第8話 慶応4(1868)年4月26日 街道にて
早朝、まだ山の木々に朝靄が絡む時刻に、土方たちは川治を後にした。今日中に田島宿へ至るのが目的である。
一行は総勢10人。二人が道の先を探り、三人が後方を守る。大和と結は、馬上の土方の少し後ろに並び、芽吹いたばかりの新緑に覆われた会津西街道を進んだ。
土方の背を見つめていた大和の胸に、不意に熱い衝動が湧いた。
(今なら――!)
その刹那、背後から柔らかな声が響いた。
「変なことをお考えになってはいけませんよ」
心臓が止まるかと思った。声の主は結だった。狼狽する大和に、結は落ち着いた口調で続ける。
「土方様がおっしゃった通りですね」
大和が怪訝そうに振り向くと、結は淡々とした表情のまま言葉を継いだ。
「私は竹刀を握ったこともないのでよく存じませんが、土方様に教えていただきました。『起こり』だそうですね」
結は昨晩、土方の手当てをした際に土方に聞いたと言う。
『起こり』。人が行動を起こそうとする際に現れるわずかな兆し――呼吸の変化、力み、筋の震え、血の気の上り……。そうした『起こり』を捉えれば、相手の動きを封じるのは難しくないと。
『起こり』のことは大和も知っている。剣術道場で師範が口うるさく言っていた。相手をよく見れば自ずと気づけるはず、と。その言葉を思い出した大和の心が弾む。
(結が見ていてくれている?)
わずかな殺気を悟られた焦りを忘れる大和。そんな大和には気にも留めず、結は続けた。
「大和さんは、その『起こり』が見え見えだったそうです。『あんな曲芸、わけもねぇ』と笑っておられました。今だって私にも分かりましたもの」
そして、大和の弾んだ心を弾けさせる言葉が続く。
「医術の道にある者であれば当然ですので。医者は患者をよく見るものですから」
感情の起伏を抑え込もうとする大和をよそに、結はさらに続けた。
「それと……『起こり』を感じさせない方に、これまで沖田様以外お会いしたことがないとも。大和さんのことは、沖田様の面影があって、真っ直ぐさや朴念仁なところはそっくりですが、剣の腕は……」
結は言葉を濁した。大和には分かる。次に来るのは毎度の自分を見下す言葉だろう、と。怒りが込み上げたが、その胸を鎮めたのは別の記憶だった。昨日、土佐の間者を押さえつけていたとき、目の前で剣を抜いた土方の姿。恐怖で動けなかったはずなのに、不思議とその所作に優雅さを感じ、ただ見惚れていた――。あれこそが『起こり』のない動きなのではないか。
(沖田以外にいない? いや、あいつ自身もそうだ……)
いつになく饒舌な結に、大和の仏頂面を横目に見て口元を袖で隠す結に、大和は気づかないままだった。
やがて山道は蛇行し、土方の背が見え隠れする。結はその隙を狙ったように言葉を洩らした。
「土方様は本当に子供のようで……。戦のお相手をいつまでも『薩長』と呼ぶ理由を尋ねたら、『京都で最初に喧嘩を売ってきたから』だそうです。かわいらしい方ですよね」
結が笑みを浮かべながら語るその横顔は穏やかであった。大和の胸に、言いようのない暗さが広がる。結の口から「土方」の名が出るたびに、世界の彩りが失われ、水墨画のように色を欠いた。大和は視線を山々に移し、耳を塞ぐように風に揺れる草木のざわめきだけを聞こうとした。
一行は横川宿を越え、会津領へ入った。関所は、会津藩士・秋月の同行ゆえ、難なく通過できた。山王峠を越えた先の茶屋で休憩をとる。茶の湯気の向こうで、大和は思い出したように結に頭を下げた。
「一昨日の湯殿では申し訳ありませんでした……」
「お気になさらずに。減るものではありませんから」
結はさらりと受け流す。元来このような気質なのか、過去に起きた不幸が結を変えたのか、はたまた結が大和を拒絶しているのか。だが、その冷ややかな口調の中にも、これまでにない柔らかさが含まれていた。胸に残るざらつきを隠せぬ大和は、なおも問うた。
「……あんな子供じみた仕打ちに、腹は立たないのですか」
結は一瞬だけ目を伏せ、そして穏やかに答えた。
「戦場で命を散らす覚悟の方々です。せめてそこから離れた時くらい、少しでも穏やかなお心でお寛ぎいただけるのなら、それでよろしいのでは。……大人の方が子供のように笑う姿は、むしろ愛おしく思えます。私には弟も家族もおりませんから、大きな弟たちができたように感じています」
最後の言葉だけは寂しげに響いた。大和はその表情に、結が背負う喪失を悟る。家族を失い、明日を見いだせず、ただ今を生きているのではないか。郷里や境遇が似ていると勝手に親近感を抱いていた自分の愚かさを痛感した。
二人は無言のまま、峠を下りていった。
日が暮れる頃、一行は田島宿に入った。南山御蔵入領55,000石の中心であるこの村は、南会津最大の規模と賑わいを誇っていたが、鳥羽・伏見以降、藩から出される度重なる触れにより、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
翌日、一足先に会津に向かった秋月を見送ると、大和はひとり村の北側を流れる阿賀川へと足を運んだ。ここ数日に起きた様々な出来事、そして結の存在。その中で揺れ動く感情の起伏に頭も心も追いつけず、大和は川のほとりに立ち尽くした。
(少しあいつと離れて頭を整理しよう……)
水面は光を反射してきらめき、流れはただ静かに時を刻んでいる。やがて大和は思い出したように立ち上がり、川へと足を踏み入れた。腰から刀を外し、鞘の先端で水を掻き上げ、続けて突きを繰り出す。何度も何度も繰り返す。脳裏に浮かぶのは、やはり土方の動きだった。
(あいつはもっと流れるように、速かった……)
仇と知りながら、少しずつ惹かれている自分がいる。
このままではいけない――そう願いながらも、なお土方の背を追ってしまう。
大和は持て余す心を抱え、ただ川風に身を晒し続けた。
三日後の29日早朝、一行は若松を目指して田島を後にした。