷たく、手の内の熱を奪っていく。


 わたしは両手でそれを包んだ。

 蓋越しにも、針が小さく刻んでいる音がする。普通の時計と何も変わらない。けれどさっき母が告げた言葉が胸にこびりついて離れない。


 ——眠って、目を覚ました瞬間に戻れる。

 ——戻したからって、全部うまくいくわけじゃない。失敗することだってある。

 ——誰にも見せないで。本当に大事なときだけ。


 頭が追いつかないのに、涙だけはまたあふれてきた。

 なんでそんなことを言うの。そんなのなくてもいい。わたしはただ、お母さんがいてくれたらよかったのに。


 掌に残る時計の重みが、どうしようもなく邪魔だった。いっそ投げてしまったら楽なのに、指先が勝手に強く握りしめて離さない。


 廊下を流れる空調の風が、涙で濡れた頬を冷ました。

 わたしは自販機に反射した自分の顔を見た。赤い目。ぐしゃぐしゃな髪。マフラーに口を埋めても隠しきれない泣き顔。


 どれだけ見ても、そこに答えなんてなかった。

 ただ幼い私の胸に、母の言葉の断片だけが残っていた。


 ——誰も巻き込むな。

 ——本当に、大事なときだけ。


 意味は分からない。どんなときが大事で、巻き込むとはなんのことなのか、想像もできない。

 でも、その響きだけが、雪よりも深く、冷たく、胸に沈んでいった。


 わたしは時計をポケットにしまい、背中を丸めるように歩き出した。

 病院の白い廊下の端から端まで、自販機の明かりが遠のくほど、母のいない気配が濃くなっていく。


 窓の外、雪はやむ気配を見せなかった。

 ただ落ちて、積もり、音を吸い続けていた。




*   *   *




 朝の空気は白く張りつめていた。


 目を開けるたび、胸の奥に薄い折り目が増える。

 今日の白は、昨日と少し違う。何かをやり直せるかもしれない朝。

 けれど同時に、それはお母さんがいない朝でもある。


 布で包んだまま机に置いていたものを取り出す。

 銀の懐中時計。

 蓋はくすんでいて、細かな傷が何本も走っている。お母さんが毎日指先でなぞった、その跡が残っている。ほんの少し重たくて、それがこの一日の最初を支えてくれる。


 わたしはそれを布で拭く。自分の吐息で曇りが消えていく瞬間が好きだった。冷たい金属の感触は、まだ体温の低い指先にしっとりしがみつく。母の気配と言葉が、そこに詰まっている気がした。


 蓋を開く。

 ガラス越しに歯車が透け、針は正確に刻む。真ん中には小さな丸いボタン。ただの飾りに見える。

 押せば、時間は戻る。押すのは、いまだに怖い。

 お母さんは最後に言っていた。「大切なときだけ。誰も巻き込まずに」——その言葉が胸に残ったままだった。


 だから、わたしがやるのはもうひとつのほう。

 側面に、爪先でやっとつまめるくらいの小さなダイヤルがある。これをゆっくりと回して「今」にピンを打つ。週に一度だけの決まりごと。押すわけじゃない。母のやり方を、そのまま指先に写す。


 つまむ前に指が一拍止まり、呼吸に合わせてそっと回す。


 かちり、小さな重みが指に乗る。

 そこまでで終わり。世界は何も変わらない。窓の外では雪が降り続けている。冷たい静けさのなかで、ただ息を整える。これで今日も始められる。


 蓋を閉じ、制服のポケットに入れる。時計が胸に重たく響いた。

 鞄を担ぎ、玄関の扉を開くと、一気に冷気が流れ込んだ。凍りついた空気が鼻の奥を突き抜け、水の匂いが胸に残る。


 通学路に出ると、同じ制服の列が遠くまで続いていた。

 冬の朝は静かだけど、たまに風が音を運んで、誰かの笑い声や話し声が必要以上に鋭く聞こえる。今日は耳が過敏だ。どうでもよかった物音まで角を立てる。


 だからだろう。

 坂の手前に、列から外れて立つ人影に気づいた。


 風を避けたような位置で、一人きり。他の子たちと一緒に歩けばいいのに、ただ遠くで待つみたいに立っている。立ち方だけが、列から外れていた。


 そのとき、横からあたたかい布の端がわたしの肩を軽く叩いた。

 毛糸のふくらみが、ぽふ、と一度。すぐにもう一度。


「おはよ、小雪ちゃん」


 いつもと同じ声。けれどわたしには、その小さな声が少しだけ弾んで聞こえた。

 振り向くと、親友の真夜がいた。黒髪を肩よりずっと長く伸ばし、背丈はわたしより頭ひとつ分小さい。

 マフラーを軽く叩く。それがわたしと真夜だけの合図だった。

 すこし大きめのマフラーに口元を隠して、瞳だけで笑っている。


「おはよう、真夜」

「昨日より眠そうな顔してる」

「……そうかな」

「そう。眉が下がってる」


 小首をかしげながら、のぞき込んでくる。冗談めかした言い方なのに、声には「大丈夫?」の響きがまざっていた。わたしが今も落ち込んでいることを、全部わかっているみたいに。


「……まだ、ちょっと」

「うん。わかってるよ」


 そう言って真夜は、それ以上は尋ねずに横に並んで歩いた。問い詰めるでもなく、無理に笑わせようとするでもなく。けれど、ひとこと「わかってるよ」と付け加えてくれたことで、胸がすっと軽くなった。


「今日も一緒に行こ」

「うん」


 それで、呼吸が戻る。

 坂を上りはじめると、車の音も人の声も途切れ、しんとした瞬間が訪れる。真冬の朝の冷たい空気が、まるで一枚の膜になったように世界を覆う。


 それは白い凪と二人で呼んでいる、冬だけの静けさ。


 わたしと真夜の足音だけが規則正しく響き、雪の降る音すら吸い込まれていく。

 ただ歩幅を合わせるだけで言葉になる。視線を交わす必要もなく、わたしの落ち込みも彼女の気づかいも、沈黙の中にひとしく溶け込んでいく。

 その静けさにくるまれて、今日をやっと始められるような気がした。




 昇降口にはワックスの匂いがまだ残っていた。

 白い靴底の跡が乾ききらず、光の角度でにじんでいる。外から吹き込む冷気はここには届かないのに、靴箱の隙間から入り込んだ雪の白さが、床の隅に落ちていた。


 靴を入れ替え、かかとを揃えて立ち上がる。周りは賑やかで、あくびをしながらひもを結んでいる子や、スマホの光を見せあっている子がいる。誰とも目が合わないまま、列に混ざる。

