第5話 慶応4(1868)年4月25日 銃声の先に
「どなたですか!」
朝五ツ(午前8時)頃、静まり返った宿に結の鋭い声が響いた。
襖が一斉に開き、島田らが庭へ飛び出す。
少し遅れて姿を見せた土方が、結から事の次第を聞き取った。
「二、三人の町人風の男たちが、外から邸内を覗いていました」
土方の瞳が一瞬鋭く光る。
「周囲を見張れ!」
島田たちに指示を飛ばすと、大和にはこう命じた。
「今市にいる大鳥に伝令だ。『間者多数あり、用心せよ』――そう伝えろ」
大和は眉をひそめた。戦が迫るこの時勢、間者が一人や二人潜り込んでいてもおかしくない。なぜ自分がわざわざ今市まで往復せねばならないのか。飛脚や宿の下人でも済むはずだ。
一方で、昨日から続く土方の含みのある物言いや常に張り詰めた空気の中にいることにも、正直うんざりしていた。
(……大鳥さんに頼み込んで今市の部隊に残してもらおう)
そう決めると、大和は憂鬱さを振り払い、馬小屋へ向かった。
鞍を締め、いざ馬を駆け出させようとしたとき、土方が短く言った。
「周囲に気を配れ」
馬にまたがる大和の背が遠ざかるのを見送りながら、土方の顔にふと「しまった」という色が走る。その表情を、島田と結は見逃さなかった。
昼四ツ(午前10時)過ぎ、大和は今市宿に到着し、大鳥への面会を願い出た。総督たる大鳥は多忙であり、一兵卒の大和が容易に会える相手ではない。だが、土方からの伝令と聞き、わずかな時間を割いた。
「間者多数あり、用心せよ」
言われたとおりに大和が告げると、大鳥は意味深な笑みを浮かべ、簡単な返事だけ残して去ってしまった。大和は同行の願いを切り出す機を逸し、渋々川治への帰路につく。
(こんな返答……あいつになんて言われるか……)
急ぐ必要はないと感じ、馬の歩みに任せて進む。視界に広がるのは田畑と山並み、川、そして農作業や漁に励む人々。土方の「気を配れ」という言葉も、今はただの形式ばった忠告に思えた。
特別報告するまでのことはない――。そんな大和の脳裏に浮かぶのは、大鳥の心中だ。
土方の戦場での手腕は群を抜き、兵からは守護神のごとく畏敬されている。そんな土方に対して、大鳥には嫉妬にも似た感情があるのだろう。
何の変哲もない伝令の言葉。そこに何か含みがあるのか、それとも……。そして、大鳥の返答。
(……こんな小さなことで張り合ってるから、戦に負けるんだ)
考えを巡らせながら、大和が川治の手前に差し掛かった時だった。
突如として響く銃声。馬が悲鳴のようにいななき、前脚を高く蹴り上げる。大和の体は宙に放り出され、地面に叩きつけられた。馬は驚きのまま川治の方へ駆け去っていった。
(……地元の猟師か? ついてないな)
身を起こした大和。その刹那、大和の視界に街道脇の茂みから三つの影が現れた。
その頃、川治の宿にも銃声が届いていた。
「……気のせいか」
誰も深くは考えず、大和の帰りを待ちながら出発の支度をしていたところに、やがて馬の蹄音が近づく。その音は宿の前でやんだ。
宿の前で止まったのは、一頭の馬。鼻息を荒くし、落ち着きなく足踏みをしている。鞍を見た馬丁が息を呑んだ。大和が乗っていった馬――。場の空気が一変する。
「馬ひけ!」
土方の声が響く。その声を聴いて宿の奥から飛び出してきた結。土方に向かって結が冷静に言った。
「だめです。無理をすれば傷が開きます」
その場に居合わせた者たちも口々に止めようとする。
すると、土方は杖代わりの刀を抜き、低い声で言い放った。
「指示に従わぬ者は、法度に従い斬る」
京都時代の記憶が面々の背筋を凍らせる。昨夜の穏やかな雰囲気は跡形もなく、大波のような緊張が押し寄せた。
馬丁が従い、土方は馬にまたがると、勢いよく走らせた。島田も慌てて追う。
(……やっぱり土方さんだ)
土方を追いながら胸に込み上げるものがあった島田。
そこに次の銃声が轟く。
恐怖のどん底に落とし込まれた島田。
島田の脳裏に浮かぶ苦い記憶――。
4ヶ月前の慶応4年12月18日。京都二条城から伏見奉行所へ向かう途中、新選組局長・近藤勇は御陵衛士の残党に狙撃され、右肩に銃弾を受けた。この時、警護についていた島田は、その発砲音を間近で聞いた。
また同じことが起きるのか。島田の胸に、あの日と同じ焦燥と恐怖が渦巻く。