第7話 慶応4(1868)年4月25日 戦を決するもの
「……まずいな」
大鳥の返答を聞いたとき、土方の胸に走ったのは苛立ちというより危機感だった。
新政府軍が到着するまで数日はかかる。その間に日光へ移動して守りを固める――。大鳥が大和に告げたのは、そんな悠長な言葉だった。
戦況は刻一刻と変わる。想定外のことが必ず起こる。それを先んじて備えるのが指揮官の務めであるはずだ。
(何を呑気な……!)
再び土方の脳裏に甲州勝沼の敗北がよぎる。
この一戦の要は甲府城の確保にあった。江戸から向かう新選組に比べ、岐阜から進む板垣退助率いる新政府軍は距離で劣っていた。だが、城の確保を最優先と考えた板垣は、必死の行軍で新選組の油断を突き、先に甲府城へ入城。地の利を奪われた新選組は戦術・装備・士気の差が重なり、手痛い敗北を喫した。
鳥羽・伏見で敗れた土方は、急速に洋式戦術や近代戦術を身に付け始めていた。これからは刀や槍の時代ではないことを悟った土方が、勝つためにこれらを習得することは必然と言えた。刀や槍による一対一の戦の場合、『個』の力量が重要になる。いわゆる『一騎当千の兵』がいるだけで戦況を変えることができる。しかし、銃や大砲による戦は違う。兵士の個が不要とされ、個を埋没させた兵士をいかに戦術に合わせて指揮、運用するか――『指揮官の資質』が問われると言えた。
土方は勝沼の戦場に居なかったが、報告だけでも板垣の臨機応変の戦術眼と統率力を感じ取った。その板垣に比べ、大鳥の言葉はあまりに鈍い。指揮官の資質の差が味方を窮地に追い込む。土方の胸に静かな怒りが燃えた。
「急ぎ『壬生に土佐板垣』とだけ伝えろ」
土方は、宿の主人に命じた。余計な言葉は要らない。自尊心に浸る者ほど、論破されれば奇行に走る。短い言葉だけで、大鳥がどう動くかを試したのだ。
(これで分からねぇようじゃ……負けだ)
心の中でつぶやく土方。主人が書状を書くように頼んでも首を振った。北関東での戦いでは、農民や町人が旧幕府軍に協力しただけで新政府軍に斬られる例が多発していた。書状を持たせれば証拠となりかねない。口頭であればただの伝聞に過ぎない。――それが土方の計算だった。
仕方なく主人は、家人を大鳥の元に走らせた。
ふと目に映る結の姿。淡々と出立の支度を整えるその後ろ姿に、土方の心はかすかにざわついた。
厚意に甘えて同行させているが、もし新政府軍に捕らえられれば「土方の縁者」として危険に晒される。せめて落ち着ける場所を探してやらねば――。それが彼なりの恩返しだと、胸の中で固く誓った。
更に土方は、大和に道中で気づいたことを尋ねた。
「平穏そのものでした。特に報告することはありません」
大和の素っ気ない答えに、土方は無言で鋭い眼差しを投げた。だが言葉は発さず、ただ立ち上がった。
「支度が整い次第出発する」
すると秋月登之助が控えめに異を唱えた。ここから先には険しい山王峠があり、今出発しても峠の手前の横川宿で一泊することになる。明朝に立てば田島宿まで進める。どちらにせよ到着は同じ明日――。秋月は、ここでのもう一泊を提案した。
秋月は会津藩士。秋月の父が、これから目指す田島の奉行であったこともあり、周辺界隈の土地勘を有していた。
土方の傷も重い。島田たちも賛成する。合理を重んじる土方は、反論なくそれを受け入れた。
この判断により、一転して穏やかな時間が流れる。大和は汚れを洗い流し、着物を着替える。結が再び手当てを施した。名誉の負傷とは程遠い傷。それも二日続けて。そして結の首筋を見るたびに否応なくよみがえる妄想――。何とも落ち着かない心持ちで結の処置を受ける大和。
「伝令に出られたとき、土方様、とてもご心配なさっていました」
突然の結の言葉。土方の胸中を推し量る余裕はない。すべてお前のせいだろう!――込み上げる怒りを抑え、大和は黙って顔を背けた。そんな彼に視線を寄せることなく、結は静かに手を動かす。その口元が、ほんの僅かに緩んでいるように見えた。