 けれどそれはいつものことだった。誰も避けないし、誰も特別には扱わない。

 ただ列の中のひとつに混ざっている、ありふれた一人として。


 教室のドアが開き、乾いた音が廊下に少し響く。

 中はもう暖房の匂いに満ちて、机や椅子に取りつく気配が散らばっていた。椅子の脚が床を擦る音が重なり合い、一日の始まりを形作っていく。


 自分の席に鞄を置こうとしたとき、前を横切った影と肩が触れそうになった。


「……あ、ごめんね、小雪ちゃん」


 振り返ったのは、隣の列の子だった。名前はすぐには浮かんでこない。ただ浅い笑みを貼り付けて、少しだけ身を引いて通り過ぎていった。


「うん」


 それだけを返す。ほんの小さなやりとり。

 掲示板のプリントが一枚だけ斜めになっていた。誰かの手が伸びて直したけれど、すぐにまた別の指先で押され、少しだけ斜めに戻ってしまう。

 わたしは目を落とし、机の端を指でなぞって息を整えた。


 窓の外では、まだ粉雪が舞っている。

 校庭の隅に植えられた木の枝が、白く薄く縁取られて、輪郭を曖昧にしていた。

 遠くの声も、廊下の足音も、この白の中ではすぐに吸い込まれていく。


 お母さんのいない朝でも、教室は同じ音で始まる。


 チャイムの前のざわめきは、毎日のかたちのまま重なり合う。

 鉛筆が落ちる音、机をずらすたわいなさ、誰かの囁き。

 先生が扉を開いて入り、点呼がはじまる。名前が読み上げられ、順々に返される声の列に、わたしの名前もふつうの調子で差し込まれる。


 黒板のチョークの音が鳴る。

 その音を聞きながら、ぼんやりと指先を見た。

 爪の根もとにまだ薄く、銀のにおいが残っている気がする。

 チョークの粉が舞うのを見ていると、あの金属の光沢が目の奥でちらついた。


『小雪、これはね、ただの時計じゃない』


 泣きながらそう言っていた顔を思い出す。


『時間を、戻せる。眠って……目を覚ました瞬間に、戻れる』


 本当なのだと思う。

 お母さんが嘘をつく理由なんて、どこにもない。

 でも――時間が戻るなんて、そんなことが本当にあるんだろうか。

 わたしの知らない“現実”と、“お母さんの言葉”のあいだ。心の中で二つの声が、静かにぶつかり合う。


 確かめてみないと何も分からない。

 けれど、確かめようとすること自体が、少しだけ怖いと思った。

 ノートに線を引く。鉛筆の音が耳の奥で遠くなっていく。

 指先に残る金属の感触を、消すようになぞる。

 雪が降り続く窓の外は白く曖昧で、そこに時間の境界があるような気がした。


 視線を上げると、真夜が少し前の席にいた。

 姿勢はわずかに前のめりで、ノートをぱらぱらとめくりながら、せわしない指先。

 わたしの視線に気づくと、短く笑ってみせる。その一瞬で、固まっていた肩がほどけた。


 そして放課後。

 図書室のカーテンの隙間から、雪明かりがにじんでいる。空気は乾いて冷たく、鉛筆の走る音やページをめくる紙の擦れが、ひとつひとつ響いていた。


 窓際の二席。いつも真夜と並んでいた場所。

 今日は先客がいた。肩をすぼめて参考書にかじりつく同級生。その背の角度を見たとき、胸の奥がわずかに跳ねた。

 ――あの席、いつも空いていたのに。

 そんな些細な残念さと一緒に、昼の授業で浮かべた母の顔がよみがえる。


 机の影で、こっそり制服のポケットに触れた。

 銀の懐中時計。布越しに伝わる金属の冷たさ。

 「眠って、目を覚ました瞬間に戻れる」――あの言葉が胸の内側でひらく。

 ほんとうに、戻るんだろうか。

 指先がふと汗ばんだ。

 ピンは打ったばかり。ちょっと試すだけなら。そう思った。


 布を押しのけると、ガラス面の奥で針が細く震える。

 押しちゃいけないと分かっているのに、脈拍がそのまま親指を動かす。

 小さな抵抗とともに、ボタンが沈んだ。


 ――かちり。

 瞬間、音が遠のいた。

 手の平がひゅっと引かれる。

 まぶたの裏に白い光が走って、次に息を吸った時、空気の匂いが朝になっていた。


 襟が冷たい。

 わたしは寝巻きで、家の布団の中に包まれていた。

 窓の外はさっきより青くて、まだ始業前の光だ。


 ……戻った。ほんとに、戻ってしまった。

 世界は元に見えるのに、胸の奥では針が一瞬遅れて動いているような妙な揺れが続く。


 その日のわたしは、いつもより少しだけ早足で過ごした。

 チャイムの鳴る寸前に席を立ち、教室を抜けて階段を下り、図書室へ。

 扉を押し開けると、窓際の二席はまだ空いていた。

 真夜と一緒に鞄を置いた刹那、ようやく息をつけた。


「今日もここだね」

「うん」


 いつも通りに、わたしたちは座ることができた。

 放課後の空気は静かで、窓の外ではまだ雪が降っている。

 ページを開くと、鉛筆の匂いと紙の擦れる音が指先に寄り添って、内心でドキドキしていた。

 お母さんの言っていたことは本当だった。ほんとに、時間が戻せる力があるんだ。

 安堵。ほんの少しの高揚が、胸の奥で小さく鳴った。


 けれど扉が開く音がして、窓際の方へ向かって一人の生徒が歩いてきた。

 視界の端に、その背中が映る。

 どこか見覚えがある気がして、胸の奥がふいにざわついた。


 わたしの横で足音が止まる。

 ほんの一瞬、目が合った。

 その瞳が答え合わせのようにわたしを通り抜けていった。

 何かを諦めるみたいに視線が逸れ、彼女は少し離れた席に腰を下ろす。


 静寂が戻る。

 ページがめくられる微かな音だけが続く。

 それなのに、胸の奥に何か小さな棘のようなものが残った。


 ――この席、あの人のだった。

 わたしがここにいるせいで、今は座れない。


 思考より先に、心臓が小さく跳ねた。

 真夜が隣で何かを書き込む音が聞こえる。

 それでようやく、わたしも鉛筆を握り直した。

 動かしていないと、胸のざらつきが浮かび上がってしまいそうで。


 紙の上に線を引く。

 しかし、文字を追っても、目はすぐにそこから滑っていく。

 何かを確かめたかっただけなのに、何を確かめたのかも分からない。


 ……大したことじゃない。きっとそう。


 呼吸をそっと整えて、視線を落とした。

 それなのに何分過ぎても、指先の奥に冷たい感触が残っていた。





 夜。玄関の鍵を開けると、廊下はもう暗くしんとしていた。

 電気はついていない。よくあることだ。早番続きで、わたしが帰る頃にはもう寝ていることが多い。

 靴を脱ぎかけたとき、台所の奥から水の音がかすかにした。


「……ただいま」


 声をかける。少し響いたあと、しばらくして低い「ああ」が返ってきた。

 それだけで廊下は静かに戻る。

 お母さんがいた頃には必ず届いた「おかえり」の響きは、もうここにはない。


 リビングの灯りをつけると、机に皿が並んでいた。

 白ごはんと、味噌汁と、漬物が一皿。ラップの跡が皿の縁に残り、味噌汁の表面には薄い気泡がいくつか浮いている。湯気はあるのに、空気の中に温度が広がらない。


 お父さんは、スーツの上着も脱がずに椅子に座った。背を少し丸めて、仕事の資料を開いたまま。箸を手にするのもぎこちなく、ただ熱い白米を口へ運んでいる。

 わたしは自分の席に座り、机に鞄を置いた。

 制服のポケットから時計を取り出そうとして、机の端にそっと置く。

 視線を落とすと、銀の光が蛍光灯の下でぼんやり濁った。


 お父さんは一瞬だけ顔をあげて、時計を見た。

 指先がわずかに動きかけた気がした。けれど、すぐに手を紙の上に戻す。まるで見なかったことにするみたいに。触れたくないと、そう思っている風に見えた。


 沈黙のまま、箸の音だけが響いた。

 味噌汁の香りはあるのに、何も味のしない液体を飲んでいるみたいだった。喉を通るときの温度だけで腹に下りていく。

 お父さんは一口ごとに短い間を挟み、それを刻むように食べ進めていく。

 会話の隙間を作る場所さえなかった。


 お母さんがいた頃——

 三人で囲む卓には湯気が立ちのぼり、鍋を取り分ける音がして、時折ため息を重ねるような笑いが混ざった。覚えているはずの生活は、奇妙なまでにすぐ遠ざかる。

 今はただ、皿の縁に箸が当たる乾いた音だけ。


「……おかわり、いる?」


 勇気を出して聞いてみた。


「要らん」


 短い返事。声は低く、冷たいわけではない。ただそれ以上の感情が何も通らなかった。

 わたしはそれきり黙った。


 夕食は十五分もしないうちに終わった。

 お父さんは茶碗を持ったまま立ち上がり、流しへ持っていく。その背中はただの影みたいで、何も残さなかった。


 わたしは机に残された皿へ手を伸ばす。冷めかけたご飯の匂いと、放置された時計の銀色。二つが奇妙に重なって、部屋の奥で揺れていた。


 片付けを終えると、父はもう言葉を残さずに書斎へ消えた。

 扉が閉まって、空気がひとつ途切れる。


 残された居間は、空洞のように広かった。

 母がいた頃には狭くさえ感じた食卓なのに、今は四方に余白が広がりすぎている。椅子に腰を下ろすと、自分の足音までが響く気がした。


 机の端の時計を、両手で包む。冷たい。胸に触れさせたまま、長く息を吐く。

 お母さんから受け取ったときの重さ。

 「大切なときだけ」……その言葉だけが、夜ごとに鮮明になっていく。


 でもその「大切なとき」って、いったいいつなのだろう。

 お母さんが病気になったときは、何をしても変えられなかったと知っている。

 この家に足りない温かさも、きっと戻せない。


 立ち尽くしながら、時計の蓋を閉じた。


 廊下は冷たい風の通り道のようで、部屋に戻るあいだ足音が吸われていく気がした。

 ベッドに沈み込むと、静かすぎて耳がしんと痛い。外は粉雪で、窓に打ちつける音が時折だけかすかに鳴る。


 時計を胸に抱いたまま目を閉じた。

 お母さんがいなくなった家。それを思い知らされる、ただの夜。




*   *   *




 登校の朝、吐く息はすぐに吹雪にちぎれた。

 雪はただ降るだけではなく、風に巻き上げられて真横から叩きつけられる。マフラーで頬を覆っても途端に白い結晶が張りついた。前を歩く人の背中がぼやけて見え、数歩分離れるだけで輪郭を失う。真冬には慣れているはずなのに、今日は街そのものが隠されているみたいだった。


「今日、ほんとに授業やるんだね」


 横で真夜が声を張った。低い背の上に積もった白が、すぐに肩からこぼれる。


「……休みの連絡、なかったよ」

「いつもだよ。こっちはぜんぜん歩けないのにさ」


 少し笑って言ったけれど、その声は風にさらわれて耳に届く前に削れていった。

 わたしはうなずくだけにして、足を止めない。

 マフラーを直そうとしたとき、制服の下で時計が揺れた。金属のひややかさが胸に触れる。母が使っていた重みがそこにある。


 校門の内側に入ると、外の吹雪がいくぶんか和らいだように感じた。滑らないよう注意深く足元を運んで昇降口に着くと、すでに濡れた靴音の群れでいっぱいだった。

 床には水の跡が広がり、誰かがモップをかけても追いつかない。


 教室に入る。濡れた衣服の匂いと暖房の熱気が流れ込んで、声が一度に耳に乗る。


「道、ぜんぜん見えなかった」

「駅まで親に送ってもらった」

「バス、遅れてたらしいよ」

「うちの親がバス会社だけど、今日はギリ通常運行だって」


 それぞれの「大変だった」が浮き足立った声になっていた。雪は毎年のことなのに、今日みたいな吹雪の朝はやっぱり小さな非常事態になる。


 わたしは席に座る。真夜は隣に腰を下ろした。マフラーの口元を外し、小さな声で言う。


「今日の図書室、きっと空いてるよ」

「……うん」

「帰りに寄ろ」

 その眼差しに、少しだけ温かさが戻ってくる。


 チャイムが鳴り、授業は始まる。けれどみんなの集中は散漫だった。窓の外の吹雪を気にして、先生の声が途切れるたびに小声が交わされる。


「さっき、救急車すごかったって」

「坂ノ下交差点の近くで音してた」


 そんな断片。詳しいことは分からない。ただ耳に入るだけで、雪の音のようにすぐに溶けていく。


 二限が終わるころ、後ろの席の子が少し身を乗り出して言った。


「近所で事故あったって。車が滑ったとか」


 それだけで周りが小さなざわめきを返す。けれど先生が教室に戻ってきて授業が始まればそれとなく収束する。

 不安と日常の境目は、まだ曖昧なまま続いていた。


 わたしはノートに線を引きながら、耳を澄ませていた。雪の音は聞こえないはずなのに、窓にこすれる粒の擦過音がずっと残っていた。胸の時計の重みも、机に添えた指先へ静かに伝わっている。ただ世界が遠くなる気配だけが積もっていく。


 そんなとき。教室のドアが開き、別のクラスの先生が入ってきた。いつもより硬い足音。前を歩いてきた先生と短く言葉を交わすと、真夜の名前が呼ばれた。


「佐野、ちょっと来なさい。荷物を持ってきて」


 真夜が驚いたようにこちらを見て、それから鞄をつかんで立ちあがった。

 椅子の脚が床を擦り、緊張が一瞬だけ教室全体に延びる。けれど、すぐに授業が再開した。わたし以外の多くはまた視線を机へ戻す。

 ただわたしだけが、その背中が扉の向こうに消える瞬間まで目で追いかけていた。


 吹雪の音は窓の外で絶え間なく響いている。

 でも教室の内側には、言葉を挟めない沈黙が重なっていた。わたしペン先を止め、マフラーの端を親指でそっとつまんだ。




 放課後、昇降口を出ると、雪はまだ重たく落ち続けていた。

 吹雪は朝ほど激しくはないけれど、風が強くて耳を刺す。頭上から崩れ落ちるように舞う白は、ただの粉雪じゃなく、水気を帯びた固まり。頬に当たるたび、鈍い力で押し返される。


 わたしはマフラーを口元に押しあて、歩みを速めた。

 真夜は先生に呼ばれて出ていったきり、教室へ戻らなかった。理由は聞けなかった。先生も誰も教えてくれなかった。

 休み時間にスマホを確認した。けれど真夜からの連絡はなく、既読すらついていなかった。不安が胸の奥にちくちく刺さり続ける。


 だから、帰る足が自然に彼女の家を指した。

 行ったところで意味はないのかもしれない。けれど、じっとしていることもできなかった。顔を見て、大丈夫って言いたかった。困っているとき、わたしも助けてもらったのだから。今はその番だと、ただそれだけを思っていた。


