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戊辰役秘録 山河を駆ける  作者: 氷乃士朗
第一部 今市
7/10

第6話 慶応4(1868)年4月25日 鬼の空気

 銃声の方角に馬を走らせる土方。

 少し進んだ道端に、人影が座り込んでいる。土方が近づくと大和だった。

「三人組の男に襲われました。その場から急いで……」

 顔面蒼白で息は荒く、最後は言葉になっていなかった。見たところ、所々に擦り傷はあるが、斬られた様子はなかった。

「斬ったのか?」

 馬上からの土方の問いに、大和は首を振る。

「でかした」

 短くそう言うと、土方は大和が指し示した方へ馬を走らせた。

 その直後だった。銃声が轟いたのは――。

 大和の背筋に冷たいものが走る。

 島田たちが追いつくと、大和は宿へ戻るよう促された。そのとき、大和は島田の顔に血の気が引いているのを見た。


 ――倒れ伏す三人のそばで馬を下りた土方は、足元に目を落とした。

 二人の顔から胸にかけて、昨夜の雨でぬかるんだ泥がこびりついている。額や手首、(すね)には生々しい打撃痕があり、額からはまだ温かい血が伝っていた。

(俺が昨日見せたことと同じことをしていやがる)

 わずかに白い歯がこぼれる。その瞬間、かすかな物音。意識を取り戻した一人が、泥の中から腕をもがくように伸ばし、土方に銃口を向けた。

 轟く銃声――。

 土方の体は反射的に動いた。引き金が落ちる瞬間、刀の鞘で銃口をはじき、弾丸は土方から遠く外れた木立の中へ消えた。


 山道を必死に駆ける島田たち。宿に戻らず、島田の後を追った大和はやや遅れながらも息を切らせて続く。

 ふいに正面から土煙を上げて駆け寄る影。土方が乗っていた馬だった。馬の荒い鼻息に、島田の胸は一気に冷たくなる。馬を馬丁に託して再び走り出した。

 山道を左に大きく折れると、人影が見えた。

「土方さん!」

 悲鳴のような声が山間に響く。そこに立つ土方は、まるで何事もなかったかのような涼しい顔で、今にも泣きだしそうな顔の島田を見やり、口を開いた。

「なんだ。蜂にでも刺されたか?」

 その足元には三人の男が転がっていた。息はあるが、意識があるのは一人だけ。土方は短く説明すると、そのまま視線は大和へ移る。

「そもそも、そこの奴に叩かれて指がしびれちゃ、狙いなんて定まらねぇ」

 皮肉とも労いともつかぬ言葉を投げると、島田たちに男たちを縛り、猿ぐつわをするよう命じた。舌を噛んで死なせぬためだ。

 しかし、男たちは何も語らず微動だにしない。

 業を煮やした土方の気配が変わった。大和が背後から押さえる男の鼻先へ、素早く抜刀された土方の剣先が静かに近づく。

「俺に人を斬らせるな」

 その冷たい響きは、押さえている相手へのものだと分かっていても、大和の全身を硬直させた。新選組・鬼の副長と呼ばれた男の眼。その一瞬で、空気が氷のように張り詰める。

「斬らなくても、生きながら地獄を見せるやり方はいくつも知ってる。……試してみるか?」

 島田がわずかに顔を歪めた。

 元治元年(1864年)6月5日、古高俊太郎を拷問したあの日の記憶が脳裏をよぎる――逆さ吊り、五寸釘、蝋の雫。あの光景は、一度見たら一生忘れられない。池田屋に踏み込んだ日の早朝のことだった。

「とびっきりのやつを馳走するぜ」

 眼は一片の温もりもなく凍りつき、唇だけが楽しげにわずかに吊り上がる。そこには、命を奪うことすら遊戯に変える狂気が潜んでいた。もはや耐えられるわけがない。

 男の目が大きく見開き、顔が恐怖でひきつる。猿ぐつわの下で何かを発し、大きく首を縦に振った。

 ついに男が口を割った。男たちは土佐藩士で、板垣退助の命を受けて土方の動向を探っていたという。宇都宮城を短時間で落とした土方の采配は、新政府軍に最大級の衝撃と警戒を抱かせていた。その土方が会津に向かうのか否か――その動きひとつが戦局を左右すると見た板垣は、宇都宮救援のために江戸を発つと同時に間者を放っていたのだった。そして、板垣は今日壬生城に入るという。

「土佐の板垣……」

 左足の血のにじむ包帯を見つめる土方に甲州勝沼での大敗の記憶がよみがえる。

「戻って勝沼の雪辱を?」

 土方の考えを察したかのような島田の問いに、土方の口元がわずかに緩む。ふと視線を移すと、馬を引く馬丁の姿が視界に入ってきた。土方は大きく息を吐いた。

「俺たちは会津西街道を北へ向かう。行先は会津だ。板垣にはそう伝えろ」

 男に告げた土方は、島田と共に来ていた中島に、近くの農家に金を渡して三人の男の手当てをさせるよう命じた。

「この銃は預かっていく」

 男たちが持っていたのは、七連発のスペンサー銃。新政府軍でもまだ限られた者しか扱えぬ最新式だった。

 馬に跨がった土方が、ふと笑みを浮かべる。

「宿に戻るぞ。結を待たせてる。あれはいい女だ……ぐずぐずしてると田舎者に手籠めにされちまう」

「土方さんがここにいるから大丈夫ですよ。この人が一番危ない」

 島田の即答に、笑い声が広がった。だが、大和だけは笑えなかった。

 再びよぎる昨夜の光景。そして『手籠め』という言葉。これらが混ざり合いながら膨れ上がり、大和の心をかき乱した。――いや、関係ない。あってはならない。仇を前に色恋に心を乱すなど武士の恥だ。必死に平静を保とうとする大和。その胸中を見透かしたように、土方がちらりと馬上から見下ろした。

「安心しろ。今の俺は恩を仇で返すような外道じゃねぇ」

 薄ら笑いを浮かべ、土方は馬を進めた。

 帰路につきながら、大和の胸にひとつの疑問が残った。

(……なぜ、あいつは男たちを斬らなかった?)

 宇都宮城を攻める前、捕らえた敵兵の首を刎ね、血祭りにして軍神に捧げた――そんな男が、なぜ今日、刀を収めたのか。耳で聞いた鬼と、目の前にいる男。その落差に、大和は答えを見いだせずにいた。


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