一方で島田たちは交代で宿の周囲を見張った。土方は「間者の目的は俺の動向だ」と無駄を説いたが、先の銃声の恐怖を忘れられぬ島田は従わなかった。二度と同じ思いはすまいと、固く心に誓って。
その夜、二夜続けて囲炉裏を囲む。
土方が唐突に声を投げた。
「お前、宇都宮では城外で大砲を撃ってただけらしいな」
島田を睨む大和。バツの悪そうな島田。ここへの道中、島田に話したことだった。口の軽いおっさんめ!――昨日の大和なら、こう心で毒づいていたに違いない。だが今日は、そんな感情は芽生えなかった。
「どんな気持ちだ? 今ここで死ぬかもしれない、そんな場面に出くわして」
前線で戦っていないことを皮肉られると思っていた大和に、土方からの思いもよらぬ問いが飛ぶ。
「怖かったか?」
本来であれば、決して人前ではできない「肯定」。だが大和は迷わず頷いた。
「その思いを忘れるな」
予想外の言葉が、弱弱しい自分を鼻で笑われると思っていた大和の胸に落ちる。土方は続けた。
「刀なら感触も匂いも相手の顔も、自分に刻み込まれる。それが恐怖となり、人を人たらしめることになる。だが銃は違う。撃たれる側は音とともに闇に落ちる。撃つ側も恐怖を感じずに済む。恐怖を知らねぇ者同士の殺し合いほど恐ろしいものはねぇ」
聞き入る大和に土方が更に続けた。
「お前が今日感じた恐怖。それがこれからの戦でお前を救うはずだ」
大和は、鬼と呼ばれた男の言葉に違和感を抱きつつも、理解できる部分もあった。冷徹と人間味。どちらが土方の本質なのか――わからないまま、しかし興味は確かに芽生え始めてい。
土方の言葉に静かに耳を傾けていた結が「明日の支度を」と座を立つと、大和はその背を目で追い、土方への問いを口にした。
「なぜ、わざわざ自分を伝令に?」
「戦の要は情報だ。戦略や戦術の第一歩は情報収集だ。状況は一瞬で変わる。耳にする声、目に映る景色、肌で感じる風――すべてが情報だ。今日の間者もそうだ。宇都宮で戦った薩摩かと思いきや土佐だった。土佐がここまで入り込んでいるとは想定外だった。だが、この想定外を知れたのも情報を得たからだ。だから伝令は、信頼できる奴にしか任せねぇ」
わずかに胸が弾む大和。そして、あの「周囲に気を配れ」の意味も理解できた。自分が少し成長できた気がした。だが同時に、伝令を軽んじていた己が情けなくもあった。また、これまでにない不安を感じていた。些細な変化に気づかなかったことでこの場の誰かの命を失うことになるのでは――と。
「勘違いするな。お前は腰を抜かしてただけだ」
土方の冷ややかな言葉に、隣に座る島田が呆れた顔をする。どんな顔をしているか、大和をのぞき込む島田。しかし、大和は顔色ひとつ変えず、思索に沈んでいた。
「疲れただろう。風呂に入って休め」
その言葉に促され、立ち上がりかけた大和の顔が紅潮した。怒りを向ける視線に、土方が静かに返す。
「さっき言ったばかりだろう。『戦略の第一歩は情報収集』だと。さっき結が席を外した『情報』から導かれる行動を読んでおけば、いちいち腹なんか立てることはねえんだよ」
更なる苛立ちを覚える大和。しかし、土方の言うことはもっともだった。結局は自分への怒りだと気づく。大和は無言で席を立った。
「珍しく饒舌ですね?」
大和を見届けると島田が笑う。
「うるせぇ」
照れを隠すように吐き捨てた土方の顔を見て、島田の頬は自然と緩んでいた。
この頃、新政府軍を迎え撃つために日光に向かった大鳥は、日光での滞陣を断念し、今市宿に引き返していた。
日光山内の僧侶や日光奉行、旧幕府閣僚が「聖地を血で汚すな」と懇願したのに加え、板垣退助からも同じ打診を受けたためである。
だがその時すでに新政府軍が今市宿を占拠。大鳥は宿場の近くで小規模な戦闘を交えた後、進路を会津へと転じていた。