 角を曲がると、真夜の家が見えた。

 門の前に立ち、息を吸う。

 窓はすべて暗かった。外灯の弱い光が門柱の雪を照らしているだけで、中からの生活音はなにも聞こえない。家そのものが、風に削り取られてしまったようだった。


 眉をひそめ、門柱に添えた指に力を入れた。

 この時間なら誰かしらの気配があるはずなのに。あまりに静かすぎた。

 呼び鈴を押そうか迷った。押したところで、玄関の奥に人がいなければ意味はないのに。

 寒気が足元から這いのぼってくる。


 そのとき。

 ポケットの中で、スマホが強く震えた。

 わたしは慌てて取り出し、画面を開いた。

 宛名は「真夜」。


 目に入った最初の文字で、息が凍った。






『お父さんとお母さん。事故で死んじゃった』


 世界から光が抜けていく。

 マフラーに覆われていた口が、冷気に晒される。

 耳の奥で、嫌な高い音が鳴り始める。

 風の音も、誰かの足音も、全部遠くで割れたノイズに変わる。その反対に、自分の心臓の打つ音だけがやけに鮮明で、胸を叩かれるように響いていた。


 ほんのさっきまで、「力になりたい」なんて考えていた。

 そんな小さな言葉は、この報せの前で意味を失った。きっと大丈夫なのだろうと。わたしの中で抱えていた僅かな希望は、一瞬で吹き飛んで跡さえ残らない。


 震える指先で画面をスクロールし直す。

 けれど、文字は変わらない。門前で立ち尽くす。足は凍ったみたいに動かない。肩に雪が積もる感覚も、遅れてやって来るだけだ。


 呼び鈴は押さなかった。白いボタンだけが、薄闇の中で小さく光っていた。







 日を追うごとに、空席が重くなっていった。

 授業の合間、皆の声は同じ場所に集まる。誰も隠そうとしない。


 ──雪の日のあの交差点。

 ──バスとトラック、巻き込まれた乗客も。

 ──佐野さんの家、ご両親が……。


 言葉は遠慮なく廊下や教室を渡り歩く。耳を塞がなくても届いてしまう。

 真夜の席の背もたれが、クラス全体の視線を引き受けていた。そこに誰も座らない日が二つ、三つと続くと、もうそれは「日常」で。あったはずの姿は少しずつ忘れられる。


 わたしはただ、机に身を沈めていた。

 ノートを広げても、目は一文字も追えなかった。過去形で囁かれる噂ばかりが胸に刺さる。


 放課後、帰ってからも同じだった。スマホの画面を睨み続けても、真夜のアイコンは沈黙したまま。

 怖かった。返事がないことより、そのまま消えてしまうのではないかと思うことが。

 彼女は、わたしを励ましてくれた。母を失ったとき、泣き続けて立ち直れなかったわたしを、席を離れず隣にいてくれた。あの支えがなかったら、わたしは今ここにいない。


 だから、どうしても返したい。手を伸ばしたい。

 指先がキーボードを叩く。


「真夜」

「お願い、返事して」

「どこにいるの」


 勢いのままに打ち込み、送信を押す。

 灰色の吹き出しが連なっていく。必死さだけが積み重なり、しかし既読は灯らない。

 一通送るごとに期待し、絶望するのを繰り返す。


 深夜まで同じことをして、何も変わらなかった。

 机に突っ伏して目を閉じるたびに、あのメッセージが蘇る。


 《お父さんとお母さん、交通事故で死んじゃった》


 文字列は脳裏で光っては砕け、何度もリピートされる。

 忘れられない。まぶたを閉じても鮮明すぎる。


 胸が痛かった。喉が詰まって、息がうまく吸えない。

 液晶画面からでも伝わる絶望の色。助けられる言葉は、一つも出てこなかった。


 わたしは……ただ立ち尽くしていた。

 無力さを噛み締めながら。

 その視界に、机の端の銀色が滲む。

 触れず、放置してきたもの。母が残した時計。


「大切なときだけ」


 音にならない声で、母の言葉をなぞった。

 怖い。何度も怖いと思った。軽い気持ちで押してしまった罪悪感を、あの日から感じていた。軽い気持ちで、うかつに踏み込んではならないとわかっていた。


 けれど今。

 真夜が世界ごと奪われていく、この瞬間。

 これ以上に大切なときはない、と叫ぶ声が胸を震わせている。


 マフラーに口を埋め、息を吸う。

 指がゆっくりと時計へ伸びる。金属は冷たかった。爪の先が白くなるほど強く押さえても、まだ決心できなかった。


 真夜の声が蘇る。

 一緒に聴いた、窓際のあの静けさ。

 白く吸い込む空気の音。

 「小雪」と笑った声。


 その全部が、胸の奥で囁く。

 ──戻さなきゃ。


 怖さは残っていた。

 だが別の強さが手を動かした。

 わたしは目を閉じ、親指を沈めた。


 かち、と感覚だけの音が鳴る。

 空気が冷たく変わった。部屋の蛍光灯の唸りが、一瞬だけ消える。








 次に目を開いたとき、外の雪は再び朝の色に染まっていた。

 空気が軽く、カーテンの縁が朝の色を吸い込んでいる。夜の残像がもうどこにもない。


 腕の下には昨日と同じノート。鉛筆がページの上で止まり、消しゴムのかけ残しまでそのままだった。

 机の端で銀の時計が、小さく音を刻んでいる。昨夜に押したときの冷たさが、指先の奥にまだ沈んでいた。


 ――戻った。


 呟いた声に反応するように、窓の外の光が変わった。

 どこかの屋根から落ちる雪の音が続く。

 スマホを開く。画面を見つめたまま、心臓の鼓動だけが耳の奥に響いた。



 メッセージ欄から消えていた。

 本当に消えていた。もうなかった。

 あの一文は世界から、きれいに削り取られていた。

 息を吸う。部屋は冷えているはずなのに、少しなまぬるく感じる。現実の密度が変わってしまったような、そんな歪な手触り。


 制服を着て鞄を持つ。指先の震えを抑えようとしてもうまくいかない。

 これでいいはずなのに――そう思っているのに、胸の奥では別の音が鳴っていた。

 “こんなことをしていいのか”という、細い針のような疑いの音。

 母は「誰も巻き込むな」と言っていた。

 それでもわたしは、真夜を苦しみから救いたいと思って押した。

 押さずにはいられなかった。


 もしこれを咎められるなら、それでも構わない。そう信じた。


 息を整え、玄関を出る。

 外の空気は、思っていたよりも明るかった。

 風はまだ冷たく、雪は細かく舞っている。だが昨日のような吹雪ではない。

 いつもの坂道。靴の底が硬い雪を踏む音がはっきり響く。

 頬に当たる風の感触まで、懐かしい。


 袋小路の角を過ぎたところで、前方に人の影を見つけた。

 薄い灰の世界の中で、その人だけがはっきり形を保っている。

 マフラーの赤。見慣れた髪の輪郭。

 真夜だった。


 胸に溜まっていた息が一気に抜けた。思わず立ち止まり、数歩あとずさる。

 この光景を、わたしは確かに知っている。

 手を伸ばしたいのに、手の甲が硬くなって動かない。

 呼びかけたら、この瞬間が壊れてしまいそうだった。


 真夜がこちらに気づく。


「おはよ、小雪ちゃん」


 口角が少し上がり、いつもの声。柔らかい、普通の朝の挨拶。

 わたしは答えようとして、喉の途中で声が止まった。

 うまく笑えなかったけれど、それでも彼女はあっさりと隣に並んで歩き出した。


 背の高さが、風の流れに合っている。

 わたしもそのまま足を動かす。手袋の中で指が湿っていた。

 心の底に小さなざわめきが生まれる。

 今の笑顔は、わたしにしか見えない『過去』から奪い返してきたものだ――という意識が拭えなかった。

 でも、同時に、それができたことへの誇りのような感情も確かにあった。

 罪悪感と安堵が、火花みたいに胸の中で揺れる。


 学校までの坂を上がると、景色は以前と同じだった。

 雪の量は減っていたが、路肩の除雪跡はまだたくさん残っている。バスの通り道も、変わりなく車が走っていた。

 耳に入る騒がしさが懐かしくて、思わず足が止まる。

 取り戻したのだ、ともう一度思い知らされる。


 それなのにどうしてか、空の色だけが昨日より鈍く見えた。

 空気の中に、うっすらとひび割れのようなものがある。風の音がほんの少しだけズレて聞こえる。

 ポケットの懐中時計を確かめる。

 針は正しく動いている。だから、これは確かに“今”のはずだ。

 わたしは深く息を吸った。

 真夜の未来を変えられるのなら、それでいい。そう言い聞かせる。

 それでも、心の奥には言葉にならないざわめきが残った。




 昇降口のガラスの向こう、雪がうすく光を返していた。

 床には溶けかけの跡が散っている。靴箱の隙間に入り込んだ白さまで、見覚えのある模様を描いていた。肩越しの声も、靴を履き替える仕草も、一度見たままの角度で並んでいる気がする。


 胸の奥が少し温かくなった。

 ――ちゃんと戻れた。

 そう確かめるたびに、体のどこかがふわりと浮いた。悪いことをしたような気持ちはあったけど、でもそれを上回る安堵があった。


 ガラス戸を押すと、廊下の向こうに光が延びる。

 壁の掲示板に一枚だけ斜めのプリント。指先が動きかけた瞬間、誰かが直し、すぐまた傾く。

 足もとに視線を落として歩く。

 角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになる。


「……あ、ごめんね、小雪ちゃん」


 あの子が軽く身を引いた拍子に、鞄の紐が肩からずれた。


「ううん、大丈夫」


 口の奥が乾く。自分でも知らない声の高さだった。

 彼女は小首を傾げ、そのまま行ってしまう。その姿を見送るあいだも、胸のあたりがざわざわしている。

 見慣れた朝の風景なのに、世界の縁に薄くつなぎ目があるみたいに感じた。


 教室に入ると、暖房の匂いがやわらかく漂っていた。

 真夜が窓際でペンを回しながら、机に頬をつけている。ふと顔を上げた瞬間、目が合った。


 穏やかな笑み。けれどその瞳の奥に、ほんのかすかな疲れの影があった。

 寝不足、と言われればそう見える程度の曖昧さ。その薄いくもりが、記憶にない痛みの余韻かもしれないと、理由もなく胸がざわつく。

 彼女はすぐにノートへ視線を戻す。わたしは笑い返した。

 ――今度は力になれる。

 その思いを噛みしめながら、席に鞄を置いた。


 午前の授業が終わるころには、時計ばかり見ていた。

 雪は止みかけている。明日を越えれば、あの朝がまた来る——その前に、伝えなければ。


 放課後、真夜が廊下に出ていくのを見て、駆け寄る。


「真夜、少し話せる?」


 呼び止めた声が思ったより大きく響いた。

 彼女は振り返る。


「どうしたの、小雪ちゃん」


 優しい目の奥で、一瞬だけ硬さが点る。

 わたしは息を整えた。早く伝えないと、もう二度と取り返せない気がして。


「変な言い方になるけど……気をつけてほしいの。明後日の朝、坂の上の交差点で事故が起きるの。バスと車がぶつかる。だから、絶対にお父さんとお母さんには——」


 途中で声が震えた。

 言った途端、廊下の奥で笑い声が途切れ、靴底が一度だけ床を鳴らした。

 視線が針みたいに一瞬だけ寄って、すぐ散った。


 そして、真夜の目が一瞬だけ広がる。


「事故って……誰に聞いたの?」

「ううん、でも知ってるの。信じられないかもしれないけど。お願い」


 言葉にして初めて、心臓が痛いほど速く打っているのが分かった。

 真夜はすぐに視線を下げて、小さく息を吐く。


「ふぅ、びっくりした……。急にどうしたの、そんな顔してさ」


 心配のほうが勝っている声だった。

 わたしは答えられず、マフラーを握る。


「……うまく説明できないけど、でも危ないの。きっと、その日は雪が強くなるから。外に出ないように言ってほしい」


 短い沈黙のあと、真夜が頷いた。


「分かった。気をつけるね。ありがと、小雪ちゃん」


 微笑む彼女の目元には、まだ何か小さな影が残っていたけれど、そのまま鞄を持って去っていった。

 手すりに触れた指先が、鉄の匂いを連れてきた。


 廊下を抜け、窓際に立って外を見る。

 夕方の雪はもう粒が大きくなっている。

 あの言葉で十分だろうか。何か足りなかった気がする。

 けれど今日伝えられたことだけで、胸の奥が少し軽くなった。

 「今度は、大丈夫」と言った声だけ、喉の奥で震えていた。


 帰宅後、机にノートを開いた。

 日付の隣に、短く一文を書き添える。

 〈真夜に伝えた〉

 その文字を見て、やっと指の震えがおさまる。


 そして登校の朝、吐く息はすぐに吹雪にちぎれた。

 風が雪を横へ叩きつける。マフラーをぎゅっと持ち上げても、白い粒がすぐ頬に張りついて溶ける。

 わたしは足もとを確かめるように歩きながら、肩をすくめた。

 前を行く真夜の背が、雪けむりに半分消えている。あの廊下で放った言葉が、ふと耳に戻ってくる。――坂下の交差点、事故が起きる、と。

 本当に、伝わっているのだろうか。


「今日、ほんとに授業やるんだね」


 真夜が声を張った。肩口に降りかかる雪を払いながら、いつもより明るい調子を作っている。


 「……うん。そうみたい」


 わたしは答え、彼女の横に並ぶ。風の音に負けないようにすこし強めに言葉を置く。


「一昨日、言ってたこと、覚えてる?」


 真夜が足を止めた。まつ毛にかすかに氷の粒がついている。


「おととい?」

「坂ノ下で事故があるかもって。気になって」

「……ああ、あれ」


 言葉を挟んで、真夜は短く笑った。


「朝からそんな話したら、余計寒くなるよ」


 笑っているのに、どこかぎこちない。どこか遠くを見ている。

 それがわたしには、眠れずに迎えた朝の子どもの目みたいに見えた。

 昼間にはもう思い出せなくなる種類の、名づけようのない疲れ。

 けれど、彼女の声はすぐ吹雪にさらわれ、雪の音に溶けていった。


 校門の内側に入ると風は少し弱まった。足跡が埋まっていく速さは、昨日よりも早い。

 昇降口はすでに濡れた靴音の群れでいっぱいになっていて、床の水が光を返していた。


「駅まで親に送ってもらった」

「バス、遅れてたっぽいね」

「うちの親、今日も運転だって。やばい雪なのに」


 そんな声が並んでいた。

 手袋を外した時、掌がしんと冷たい。わたしはそれを制服のポケットの中でにぎった。

 真夜はいつもと同じようにマフラーを外して、「早く中入ろ」と背中で促した。


 教室に入る。暖房の匂いと湯気のような人の体温とが混ざっている。

 黒板前では先生が朝の会を終えたところで、眉を寄せたまま戻っていく。

 低い声で「気をつけて下校すること」とだけ言い置いて、出ていった。

 机のあいだに、湿った靴の音だけが残る。

 窓の外では、まだ雪が横に流れていた。


 「道、見えないくらいだったよ」

 「交差点で救急車通ってた」


 ざわめきが波のように広がり、やがて一ヶ所へ集まる。


 「今朝、事故あったって」


 その言葉が耳にぶつかった瞬間、体が止まった。

 どこかで見ている夢の続きのように、時間が伸びる。

 筆箱の中で鉛筆がわずかに転がる音しか聞こえない。

 誰かがスマホを見ながら、地名を読み上げた。


 ――坂ノ下交差点。


 呼吸が浅くなる。

 目の前の世界が、遠ざかる。

 窓に映る自分の顔が、雪明かりで白くふくらんでいる。

 止めたはずなのに。言ったのに。

 どうして。


 真夜の席を見た。背だけが見える。

 その手が制服の裾をつかんでいる。ひとつ、指がふるえた。

 彼女は何も言わない。けれど、唇の色が薄い。

 一昨日の言葉を思い出しているようにも見えたが、それを確かめる勇気がなかった。

 先生が廊下から呼ばれる声がして、教室の空気が再び止まる。


「佐野さん、ちょっと来て」


 真夜が顔を上げた。

 席を立つ前の一刹那だけ、こちらを見た。

 その瞳にはまぎれもなく、痛みのような光があった。

 椅子の脚が床を擦る音がして、扉が閉まる。

 薄い日ざしが斜めに差し、窓の外ではまた風が鳴った。


 白の向こうで、すべてがゆっくり遠のいていく。

 声も、足音も、雪の音に飲み込まれる。

 チョークの粉が漂い、誰も何も言わない。

 胸の奥に冷たい重みが沈んでいく。

 ただ、真夜のいない空席だけが色を失っている。


 しばらくして、先生だけが何事もなかったようにドアを開け、授業を再開した。

 机の並びも、黒板の数式も、昨日と同じ。けれど全部が少し遠い。

 ノートを開いても、線がまっすぐ引けない。鉛筆の先が紙から滑る。

 ページの角が湿って、指がうまく動かない。

 窓の外では吹雪が強くなっていた。

 風が壁を叩くたびに、教室の蛍光灯がわずかに震える。


 先生の声が遠くで流れている。蛍光灯のうなりだけが、一定で続く。


「……今日はできるだけ早めに下校するように」


 その一言を境に、教室のあちこちで小さな声が再び動き出した。

 机の隙間に落ちる囁き。


「……車が……」

「滑ってたらしい……」

「……“バスも”って……」


 途切れ途切れの単語が、風のように通り過ぎていく。

 音の半分しか届かない。

 でも、そのたびに心臓が強く跳ねた。


 視界の端で、真夜の席が空白のまま光っている。

 ペン先がそこで止まり、眼の奥がじんわり熱を帯びた。

 わたしが言ったのに。伝えたのに。

 何かしなきゃいけなかったのに。

 机の下で拳を握る。

 静かに、震えが指に移る。


 昼のチャイムが鳴る。

 休み時間になっても誰も声を張らない。

 外の音だけが窓を打ち続けていた。

 廊下を走る足音、誰かの笑い声。

 何も変わってないようで、少しだけ重たい。

 胸の中の何かが軋んでいる。


 放課後、昇降口へ向かうと、そこにも人の輪ができていた。

 スマホの光が雪の反射と混じって、顔が少し白く見える。

 単語のかけらだけが風に乗って届く。

 不意に自分の名前が混じった気がして、動けなくなる。

 誰が言ったのか分からない。

 ただ、周りの空気が一瞬静まり、すぐ元に戻った。


 靴を履き替える。濡れた床に、水の跡が並ぶ。

 うつむいたまま階段を降りた。

 吐く息が白くて、すぐに風に散る。

 外はすっかり夕雪に変わっていた。

 雪の層が街を覆って、あらゆる音を静かに閉じ込めている。


 坂道をくだる途中、ポケットの中で懐中時計が微かに動いた。

 金属の重みが、布越しに脈を打つ。

 思わず指先を動かすが、触れてはいけないと分かっていた。


 だって、まだ決まったわけじゃない。

 わたしの言葉が届いていれば、真夜のお母さんとお父さんは助かっているかもしれない。

 真夜も、家に帰って笑っているかもしれない。

 その希望がほんのわずかに残っていて、それだけが呼吸をつないでいた。


 街の音が遠い。

 信号機の灯りが雪を照らして、空へ滲んでいく。

 わたしはマフラーを握り、息を整えた。

 言葉にならないものが胸の底に沈んでいく。

 

 翌朝も、空は異様に白かった。

 風は止み、雪だけが静かに降りている。昨夜のチャットは未読のままだった。

 “真夜”という文字の横にいつまでも灰色の印がついていて、更新するたびに胸の中が擦れた。スクロールの指が途中でひっかかり、画面が一瞬もどる。

 まだ、命は助かっているかもしれない。

 そう思うたび、喉が乾いた。呼吸をすると胸の中で何かが軋む。

 制服のボタンを留めながら、声のない祈りを落とす。


 ――今日、どうか無事でいて。


 玄関を出ると、世界が静まり返っていた。

 毎朝並んで歩いていた真夜の姿はどこにもない。

 足音がひとつきりしか響かないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。

 曲がり角で、彼女がいつもマフラーの端を叩く音を幻のように探してしまう。もちろん、そこにはない。


 吹雪のあとに残された街路樹の枝が重たげに垂れ下がり、道の全てが灰色の層に埋まっていた。登校する人の数も減っている。

 昇降口にたどり着いたころ、足先の感覚がもうほとんどなかった。

 濡れた靴の跡をたどる。空気の密度がいつもより重い。

 人の声はあるのに、その中身だけが耳に届かない感じがした。


 教室のドアを開けた瞬間、視線がいくつも跳ねた。

 朝の会話が一度止まり、すぐに再開されたけれど、空気の流れが明らかに殻を含んでいる。


「……佐野さんの、ご両親が」


 前の席の子が、机を寄せ合う輪のなかで消えた声を出した。


「昨夜、亡くなったって……」


 チョークを握る手が止まる音。笑いもため息も混じらない沈黙。

 耳の奥で自分の呼吸音だけが膨らんでいく。

 その言葉が現実のものと思えなくて、心が遅れて倒れていくようだった。


 体が少し揺れた。椅子の背に手をかける。

 頭が真っ白になるという表現があるけれど、それは本当だった。

 熱も涙もどこかへ流れ出して、皮膚だけが残る。

 目の前の風景が一瞬静止して、再び動く。

 ――真夜の両親がいない。

 その一文が、硝子越しに聞こえた雪の音と重なって、現実の形を取った。


 しばらくして先生が入ってくる。


「昨日の件で、地域から注意が出ています。通学路では周囲をよく確認して……」


 声はいつもと同じ低さなのに、遠くから響いているようだった。

 通達を終えて出ていく背中のあと、教室の中で小さな囁きが生まれる。


「……坂ノ下、って言ってたよね」

「真夜ちゃんの件でしょ」

「昨日、夜風さん……」


 視線はばらばらなのに、確かにわたしの方向へ収束していく。

 手のひらの内側が湿って、鉛筆がうまく持てない。

 なぜ見られているのか分からない。

 わたし、たったひとつのことを言っただけ。

 “気をつけて”って伝えただけ。

 それだけなのに。


「夜風さん、昨日から変なこと言ってたよね」


 そのとき、誰かが言った。

 音が、空気から剥がれ落ちた。

 世界全体のスイッチが、ぱちん、と切り替わったみたいだった。

 薄い膜が破れて、境界線がなくなったとき。ノートの罫線が一瞬で遠のく。

 誰もまっすぐ見てはいないのに、視線の重さが肌を焼くように集まってくる。

 机の上で心臓が鳴っているのが分かった。


「なんで知ってたの? 交差点で事故があるって」


 前の列の生徒が、ためらいがちに振り向く。ノートの端を親指で整えながら、

 声は穏やかだった。穏やかだからこそ怖かった。


「……偶然、聞いたから」


 わたしが口を開いた瞬間、自分の声が震えているのが分かった。


「場所だけじゃないよね」

「そうそう。時間とかも、すごく詳しく言ってたって」


 どこから出たの、その“時間”。思考が抜け、皮膚の感覚だけが残る。

 笑いを含まない、淡々とした確認。


「ちが、わたし……」


 喉が固まる。なにか言い足したいのに、言葉がすぐに霧になる。

 教室の空気は冷たいのに、背中だけが熱い。

 窓の外に目を向けても、雪の光が強すぎて焦点が合わない。


 その時間はほんの数秒だったかもしれない。

 でも、わたしにはそれが永遠に続くみたいに感じられた。

 誰かが息を呑み、誰かがノートにペンを落とし、それでも何も壊れなかった。

 ただ、世界だけが静かにひっくり返った。


 昼休みになって、今度は誰も声をかけてこなくなった。

 真夜の席は空いたまま。空白だけが重い。

 鉛筆を持つ指が震えているのに、机の影は揺れない。

 涙が出るより先に、心が擦り切れていく。

 目の奥に痛みだけが残って、世界がぼやける。

 それでも席を立てなかった。動くたび、誰かの視線が首筋を刺す気がしたから。


 世界が、自分の外で閉じていく。

 わたしは動けないまま、マフラーの端を指で握りしめ、か細く息を吐いた。






 昼休みになっても、誰も声をかけてこなかった。

 窓際の席でノートを閉じる音だけが残る。背中で椅子の脚が擦れる。廊下の笑い声は、薄い壁を通って別の世界のもののように聞こえた。


 隣の机には誰も寄らず、少し遠い席の会話だけが波のように届く。

 わざとじゃない。

 たぶん。ただ、みんなが「どのくらい触れてはいけない話題なのか」を探っているだけ。そう思おうとしても、胸にさざ波のような痛みが広がった。

 理由もなく、指が冷たく固まっていた。


 放課後、靴箱の前で立ち止まる。窓から差した光が床に白い形を作り、足元がぼやける。通りすがると、また一つの声が耳に届く。


「……やっぱりさ」


 かすれた囁きが、雪の粉を連れて背後で消えた。

 わたしは聞こえなかったふりをして、靴を履き替えた。

 沈黙の中で、時計の揺れる感触だけが確かに生きている。

 明日も同じ道を歩くことになる。その予感だけで足が重くなった。


 翌日、声の温度はさらに下がった。

 挨拶に返事をする子もいたけれど、その言葉は壁に跳ね返ってすぐ消えた。

 休み時間に立ち上がると、周囲の机が自然に角度を変える。

 文字どおりの無視ではない。誰も悪気があるようには見えなかった。ただ、目に見えない薄膜が教室の真ん中に張られて、自分だけがその内側に閉じ込められたようだった。


 雪は止み、空気が乾く。

 なのに頬の奥は冷たい。

 わたしは頬杖をつく代わりにマフラーの端をつまむ。


 ――止められなかった。

 それどころか、もっとひどい形で壊してしまったのかもしれない。


 放課後、家に着く頃には、指先の色が抜けていた。

 玄関の明かりをつけても、部屋に温度が戻らなかった。

 リビングの隅、机に腰を下ろす。

 カーテンの向こうに電線の影が落ち、雪明かりが床に淡く揺れている。

 ノートを開くと、鉛筆の芯が折れて転がった。紙を撫でれば凸凹が残っていて、そのひとつひとつが昨日までの記憶みたいだった。


 〈事故〉という文字を無意識に書いていた。

 その単語は何度見ても現実味がなく、見つめるたびに心臓の鼓動だけが速くなる。

 消しゴムを当ててみると、小さな黒い粉ができた。

 こすった部分の紙が薄く破れて、裏側から光が透けている。


 机の上には、スマホと銀の懐中時計。

 スマホの画面には昨日と同じ場所に「未読」の印。

 それを見るのが怖くて視線を逸らした。画面が静かに光を失っていく。


 真夜からの最後の報せも、この世界では消えていた。

 時間を戻す前は「お父さんとお母さんが事故にあった」とメッセージが届いて、それを境に返信が止まった。今回は、その一通さえない。知らせることさえ、やめさせてしまったのかもしれない。

 胸の奥がじくじくと熱くなる。わたしは、間違えたのだ――。


「っ……」


 息が浅くなる。指先を膝の上に重ねたまま、肩を丸める。

 「夜風さん、変なこと言ってた」と言われた言葉が、何度も頭の中で反響する。教室のあの空気の中で、みんなと一緒にいるのがただの偶然じゃなくなった瞬間。

 もし真夜も同じように思っていたら――そう考えた瞬間、喉が詰まった。

 苦しくて、息を吸う音がみじめだった。


 マフラーの端で口を覆う。目の前に卓上灯の光が広がり、紙の影が揺れる。書きかけのノートが開いていて、「事故」と書いた文字は薄い鉛色をしていた。

 外の雪は細かく、街灯に照らされて流れていく。風が当たるたびに窓ガラスがきいと鳴った。部屋の暖気と冷気の境目で、世界が折り重なっているみたいだった。


「ごめん、なさい」


 どうして、あの日あんなふうに言ったんだろう。

 伝えられなかった。勝手に大丈夫だと思い込んでしまった。

 わたしが怖がらせた。わたしが全部、だめにした。

 思考がそこまで辿り着くと、胸がつんと痛んだ。目を閉じても涙がこぼれて、唇の上をすべった。マフラーが湿って、羊毛の匂いが近くなる。


 呼吸を整えようと背筋を伸ばす。

 息がこもり、鼓動だけが大きく聞こえる。

 机の上の時計をそっと手に取る。手のひら全体に冷たさが走って、心拍が針の震えと重なった。


 もしもう一度戻れたら、わたしはちゃんと伝えられるだろうか。

 今度こそ本当に止められるだろうか。


 そんな確信はどこにもない。それでも何かしなきゃいけないと思う。

 そうでもしないと、息をしていられなかった。


 ノートの上に時計を置き、両手で包み込む。

 金属の小さな感触が掌に溶ける。


「真夜──」


 声にならなかった。けれど名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 このままではだめだ。

 次はちゃんと伝える。

 どうすればいいかは分からなくても、もう一度だけやり直せば、少なくとも彼女の目をまっすぐ見て話せる。

 信じてほしいと願う言葉を、もう一度だけ。


 秒針のかすかな音を数えながら、瞼を閉じる。室内の空気がかすかに沈む。

 指の腹に金属の滑らかな感触。

 ひと息吸って、押し込む。

 その瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた。

 光も匂いも音も、ひとつの線で切り取られたように変わる。

 世界のどこかに、まだ言葉にならない波紋が生まれている。

 誰も気づかないほど小さな違和感が、雪の層の下で静かに広がっていった。




*   *   *




 目が覚める前に、胸の奥だけが先に軋んでいた。

 息を吸うたびに、冷たい空気が喉の奥を削っていく。

 布団から腕を出すと、部屋の空気が痛いほど冷たかった。寝返りを打ったとき視界に見慣れた天井が入り、そこでようやく、自分がまた「戻ってきた」と悟る。


 ベッド脇のスマホに手を伸ばして画面を点ける。日付は、あの朝に戻っていた。通知はきれいに消えていて、昨日までの自分の跡がどこにもない。真夜とのメッセージ履歴も、吹雪の日のニュースも、全部。心臓の奥が小さく鳴って、同時に手のひらから体温が逃げていった。


 成功した。

 ――そう言っていいのかもしれない。

 けれど、胸の中では全く別の声がしていた。


 戻したということは、誰かの時間を奪ったということだ。

 わたしだけが一度分の記憶を持ち越し、残りの全員が知らないまま、世界をやり直している。あるべきもの変えてしまった時、図書室の一瞬が脳裏をかすめる。


 掛け布団を押しのけ、ベッドの端に腰を下ろした。

 指先に力が入らない。爪の下が白くなっていく。

 時間を巻き戻すことで、何か取り返しのつかないことをしている感覚があった。真夜の両親のあの瞬間も、クラスの空気も、全部やり直せるはずなのに、背筋を、石を乗せられたような重さが這い上がる。


 それに、記憶は消えてくれない。

 誰もあの出来事を覚えていなくても、わたしの中だけには“あった”こととして残っている。

 二度も死なせた。

 二度も泣かせた。

 指を握るたびに、その現実が皮膚の裏からにじむ。


 机の上に置いた銀の懐中時計を見つめた。枕元の光を受けて、文字盤の縁が冷たく光っている。

 母の手から渡されたときの重みを、今も正しく受け取れていない気がする。

 「大切なときだけ、誰も巻き込むな」と言われたあの声が、骨の奥でうずいた。

 巻き込んでいる。もう充分に。

 世界ごと、何度も。


 リビングのほうから水道の音がした。早番に出る父が起きたのだろう。毎朝ほとんど顔を合わせない。時計を見れば、時刻は五時をまわっていた。

 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間からの光は灰色に濁っている。

 今は何をすべきか、考えても答えは出ない。次こそ上手くやらなければ。そう言い聞かせても、頭の中で「上手く」がどんな形だったのか思い浮かばなかった。


 布団の上でマフラーの端を探し、指に巻きつける。

 毛糸の感触が冷たさを吸って、動悸が少しだけ落ち着く。

 心のどこかで、もう後ろに道はないことを知っていた。

 時間を戻したという事実は、選択肢ではなく、ただ一方通行の道を生み出しただけだ。


 窓の外、雪の層が弱い朝光を返している。

 あの下に、昨日までの“別の世界”が埋まっている気がして、目を逸らした。

 それは、だけが覚えているもうひとつの世界で、そこを歩いていた人たちの笑いや涙のすべてが、雪解けで濁った水みたいに薄れていく。


 スマホの画面をもう一度点けて、無意識に真夜の名前を探した。

 もちろん、何もない。消せないはずのメッセージさえも消えている。

 キーボードを叩こうとして、画面に触れる直前。その指先が震えて止まった。

 送る資格なんて、もう残っていない。


 時計の針が一段進む音がした。

 胸の奥で何かが沈む。

 もう一度立ち上がらなければならないと分かっている。

 でも、それは“頑張らなきゃ”という前向きな動きではなく、ただ逃げ場がなくなって前に押し出される力に近かった。


 瞼の裏に、真夜が振り返る光景が浮かぶ。雪の白さ、凍えた息。

 わたしの言葉が彼女を傷つける直前、ほんの一瞬見えた顔の揺らぎ。

 思い出すたび呼吸が止まる。それでも次は、どうにかしなくてはならない。


 ベッドの脇に置かれた制服に手を伸ばす。布地の冷たさに、皮膚の感覚がいっそう鋭くなる。

 この日を何度経験すれば、世界は「正しい朝」になるのだろう。

 ぼやけた視界をこすり、顔を上げる。ほとんど音を立てずにカーテンを開けると、東の空がわずかに青灰色を帯びていた。


 冷気が頬に触れる。

 世界はまた、やり直しを始めている。

 でも、わたしはもう、昨日の自分には戻れない。






 廊下に出ると、暖房の低い唸りと、湯を注ぐ音が聞こえた。

 リビングの灯りはまだ半分しか点いていない。薄暗い光の中、父が背を向けて立っている。出勤前のスーツ姿のまま、湯呑みを二つ、並べていた。

 その手の動きに迷いが少しだけ混ざっているのを、わたしは不思議な気持ちで見ていた。


「……早いな」


 振り向いたお父さんの声は、夜を少しだけ引きずっているようだった。


「うん。眠れなくて」


 答えると、父は黙って片方の湯呑みを勧めてきた。湯気の白が境界をつくる。

 わたしは寒さをごまかすように両手を添えて、湯気の向こうの顔を見た。


 沈黙が続く。

 父は一口すすり、目を細め、それから何かを測るように視線を向けてきた。

 その目に射抜かれるような感覚があった。

 昔は、わたしとお父さんの間にこんな沈黙はなかった。ただの早朝の会話だったのに、空気の置き場が違って感じられる。


 ――気づかれている。


 喉が鳴るのを自覚した。

 時計は掌の中にあった。真夜の家族を守るために使ってから、ひとときも手放せなくなった。

 父の視線が、それに一瞬触れる。言葉にはならないが、理解されたのが分かった。


「……ちょっと、見せてくれるか」


 短くそう言って、父はテーブルの向こうに座った。

 そんなことを言われたのは、初めてだった。わたしはためらったが、断る意味が見当たらなかった。

 掌を開き、懐中時計をテーブルの木目の上に置く。

 父はそれを見つめるだけで、手には取らなかった。距離を測るように、視線を微かに揺らす。


 この時計だけが持つ特別な力のことは、お父さんも知っている。

 お母さんの死後、二人の間でその話題は一度も出なかったけれど、父はずっと避けていた。亡くなる前、何かがあったのだということだけ、わたしは気配で感じ取っていた。

 だからこそ、いま目の前でその話が始まるような気配がして、膝の上の手が震えた。


「……母さんのことを、話しておこうと思う」


 思わず息が止まる。もしかして、とは思っていたけれど。お父さんが自分から名前を出すのは初めてだったから。


「俺も、時間を戻したことがある」


 その一言だけで心臓が跳ねた。


「病気が進んで、もう何もできなくなったときだった。どうしても受け入れられなかった。……気がついたら、時間を戻していた」


 言葉の途切れ間に混じる息が、湯気の上に落ちて消える。


「最初はよかった。死んだ命が戻ってきたのだから。これさえあれば他に何もいらないと、本気で思った。けどな……」


 お父さんは言葉を選ぶようにして、細く吐息を落とした。


「戻すたびに、お前の母さんは弱っていった……戻した時間なのに、病状が悪化した。説明のつかない恐怖を積もらせるように、どんどん体が持たなくなっていった」

 「……そんな」


 声が漏れた。息が浅くなる。


「俺には見えていた。何かがおかしくなってるって。でも、やめられなかった。もう一度でも会いたかった。……結局、苦しめただけだった」


 湯呑みの表面に落ちた光が揺れ、二人の間に小さな波を描く。

 お父さんは掌を握りしめ、そして静かに開いた。まばらに震える指の隙間を、冷たい光が縫っていく。


「時間を戻しても、何も戻らない。……そういうものだ」


 淡々とした声だった。

 それだけで、わたしの胸の奥に鉄の塊みたいな重さが沈んだ。

 目の前が霞んで、息を吸うたびに痛みだけが濃くなる。

 お父さんがこんなにも静かに、あのことを語る日が来るとは思わなかった。


「お前、いま……その顔は、母さんに似てる」


 視線で言葉を受け取った瞬間、胸の奥の何かが崩れる。

 認められてしまった気がした。わたしが同じ過ちを始めてしまったことを。


「……なあ、小雪」


 名前を呼ぶ声の調子が遠く感じた。


「やり直せないことは、ある。……逃げていい。やめてもいい。そうしてくれたほうが、母さんも喜ぶと思う」


 言い終えると、お父さんは湯呑みを戻して立ち上がった。

 わたしは何も言えなかった。

 視線を合わせないまま、コートを手に取る。

 出勤の時刻が来たのだろう。玄関のドアを開ける音がして、冷気が足もとを撫でた。

 その背中を見送ることしかできない。言葉を探しても、舌が動かない。


 扉が閉じる音のあと、家の中は静まり返った。

 湯気だけが空中に漂い、ゆっくりと形を失っていく。

 リビングに置いてある家族写真も、あの日から伏せられたまま、そこにある。


 お父さんの最後の「逃げてもいい」が、耳の奥で何度も反響する。

 体が動かせなかった。

 その言葉がやさしさなのか絶望なのか、まだ判別がつかないまま、わたしは時計の上に手を重ねた。


 冷たいガラス越しに、自分の指先が歪んで映る。

 逃げてもいい。……そんなこと、できるわけがない。

 その一言が、堪えていた涙を溢れさせた。





 玄関を出ると、まだ朝の冷気が残っていた。

 東の空は淡い灰で、細い雲がゆっくり流れていく。

 頬を撫でる風の感触まで、確かに見覚えがある。昨日も、同じ道をこうして歩いた。

 それでも、父の言葉が残響のように張り付いている。


 ——逃げてもいい。

 その響きに背を押されている気もしたが、逃げる先がどこにも思い浮かばなかった。



 坂を上り始めると、吐く息が白く流れる。その先に、いつもの赤いマフラーが見えた。

 真夜だ。

 心臓が一拍だけ早く打つ。二度目、同じ場所で彼女を見つけた。この光景を取り戻すために、何度も戻ってきたのだ。

 けれどその瞬間、違和感が生まれた。

 彼女の背中を見ただけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 何も起きていないはずなのに、もともとあったはずの安堵が見つからない。


「……真夜」


 小さく呼ぶと、彼女が振り返った。


「おはよ、小雪」


 声も言葉も同じ。なのに、そこに乗る息づかいが、前とは少し違っていた。

 目が合った瞬間、彼女はほんのわずかに肩を固くした。

 それが風のせいなのか、自分の錯覚なのか区別がつかない。


「おはよう」


 返しながら、胸の奥に小さなひっかかりが生まれる。

 会話の間が、わずかに長い。目線の焦点が一瞬だけ外れる。


 彼女はまっすぐ前を向いて歩き出した。

 雪を踏む音だけが響く。今日の風は昨日より穏やかなのに、体の芯が冷えていく。

 横に並ぼうと一歩踏み出すと、真夜は少しだけ歩幅を広げた。

 偶然かもしれない。けれど、その偶然が続くたびに心が沈んでいく。

 教室までの坂道は短いのに、今日は妙に長く感じた。





 戻したはずの時間は、目の前で形を変えていた。

 道も家も同じなのに、人の空気だけが違う。世界は、前より少し冷たくなっていた。

 それは真夜だけじゃない。下駄箱の前で誰かに「おはよう」と声をかけても、一足分の隙間が生まれて、後ろの子が別の列に移る。返事は返ってこない。まるで、聞こえなかったふりをされているみたいに。

 昇降口の列で、ひとりの子が肩越しにこちらを見た。


「あ……おはよう、夜風さん」


 昨日と同じ顔。同じ間隔。同じ笑い。違うのは、たった一語。

 自分の名前の響きが冷えて聞こえた瞬間、背筋が強張った。

 頬を上がろうとした笑みが、途中で途切れる。息苦しさが喉に刺さる。


「……うん、おはよう」


 反射で返した声は、別人みたいに細かった。

 その子は軽く会釈して、すれ違いざまに友達へ何かを囁いた。

 その姿を見送って、手のひらの奥で時計の輪郭を探る。

 今朝の父の言葉が頭の奥をかすめる。

 目に見えない(ひび)が、戻した世界にひとつずつ増えていく。ひび割れたガラスの上を歩いているような感覚。


 みんな、どこかでわたしのことを覚えているんじゃないか。

 この時計を押すたびに、知らない何かを壊しているんじゃないか。


 昨日、真夜の肩に触れたときの温度も、声も、全部わたしの都合で変えてしまった。それなのに、前の世界でのざらつきだけが、消え残ってしまったみたいだ。

 神様がいるのなら、「自分だけ勝手にやり直すな」って、そう言って怒っているのかもしれない。

 その罰が、今日の冷たさなのかもしれない。


 胸の奥にじわりと汗がにじむ。

 もしそうなら、次に戻したらどうなるのだろう。

 もっと冷たくなるのだろうか。誰も、自分の名前を呼ばなくなる?

 何より。もしかしたら真夜も、わたしのお母さんと同じように──


 頭を振っても、考えが止まらない。

 逃げるように廊下へ出ると、制服の裾をすり抜けた風が、指先まで凍らせた。

 立ち止まれば、いっそ全部を手放してしまいたくなる。

 でも、手放したらどうなるかを知っている。


 怖い。けれど、止まれない。

 手のひらの時計を通して、冷たい脈のようなものが伝わってくる。

 これは母のもの。託されたとき、わたしは“誰も巻き込むな”と言われた。

 けれど今、巻き込まなければ助けられない人がいる。


 息を吸い込み、胸の内で小さく叫んだ。

 ——まだ終われない。次こそ、きちんと伝える。

 前の世界で言えなかった言葉を、今度こそ伝えなきゃ。

 真夜の笑顔だけは、守りたい。




 放課後の昇降口は、以前と変わらず、外よりも寒かった。

 窓から射す光が細く、下駄箱の影が床に縞を作っている。行き交う足音と笑い声が、自分とは少し遠い世界の音に聞こえた。


 真夜を呼び止めようと決めたのは、昼の終わりだった。

 今やらなければ、きっとまた何も変えられない——そんな感覚だけが身体を押した。


 彼女はちょうど帰り支度を終え、赤いマフラーを巻き直していた。


「真夜」


 声をかけると、彼女は振り向き、少し驚いたように目を細めた。


「なに? また宿題の相談?」


 笑った口元の柔らかさが、胸のあたりで揺れた。いい、これが最後の“普通”になるかもしれない。わたしは手の中に時計を握りしめて、口を開いた。


「……違う。少しだけ、真夜の家のこと」

「家?」

「お母さんとお父さん。いつも、同じバスで出勤してたよね」


 問いが落ちた瞬間、真夜の笑みが少しだけ薄くなる。


「うん、そうだけど……どうしたの?」


 わたしは息を整え、言葉を押し出した。


「変な話に聞こえるのはわかってる。でも——明後日の朝、坂ノ下で事故が起きる」


 真夜のまつげが小さく揺れた。


「明後日って……」

「七時二十分。バスと車が——」


 そのとき、近くの下駄箱の蓋がひとつ閉じた音がして、周囲の空気が止まる。

 廊下を歩いていた二人組がこちらを見て、すぐに視線を逸らす。

 喉が熱くなる。自分の声が、教室の外まで届いた気がした。


「ほんとに、気をつけてほしいの」

「……どうして、そんなこと分かるの?」


 彼女は一歩近づきながら言った。声色に恐れがまじっている。


「それは……言えない」


 言えない。時間を戻して、ここにいるなんて、信じてもらえるはずがない。


「でも、確かなの。お願い——」

「誰かから聞いたとか? ニュース? なんで小雪ちゃんがそんな時間まで細かく——」


 言葉が次々と繋がり、真夜の呼吸が速くなる。

 わたしは答えたかった。けれど、胸の奥で母の声がよみがえる。誰にも見せちゃだめ。巻き込んじゃだめ。


「……言えない。けど本当なの」

「そんなの、信じろって言うの? 予言みたいだよ。やだ。怖いよ、小雪ちゃん」


 マフラーの端で顎を隠した真夜の目がにじんでみえる。咄嗟に肩に手を伸ばした。


「怖がらせたいわけじゃないの、止めたいだけ——」

「もうやめて!」


 反射的に払われた指先。手に小さな衝撃。

 無意識の癖で押さえていた手が開き、銀が滑り落ちる。真夜の指が金属の縁を掠めて、懐中時計を、廊下の端に弾いた。


 その刹那、上履きの足音が一拍止まる。

 昇降口の扉の隙間を通る風が、どこまでも澄んで聞こえた。

 ほんの瞬きほどの静寂。理由のない既視感みたいな寒さが、二人の間を抜けていく。

 真夜は手を引き、顔を伏せた。


「……ごめん、小雪ちゃん」


 そう言いながら立ち上がり、背を向ける。


「ま、待って、真夜。ねぇ——」


 声が追いつく前に、赤いマフラーが扉の外でひるがえった。

 ドアの金具がぶつかる音がして、風がまた入り込む。


 残された下駄箱の列は、さっきより光が淡い。

 拾い上げた時計は、握りしめていたはずなのに、驚くほど冷たくなっていた。ポケットに戻す。それでも震えは止まらない。


 ——どうして、伝えられないんだろう。


 息だけが白く残った。呼吸の度に、その白が薄れていく。





 真夜とは、もう言葉を交わさなかった。

 通学路では背中の間に風が入り、並んで歩くはずの距離がそのまま氷になっていた。私は声をかけられなかった。昨日のあの瞬間、何かを決定的に壊してしまった感覚が、まだ手のひらに残っていたから。

 放課後までに話せる機会はなかった。視線を合わせることもなく、言葉より静けさのほうが重かった。

 ただ、信じてもらえることを、信じることしかできなかった。


 そして次の朝。教室に入った途端、空気の質が違っているとわかった。

 机のあいだに漂う電子音のようなざわめき。あちこちのスマホの画面が白く光っていた。


「……ニュース見た?」

「坂ノ下の交差点で」


 囁きの断片だけが連鎖していく。

 読む勇気が出なかった。それでも無意識に耳が拾っていた。「バス」「事故」「二人」という単語。

 胸の奥が掴まれたように痛む。

 ——まさか。


 真夜は席に着いたまま、顔をこわばらせていた。手の中のスマホを見ようとしても画面がにじみ、指先が震えている。その横顔に光が当たって、まつ毛の影が小刻みに震えた。

 誰かが廊下に出て教師を呼び、数人が一斉に立ち上がる。教室の音が一瞬だけ止んだ。


「佐野さん、職員室に来てくれる?」


 担任の声が落ちた瞬間、私は息を飲んだ。

 真夜が立ち上がる。足が机の脚をかすって金属音が鳴った。扉に手を添える動作が妙に遅い。顔を伏せ、ただ先生の後ろを歩いた。

 その背中を見て、私は立ち上がりそうになる。だが足が机の下に縫い付けられたように動かなかった。音がすべて遠ざかっていく。

 ——また、同じ。

 凍るような現実感が押し寄せた。何度戻っても止められなかった、自分だけがそれを覚えている。

 何度戻っても止められない。その度に、わたしの指先だけが濃く汚れていく。


 誰かが机の間を抜けながら囁いた。


「夜風さん、昨日、なんか言ってなかった?」

「うん、坂ノ下とか……時間まで」


 かすれた笑い声が後ろの席で弾む。横目でこちらを見ては、すぐ逸らされる。言葉以外のすべてが軽蔑をまとっていた。

 胸が焼けつく。止めたかったのに、また何もできなかった。

どれだけ戻っても、救える誰かの分だけ別の誰かを傷つけてるのかもしれない。

 そう思ったら、息が詰まった。


 廊下から戻る気配。先生の後ろに真夜が立っている。

 教室の空気が再び凍る。


「皆さんに伝えておきます。佐野さんのご両親が、今朝の事故で……」


 途中で言葉が途切れた。

 軽い椅子の軋み。誰かが泣きそうな声をこらえる。

 真夜はうつむいたまま、口を結んでいる。


「……あまり他のクラスに口外しないように、気をつけてください」


 先生が話している間も。視線が、あちこちで私を探すように動く。答えを求めるような、疑うような。

 ——やめて。見ないで。

 その視線の重さが皮膚を刺す。


 斜め前の席の女子が、わずかに身をずらした。

 ぶつかる前に避けるような、静かな拒絶。


「……あの子、知ってたんだよね」


 机の陰で、もう一人が囁く。

 ざらついた空気の中で、手が動かない。無数の疑いの眼差しが刺さる。鉛筆の先がノートの上で震え、水滴のような跡を残した。


 そのとき、小さな声が割って入った。


「やめて……!」


 真夜だった。

 その一言に、空気が止まった。

 誰もが口を閉じる。けれど、真夜は私のほうを見なかった。

 指先まで硬く握った拳が震えている。


 先生がそっとうなずき、荷物を持った真夜を出口へ促す。

 扉が開き、赤いマフラーの端が風に揺れた。

 背中が消えるまでの数秒で、教室の内側の静けさが歪んだ。


 残された生徒たちが顔を見合わせる。

 つかの間の沈黙のあと、再び囁きが芽吹く。


 「でもさ、やっぱり、あの子……」


 乾いた笑いが浮かび、誰かのペンが机に当たってカチリと音を立てた。


 私は動けなかった。

 ノートの上で文字が滲んでいく。白いページの中に、自分の呼吸音だけが残る。

 私は何をしてきたんだろう。

 守りたかったものが、すべて壊れてしまうのを見ているだけ。

 その自覚が一番、痛かった。




*   *   *



 二日が過ぎても、真夜は学校に来なかった。


 廊下を歩けば、小さな沈黙ができる。

 同じ列の子たちは自然に一歩分、間を空けて進む。

 誰も何も言わない。言葉ではなく、視線の角度で距離をとる。

 「夜風さん」と呼ばれていた声も、いつのまにか消えた。

 当然だ、と自分に言った。



 あの日以来、時間を戻そうと思ったことは何度もあった。

 けれど指はボタンに触れられなかった。

 もう、怖かった。

 手順も、言葉も、やり方も——全部、自分が間違えた。

 挨拶を返してくれた人が目を逸らし、冗談を言っていた声が遠のいていく。

 「ごめんなさい」を何度言おうと思っても、届く先がもうない。


 真夜の両親も、真夜自身も。

 戻しても救えず、手を離せば失われる。結末は同じだ。

 放課後の廊下は薄暗く、掲示板のプリントの端が風に揺れている。

 そこを通るたび、胸が少しずつ焼けたように痛む。

 息を吸うたびに、「また今日も何もできなかった」という言葉が喉の奥に沈んでいく。


 校門を出ると、雪がまだ残る坂の上に白い光だけが浮かんでいた。

 ずっと寒いわけでもないのに、指先が痛いほど冷え切っている。

 ポケットの中で時計を握った。

 金属の冷たさが、心の冷たさと同じ温度で馴染んだ。


 どうすればよかったのか、お母さんならわかるのだろうか。

 お母さんはこの力を使って、何を見たのだろう。「ほんとうに大切な時だけ」と言われても、いまのわたしは、その時が分からない。


 わたしには何もできない。

 そう思っても、頭のどこかでは「もし今押せば、また何かできるかもしれない」と声が囁く。


 ポケットから指を抜いた拍子に、手袋が鎖に引っかかった。

 からん、と乾いた音。銀の円が抜ける。わずかに開いたポケットから鎖が鳴って、氷の斜面を跳ねながら転がりはじめた。


 あ、と声が出る——。

 時間が止まるとは、こういう感じかもしれない。

 雪面で弾むごとに薄い音が跳ね、胸の奥を削る。

 手からこぼれた瞬間、心臓ごと持っていかれたようだった。


 追いかけようとするのに、体が動かない。

 指先に触れた冷たさの残りだけが強烈で、何も考えられなかった。

 胸の奥で何かが潰れた。

 母の声、真夜の顔、すべてが遠ざかっていく映像のように瞬く。

 自分が時間そのものを失いかけている、そんな感覚が足の裏から伝わってきて、喉がひゅっと鳴った。


 破片のように光る銀色が、坂の途中で跳ねて止まった。

 そして、誰かの足がすっと割り込んだ。


 黒いスニーカー。

 指先が雪を軽くのけて、滑っていた時計に触れる。そのまましゃがみ込み、手袋のない手で拾い上げた。


 雪の反射を背負っている、頬の血の気が薄い少年が、こちらを見た。

 見覚えのない顔。けれど制服の袖のラインは同じ、同じ中学の生徒だ。

 髪に光が差して、その目だけが驚くほど静かだった。


 視線が合った瞬間、心臓が一度強く脈打つ。

 息を吸う音が、小さな悲鳴のように聞こえた。


 少年は何も言わず、右手を差し出した。

 肌色の手のひらの上で、銀の時計が雪の粒を受けて光っている。


「……落とした」


 低い声。穏やかだが、不思議と耳に残る。


「あ……ありがとう」


 ようやく声になった。喉が乾いて言葉が掠れる。

 受け取ろうと手を伸ばしたとき、一瞬だけ金属が宙を泳ぎ、彼の指からわたしの指へと冷気が渡った。


 時計は思ったよりも冷たくなっていた。

 けれどその重みが戻ってきた瞬間、世界が少しだけ輪郭を取り戻した気がした。

 胸の奥に埋め込まれた心臓が、やっと動き始める。


 少年は何も聞かずに立ち上がり、手についた雪を払う。


「気をつけろよ」


 少し間を置いて、それだけを言った。

 わたしは小さく頷き、時計をポケットに戻す。鎖が布の中で音を立てた。もう二度と離さないようにと、自然に指先へ力が入る。

 坂の下へと去っていく彼に、何かを言おうと口を開きかけたが、声は出なかった。


 名前も知らないが、たぶん同学年。

 その背中が見えなくなるまで、足が動かなかった。

 氷の反射が目に残り、心の奥に空洞ができていたはずなのに、不思議と少しだけ温かかい。

 誰も自分に話しかけない中で、初めて言葉をかけられた。胸の中がほんのわずかに軽くなった。






 翌朝、坂の中ほどで止まった。

 昨日、時計を拾ってくれた少年がやはりそこにいたからだ。制服の襟を立て、信号からやけに離れた木陰で、雪の反射に目を細めていた。

 そういえば、前からこの辺にひとりで立っている姿を時々見かけていた気がする。

 真夜と話して通っていた頃は、ただの風景の一部にすぎなかったのに、今日は輪郭がはっきり見える。


「……あの」

 自分でも驚くほど小さな声だった。

 彼はこちらを見た。


「昨日は……ありがとうございました」


 少し間を置いて、「……うん」とだけ返ってくる。

 それきり会話は途切れたが、信号が青に変わったとき、自然と二人同じ歩調で坂を登った。距離は離れていて、わたしが彼の後を追う。朝の空気は刺すように冷たい。けれど、不思議といつもの通学路より静かで、誰も何も言わないことが心地よかった。


 学校に着くと、壁のような空気が待っていた。

 教室に足を踏み入れても、誰とも目が合わない。偶然視線が交わっても、相手は慌ててノートにペンを走らせるふりをする。声が掛からないことよりも、人の気配そのものが自分の周りを迂回していくのがつらかった。


 授業中、黒板の文字を写しても、目の奥に吸い込まれて形にならない。

 わたしは何度も時間を戻した。

 でも、本当にしたかったことが何か、もう思い出せない。

 救うはずだった友だちは、三度も同じ苦しみを味わうことになった。

 昼休みの光が白く床を照らし、机の上のノートの影が淡く伸びる。その静けさの中で、ふと、「まだ真夜がいてくれたら」と思った。教室に席はあるのに、声をかける相手がいないという現実が、何よりも重たかった。


 チャイムが鳴り、椅子をしまう音が重なる。

 友人たちが数人の固まりになって下校していく。その輪を横目に、わたしはただ扉を出た。

 外に出ると街灯がひとつずつ灯り始め、風が雪を細かく舞い上げていた。前を歩く足跡が少なく、薄暗い道には踏み固められた雪の光沢が残っている。

 坂の途中から見下ろす市街は、白い粒に霞んでいた。

 世界の端まで灰色で、音がすべて遮られていた。


 掌の中の時計が、制服越しにもわずかに重い。

 時間を戻しても、もう信じられるものはない。

 わたしは友達を傷つけた。戻せばまた同じ痛みを彼女に味わわせる。それをわかっていながら、他に償いの方法が思いつかない。

 誰も怒ってくれない。ただ自分だけが、自分を責め続けている。


 曲がり角の先の並木の間に、街灯の白が滲んだ。

 雪はさらに細かく、空気そのものが白っぽく揺れている。

 風が抜けるたびに何かが剥がれ落ちるような気がした。失った信頼とか、言葉とか。拾い上げるより早く風が持っていく。

 足元の雪に小さな音を立てて進むうちに、呼吸が痛くなっていた。

 家へ向かっているはずが、足がどこに運ばれているのか分からない。

 景色の白が濃くなり、世界全体がすりガラス越しみたいにかすんでいく。


 真夜のいない時間が、心を壊していく。

 取り返しのつかないことをしたと感じるたびに、何かが擦り減っていく。

 気温がさらに下がり、頬をかすめる風に涙の跡が凍った。

 耐えようとしても、もう力が入らなかった。

 電柱の明かりの下で膝が折れ、鞄が手から滑る。肩からずり落ちたストラップが雪に沈んで、音も消えた。


 周囲から視線を感じたが、顔を上げられない。マフラーに顔を埋めて息を整えるが、うまく吸えない。胸がぎゅっと縮んで、吐く息が小さく鳴った。


 「真夜……」


 声を出した瞬間、喉が焼けたように痛んだ。

 涙がこぼれて雪に吸われ、白の中に染みを作る。

 世界が静かだと思ったのは嘘だった。頭の奥ではずっと、何かが軋んでいる。戻せない現実と、戻した罰の音が。

 もう立てなかった。雪の匂いだけが近い。人目を気にする余裕は残っていない。

 息をすることにも力が要ると思ったのは、たぶん初めてだった。



 誰かの足音がした。

 雪を踏む乾いた音が、遠くから近づいてくる。


 「……君は」


 聞き覚えのない声に、顔を上げる。


 夜の光に滲んで、昨日の少年の影があった。

 コートの肩に雪をのせたまま、立ったまま動かない。

 わたしを見下ろすでもなく、確かめるように、視線だけがゆらいでいた。


 「……どうしたんだ」


 返事までは出なかった。

 代わりに隙間風だけが吹き抜ける。

 少年はためらいを一つだけ挟んでから、わたしに手を差し伸べた。


 その手は、冷たくも温かくもなかった。

 ただ、目の前に差し出された“現実”だった。

 立たなきゃ、と思うのに、体が持ち上がらない。

 彼は少し身を屈めて、力を使わずに腕を支えるようにしてくれた。

 向けられる視線が優しいとか、慰めだとか、そんな意味を感じている余裕はない。ただ“この場から動かなきゃ”という理性だけが、かろうじて体を動かした。


 足元の雪がざらりと音を立てた。

 力の抜けた足を支えられながら、わたしはゆっくりと歩き出す。

 学校へと続く道を避け、脇道の低い塀と造成中の宅地の方へ。

 重機の影が青白い照明に照らされ、金属の骨が立ち並んでいる。

 足もとでは除雪の残りが踏み固められ、光を反射して細かく光った。


 彼はさっきからほとんど口を開かない。

 先を歩きながら、時々振り向き、距離を測るように歩幅を合わせてくれている。

 自分の呼吸がどんな音を立てているのかも、もう分からなかった。

 泣き疲れているというより、涙そのものがもう出なくなっていた。

 心だけが冷たくて、体がその重さに追いつけない。

 彼の靴が雪を踏む音、風がフェンスを抜ける低い音、どちらも夢の中みたいに聞こえる。


「ここなら……風、少し弱い」


 彼の声がかすかにして、すぐ風に溶けた。

 見回せば、確かに静かだった。工事用フェンスが風を遮って、夜気がわずかに止まる。下校中の生徒の気配はどこにもない。

 でも、わたしは頷いたのかどうかすら覚えていない。

 その場にいることだけで精一杯だったから。


 何も考えられない。

 時計も、真夜も、謝らなきゃいけない誰かも、全部がまるで他人の物語のよう。ただ一つだけ、寒さの向こうで、誰かと並んで立っている感覚だけが残る。


 静かすぎる夜。

 この静けさの中に真夜を思い出してしまう。

 並んで歩いたあの日の微かな笑い声。もう二度と戻ってこない時間。

 同じ雪、同じ空気なのに、痛みだけが不思議に鮮明で、呼吸のたびに胸の奥が締め付けられる。


「……ごめんなさい」


 誰に向かって言ったのか分からない言葉が零れた。

 彼は答えなかった。

 体がぶつかるほどではない距離。雪を一枚、間に挟むくらいの隙間。


 そして彼は立ち止まった。

 ベンチの雪を払ったあと、彼はほんの一瞬だけわたしのほうを見る。


「ここ、座ってて」


 言いながら、掌で残りの雪を掃く。声は小さかったが、表情には焦りも押しつけもなかった。ただ、夜の寒さの中に立ち尽くすわたしをどうにかしようと、それだけを考えている仕草だった。


 頷くこともままならず、言われるまま腰を下ろした。

 冷たさが裾から伝わってじわじわと広がる。手首の辺りに痛みが走って、ようやく自分の体の形を思い出す。体勢を崩したときに、地面に打ってしまったのかもしれない。


「すぐ戻るから」


 そう残して、彼は小走りで近くの自販機に向かっていった。遠ざかる足音だけが一定のリズムを保ち、やがて金属音と共に途切れる。


 静けさが戻る。

 風が止まったわけでもないのに、世界の音が遠ざかったようだった。

 ベンチの背もたれ越しに見える冬空は曇り気味で、星の気配がない。照明の白が雪面を鈍く照らしている。


 膝に手を置いて、マフラーから口元を出して深く息を吸おうとする。肺が痛い。

 息を吸っても、もう泣き声は出なかった。

 代わりに、重たい思考だけがゆっくり巡る。

 気持ちをうまく整理できないまま、視線を下げると、掌の震えがまだ続いていた。

 泣き疲れただけの震えじゃない。体の奥が冷え切っている。

 雪の上に靴の跡が二つ。彼が歩いてきた道と、わたしが転がるように跪いた跡とが、並んで続いていた。


 その跡を見ていたら、胸の内側が妙に熱くなっていった。

 ――助けてくれたのだろうか。

 そう思うのがやっとで、感謝の言葉では整理できない感情だった。

 なんでわたしなんかに、と言いかけて、口を閉じる。

 目を閉じても、暗闇の奥からざわざわと後悔が浮かんできて、落ちていく。


 金属の音が再び鳴った。

 振り向くと、彼が自販機から戻ってくるのが見えた。両手に白い湯気を抱え、息を吐きながら近づいてくる。

 缶のラベルが街灯の下でかすかに光る。

 彼は何も言わずに、それをわたしの前へ差し出した。


「……これ。あったかいやつ」


 彼の手から受け取った瞬間、指先の感覚がひりつくように蘇る。

 缶の熱は思っていた以上に強くて、掌の皮膚がびっくりしたように脈を打った。

 唇が乾いて「ありがとう」と言う音が出ない。

 彼も、それを待たなかった。わたしが缶を両手で包み込んでいる間に、少し離れた場所、バス停の柱の影に腰を下ろしていた。

 湯気が両方の息に混ざって、夜気の中に溶けていく。


 プルタブの縁が指に食い込み、トウモロコシの粒の写真が街灯に淡く光った。

 コンポタの甘い匂いが鼻をかすめて、少しだけ唇をつける。舌が驚くほど早く熱を感じて、目の奥がじんとした。

 体の中に、ようやく“温度”というものが戻ってくる。

 それでも、すぐ隣で冷たい空気が鳴っているのが分かる。

 世界全体が凍ったまま、わたしの手だけが生きている。


 彼は腕を膝にのせ、指先で缶の縁をなぞっていた。

 何度かこちらを見ようとして、視線が定まらず、また外を見た。

 ――何か言いたそうだ。

 でも、たぶんわたしに何を訊いたらいいか分からないのだろう。

 その気配が空気に触れて伝わってきた。

 喉の奥で言葉が渋滞しているみたいな沈黙。

 それを読んでしまう自分も、どうすればいいか分からなかった。


 わたしはできるだけ表情を動かさないようにしながら、缶を口元に近づけた。

 金属の縁が唇に当たり、微かに音がする。

 その音が余計に、息苦しい静寂を際立たせた。


 この人のことはよく知らない。

 それなのに、わたしを気遣ってくれている。

 でも、そんな資格はわたしにはない。

 自分のせいで色んなものを失わせたのに、どうして暖かいものをもらっているのだろう。


 彼の視線がまたこちらに向かう。

 沈黙が一度だけ詰まりかける。

 わたしは息を吸い、吐き、また吸う。

 言葉にしてしまったら、全部嘘になる気がして、口の奥が固まる。


 それでも――言わなければ、いけないと思った。

 知らない人ではあるけれど、困らせたくなかった。


 缶の熱が薄れてきたころ、わたしはゆっくりと息を吐いた。


「大切な友達だったんです」


 言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。

 息が白く散り、消えるのが早い。

 静かな夜が、わたしの声だけを囲い込んでいる。


 彼――目の前の少年は、少しだけ首を傾けてうなずいた。

 何も言わない。ただ、立ち上がる気配もない。

 聞いてくれているという、そのことだけが救いのようだった。


「……友達の、お父さんとお母さんが事故に遭ってしまって」


 声がかすれて、膝の上で指が絡まる。


「そのことを、起きる前に知っていました。止められるって、思ったんです。でも……できなかった」


 肩のあたりがきゅっと縮まる。

 告白というより、薄暗い鏡の前で自分の顔を確かめるような感覚だった。

 誰かに許してほしいわけでもなく、沈黙に耐えられなくなって、口が勝手に動く。


「気づいたら、何度も同じような日になっていて。何かを変えたいって思っても、どこから変えればいいか分からなくて……」


 要領を得ないと自分でも分かっていた。

 でも、それでも言わずにいられなかった。

 この人なら、うまく受け取ってくれるかもしれない。そんな期待をほんの少しだけかけてしまう。


「――でも、誰にも伝えられなくて。説明したら信じてもらえないし、どう思われるかも怖くて」


 言いながら視線を落とす。

 靴の先が雪を押しつぶし、そこに小さな跡を描く。

 その跡が風にすぐ埋もれていくのを見つめながら、胸の奥の空洞をどうにかやり過ごした。


「友達に、何もしてあげられなかった。むしろ、傷つけてしまって。

 言うべきことも、言い方も、間違えてばかりで……」


 彼は軽く唇を動かしかけて、何かを言いかけたが、結局言葉にはしなかった。

 雪の結晶が髪と肩に落ち、そのまま溶けずに残っている。

 その沈黙が責めではなく、ただの「聴く姿勢」であることが伝わってきて、少しだけ呼吸が整った。


 沈黙が続く。

 風の音が、遠くの住宅の壁にぶつかって戻ってくる。

 その反響の中で、ふいに彼の動きが止まり、こちらを見た。

 口を開くような仕草をして、ためらい、視線を逸らす。


 ――名前を呼ばれそうになった気がした。

 でも、呼ばれなかった。

 彼の眉がかすかに動き、何かを思い出したように目をそらす。

 その仕草で、彼がわたしの名前を知らないことに気づく。


「あの……」


 自然と声が漏れる。


「わたし、夜風小雪っていいます」


 雪に反射した白い光の向こうで、彼が少し戸惑ったように瞬きをする。


「俺、陽岳修。……同じ学校だよね」

「はい。……あの、いきなり変なことばかり話してしまって、ごめんなさい」


「……変じゃないと思う」


 ゆっくりとした声だった。

 呼吸の合間に紛れるほど小さいのに、ちゃんと聞こえた。


「夜風さんが言ったこと、全部は分かんないけどさ。良いことをしようとしてるっていうのは……伝わったから」


 名前を呼ばれるのは久しぶりだった。

 そして誰かに肯定されるという感覚も、久しぶりに思い出した気がする。

 わたしはマフラーの端を指で探りながら、視線を膝に落とした。


「良いことなんて、できてないです」


 口にした途端、その暗い音の響きが夜に漂う。


「結局、わたしは、ただ友達を傷けただけだった」


 掠れていく音を、彼は遮らなかった。

 膝の上の缶はもう冷たくなっていた。けれど握りしめた手だけは離せない。

 ふいに、風が弱まって、息を吸い込んだ空気が胸の奥まで届く。

 そこで、缶を握りしめる自分の手が震えていることに気づいた。


「夜風さん」


 名を呼ばれただけなのに、胸の奥が静かに鳴った。

 雪のざらついた音の向こうで、彼の声が落ち着いて響く。


「俺──なんて言ったらいいか分かんないけど、努力してダメだったことなんて、誰でもある。うまくいかないほうが普通だ」


 思わず顔を上げた。

 街灯に照らされた彼の横顔は輪郭だけが浮かび、息の白さに滲んでいる。

 説得でも慰めでもない。誰かに言われた言葉を借りているような単調さなのに、そこに体温があった。


「俺は夜風さんのこと、ほとんど知らないけどさ。それだけ必死だったなら、いつか分かってくれると思う。……その友達も」

「でも、わたしは――」


 反論しかけた瞬間、彼は首を横に振った。


「世の中、そんなに思うとおりにならないって、みんな分かってる。

 全部が終わって冷静になる時が必ず来る。それだけ大切にしてるなら、相手だってきっと同じだ。……今は、こうなるしかなかったんだよ」


 言葉は淡々として、少し乱暴に聞こえる。

 でもその奥に、長い沈黙の癖みたいな優しさがあった。


「こうなるしかなかった」——

 〈やり直せないことは、ある。……逃げていい。やめてもいい〉


 あの朝、背中越しに聞いた低い声。

 時計を見つめても手を伸ばさなかった父の姿が、雪の白に重なった。


 でも。

 そう思った途端、胸の中心で何かが息を吹き返した。



 やめていいと言われたのに、やめたくない。

 仕方ないと思おうとするほど、「それでも」とうずく気配が残る。



 凍えた心臓の奥で、かすかな温度が戻ってくる。


 わたしは俯いたまま、潰れた雪を握り固める。

 声に出さなければ消せると思っていたけど、喉の奥で言葉にならない何かが暴れていた。


 ――終わらせたくない。

 でも、また誰かを傷つけるかもしれない。

 触れれば壊す。離れれば遠ざかる。

 どちらを選んでも、正解はない気がした。


 その静かな混乱の中で、彼が短く息を吐いた。


「……夜風さんは、強いね」

「違います」


 答える自分の声が少し震えた。


「ただ、怖いだけです」


 彼はそれきり、何も言わなかった。

 わたしたちは並んだまま、雪の音を聞いていた。


 時間が、ゆっくり溶けていく。

 風の切れ目に、遠くの街の灯りが微かに揺れている。

 もうどちらも何も言葉を探さず、呼吸だけがかすかに混ざり合った。


 空は白く濁って、雪がまだ降り続いている。

 けれど、その白の向こうにあるものを、わたしは確かめたくなった。

 ――もしまだ、やり直せるなら。

 その考えがほんの一瞬、心の隅をかすめた。


 けれど声にはしなかった。

 唇を閉じて、ただ冷めきった缶を握りしめる。

 修は視線を外さず、わたしの手元に目を落としたまま、静かに言った。


「もう帰ろう。……本当に冷える」


 その声音に救われる。

 わたしはうなずき、立ち上がった。

 空き缶を回収箱に落とす小さな金属音がして、夜気が入れ替わった。

 雪の上、ふたつの足跡が寄り添うように並ぶ。


 まだ決意というほどの形はない。

 ただ、凍える夜気の中で、胸の奥に僅かな熱が戻っていた。




 翌朝の空気は、冷たく透きとおっていた。

 夜のうちに降った雪が歩道の上を柔らかく覆い、世界の音量を一段下げる。

 それでも胸の奥には、昨日の話の余韻と、真夜の泣き顔の影が沈んでいた。

 息を吐くと、白い靄が少しだけ揺れ、すぐ崩れた。

 ――まっさらな朝のように見えるけど、何も本当には変わっていない。

 それでもこの静けさの中で、昨日より息をしやすかった。


 信号待ちの列から離れた木陰に、陽岳さんの姿があった。

 青に変わるタイミングで、わたしは一歩遅れて隣に並んだ。


「……おはようございます」


 声をかけると、彼は小さく会釈してくれる。

 靴音の間隔をわたしに合わせて詰める。わたしは隣の列の端を歩く。距離は半歩。会話がなくても、足音だけが雪の上を揃えていた。

 坂を上る途中で、陽岳さんが口を開いた。


「夜風さん、昨日の話……ちょっと分かる気がした」

「……昨日の?」

「家の中、あんまり静かにならないんだ。毎日同じことの繰り返しで、嫌なのに自分じゃ何も変えられない。だけど、いいこともある」

「それは……?」

「朝だけは音が少ないからさ。だから――朝の景色が昨日と同じだと、少し安心する」


 その言葉は、胸の奥で小さく跳ねた。

 “同じ朝を望む”という形で、自分と似た感覚を持っていることを知ったから。

 わたしが感じていたものと、彼が求めるものが、ひとつの線で結ばれた気がして、誰にも話せなかった自分の感覚の端をそっと撫でる。


「わたしも、この時間が一番好きです」


 隣を見てそう返すと、陽岳さんは顔を背けてしまった。


「……昨日は、ありがとうございました」

「何が?」

「少し、楽になったから」


 彼は顔を背けたまま。しかし一度だけ、ちらりとこちらを見て言う。


「話すの、得意じゃないけどさ。聞くことくらいなら、できると思う」


 その一言で、胸の奥がまた軽くなる。

 誰かに打ち明けても大丈夫だという、お母さんがいなくなってから忘れていた感覚が蘇ってくる。


 ただ話すだけなのに、時計の針の音が遠くなる。

 この静けさがずっと続いてほしいと思ってしまう。

 でも続ければ続けるほど、まだ終わっていないことが胸の奥にせり上がってくる。

 その帰り道、校門の外で偶然また顔を合わせた。

 互いに視線を交わすだけで、足が同じ方向を向く。

 特に約束をしたわけではない。けれど、並んで歩くことにためらいはなかった。


「遠回りしてもいい?」


 彼の小さな声に、わたしはうなずく。


「はい」


 それから先は会話もなく、街灯の灯が連なる脇道に入る。


 雪が溶けて、地面の黒が見えてきた。

 風が吹くたび、電線が小さく鳴る。

 その音が止むと、世界が一瞬白く染まる。

 わたしは深く息を吸って、ぽつりとつぶやいた。


「もし、時間を戻して、色んなことをやり直せるとしたら……どうしますか」


 唐突すぎたかもしれない。

 しかし陽岳さんは顔を上げず、しばらく考えて。やがて答えを出した。


「俺なら、やるだけやると思う」

「どうして……?」

「後悔するよりは、まだましだから。ダメだったとしても、何もしないよりはいい」


 その声は、凍った夜気の中でまっすぐ届いた。

 強がりのようで、どこかに確信がある。

 わたしは答えられず、小さくうなずいた。


 風が強まる。コートの裾が重なって、すぐ離れる。

 彼は何も言わず、前を歩きながら歩幅を緩めた。

 その背中を見ると、自分の中の何かがわずかに揺れる。


 諦めるしかないと思っていた。

 でも、その“しかたない”の中に、ほんの少し他の色が混じった気がした。

 もし、本当にもう一度だけやり直すことが許されるなら──。


 夜、自室。机の上でノートを開き、ペンの先に力を込める。

 ストーブの音が一定に鳴り、窓の外はまだ雪が降っている。

 誰にも言わない決意は、声にすればすぐ壊れてしまいそうで、文字にして閉じ込める。


 〈どうすれば、友達を救えるのか〉

 〈同じことを繰り返したくない〉

 〈それでも、真夜の笑顔を取り戻したい〉


 書くたびに思考が曇っていくけれど、止まらなかった。

 彼の言葉が、頭の奥でくり返される。

 後悔するよりは、動け。

 たぶん、それだけでいい。

 “ほんとうに大切なときだけ”――お母さんの言葉が蘇った。


 ノートの最下段。

 わたしは指で線を引き、白い余白に小さく書いた。


 ――次で最後にする。


 ページを閉じると、ポケットの中で鎖が小さく触れ、金属の冷たさが指先に移った。

 胸の奥がまだ痛む。けれど、その痛みの下に微かに熱があった。

 時計の沈黙が、呼吸と重なる。


 わたしは目を閉じ、雪の音を聞いた。

 もう一度だけ。

 これを最後にすると、わたしは心に決めた。




*   *   *




 朝の空気は刺すように冷たかった。

 けれど、胸の奥に漂うものはそれほど苦くない。

 最初の頃よりは、すこしだけ息がしやすくて。眠る前に決めた「もう一度」が、まだ体の奥で続いていた。


 角を曲がると、いつものように彼がいた。

 信号から半歩離れた木陰。白い息を吐きながら空を見ていて、青の灯りでようやくこちらに気づく。

 わたしは軽く頭を下げる。声は出さない。彼も同じように頷くだけ。

 それでじゅうぶんだった。


 道はまだ雪の粉を被っている。静かな坂を並んで歩く。

 車道側に陽岳さんが立つので、自然と足幅が寄る。

 始業前の街は、いつも決まった音だけを繰り返していて、誰もそのリズムを乱さない。

 その規則正しさが、ここ数日ではじめて心地よく思えた。


「昨日、夜遅くまで起きてた?」

「はい。勉強を、少し」


 うそだ。本当はノートを書いていた。

 気づけば、ぎこちなくも微笑んでいた。陽岳さんも同じ表情を返してくれる。

 誰かに受け取られる笑いがこんなにあたたかいとは、忘れていた。


 二人の歩幅が完全にそろう。

 風に乗って雪が舞い、靴の先で音もなく砕ける。

 街の呼吸と、白と、吐く息とかすかな匂い。

 世界に音は少ないのに、胸の中だけはやけに満たされていた。


 言おうかな、と一瞬思った。

 わたし、あなたに話しておきたいことがある。

 時計のこと。

 母のこと。

 時間を戻せるあの仕組み。

 どうしてそれを使ったか、どれほど失敗してしまったか。


 ――もし陽岳さんが知ってくれたら。

 「信じるよ」と言ってほしい。

 心のどこかでそう願って、わたしはポケットの中に指を滑らせた。

 銀の鎖の感触。

 触れた瞬間、冷たい金属が素肌の熱を奪っていく。


 そのとき、不意に思った。

 戻したら、これは全部、消える。

 この道も、この朝も、この人も。

 今わたしが彼に向けようとしている言葉も、なかったことになる。


 立ち止まる。

 風が頬をなぞり、視界に細かい雪が散った。

 胸の奥で、何かがぎゅっと縮む。

 ここ数日でやっと見つけた安心が、ふいに形を失っていく感覚。


「どうした?」


 声がすぐそばで響く。


「……寒くて」


 うまく笑えず、マフラーに口を隠した。

 陽岳さんはそれ以上聞かなかった。

 わたしは視線を落として、雪の上にできる二人分の影を見つめる。


 足音がまた並んだ。

 雪を踏む音だけが一定のリズムを刻む。

 そのたびに、“ここにいる”という実感が痛みに変わっていく。

 このまま歩き続けてしまいたいと思う。

 けれど、その願いを叶えた瞬間に、全てを失う未来が決まっている。


 指先がポケットの鎖に触れる。

 目を閉じれば、母の声が脳裏に浮かぶ。


 〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉


 息を吸う。

 白い息が彼の吐息と交わり、風に流れて溶けていく。

 それを見送った瞬間、胸の中にあった決意がひび割れた。

 もう一度だけ。

 でもこの手を動かせば、陽岳さんとの日々は、消えてしまう。

 時間を戻せば、出会いがなくなる。

 でも、親友を救うと決めたのは、わたし自身で。


 小さく、震えた。

 それでも平然を装い、陽岳さんの口もとに目をやる。

 笑おうとしたが、顔の筋肉が思うように動かない。

 喉の奥に重たい塊が残る。


「大丈夫か?」

「……はい」


 なんとかそれだけ言って、上を向く。

 空は白く滲んで、雪がまだ降っていた。






 雪は、止まなかった。

 胸の中の時間だけが、ゆっくりと終わりに向かっていた。


 家に帰ったあと、机の上に彼から受け取ったぬくもりの残像がある気がした。

 銀の鎖をそっと持ち上げ、掌で包み込む。

 冷たさが骨にまで沁みて、呼吸が浅くなる。

 彼に打ち明けたいと思った瞬間の温度を思い出し、それを振り払うように目を閉じる。


 ――もし、言ってしまえば。きっと陽岳さんも、苦しむ。

 どの未来を選んでも、誰かを巻き込む。

 母の言葉が喉の奥で止まる。「誰も巻き込むな」。

 その言いつけだけが頼りだった。だから、今度は一人でやる。


 胸の奥に沈殿した痛みを飲み下しながら、机の上のノートを閉じる。

 最後の行――「次で最後にする」の文字が、薄く光を吸って白紙に溶けていく。


 指で時計の針を挟み、ピンを探す。

 決意が鈍る前に。

 深く、静かに、押し込む。


 世界が沈黙する。

 空気が逆流し、胸が締まる。

 光が反転して、なにもなくなる。

 わたしは逃げるように目を閉じた。

 誰の名前も浮かばなかった。

 ただ、あたたかな手の輪郭が遠ざかっていくのを、痛いほど感じた。








 ――朝。


 薄い光がカーテンから滲み出して、枕の影を淡く照らす。

 いつもと同じ一日の始まり。

 けれど、眠りから醒める瞬間、胸の奥で何かが崩れる。

 自分の内側だけが知っている“いま”と、世界の“まだ”が噛み合っていない。


 制服の襟を整え、玄関を出る。

 外は、一晩の雪がすべてを覆っている。

 爪先が白を割るたびに、別の記憶が泡のように弾けた。

 そのすべてを見ないふりで、坂道を上る。


 通学路の途中、いつもの木陰。

 そこに、彼がいた。

 まだ“出会っていない”彼が。

 息を吹きかけて手を温めている。

 その仕草まで、昨日と同じ。

 でも“昨日”がもうここには存在しないことを、わたしだけが知っている。


 視線が触れる。彼は気づいて、ゆっくりと顔を上げた。

 曇りがちな瞳が一瞬だけこちらを掠める。

 名を呼ばれることもない。

 それが当たり前の反応だと頭では分かっているのに、胸の奥が軋む。


 ほんの数歩先で、真夜の足音が聞こえた。

 マフラーの端を二度叩く、あの癖も、変わらない。

 わたしは反射的にそちらを向き、わざと一歩ずれる。

 彼との視線を断ち切るように。


 風が吹いた。

 髪が舞い、頬を撫で、マフラーの端を揺らす。

 その音に紛れて、心臓の鼓動がひとつ遅れた。

 唇の内側が震える。

 何も言えない。

 何も残らない。


 目を伏せ、白い息を小さく吐いた。

 それはすぐ雪に溶けて、跡も残さない。

 胸の奥で、叫びにもならない声が静かに消える。

 歩き出した足が重い。

 雪を踏む音だけが、いまの世界に刻まれた自分の痕跡だった。

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