第40話 慶応4(1868)年9月7日 闇の萌芽
しばらく包彦の足元で泣き崩れていた太一。急に涙を拭いて立ち上がり、近くにいる治部に掴みかかった。
「なぜ、無理やりにでもみさを連れ帰ってくれなかったんだ! あの時、伊南に連れ帰ってくれてさえいれば、こんなことにはならなかった!」
荒ぶる声が旅籠の中に響いた。包彦は慌てて太一の背後から腕を回し、羽交い絞めにして治部から引き離した。だが太一はなおも叫ぶ。
「馬場の言う通り、田島に向かっていればよかったんだ!」
怒りと悲しみに燃える目で治部を睨みつける太一。しかし治部は沈黙したまま、ただその視線を受け止めるばかりであった。返答のないことに苛立った太一は、包彦の腕を乱暴に振りほどくと、勢いそのまま旅籠を飛び出していった。
その姿を見届けた治部は外に出て、通りに面した椅子に腰を下ろす。両肘を膝に置き、うなだれるように顔を伏せた治部。その姿は、普段の威厳ある父とはまるで別人のように見えた。
「……どうかお気になさらず」
包彦が声をかける。自分の父がこうして弱い姿を晒すのを目にするのは初めてだった。治部はゆっくりと顔を上げ、包彦を見て、かすかな笑みを浮かべた。
――かつて蝦夷地勤番から無断帰還した際、包彦が若輩であることを理由に桧枝岐口防備を願い出たことを思い出す。その時は半人前だと見ていた息子から、今や慰めを受けている。太一に一言も返せなかった自分の不甲斐なさと相まって、治部は苦笑とも安堵ともつかぬ笑みをこぼしたのだった。
治部は、包彦に告げた。
「今日はここに泊まり、部隊とは明日、永井野で合流する。お前は彼が暴走せぬよう寄り添え。今はその時ではない」
治部の言葉に頷き、太一を追おうとしたその時、女将が包彦を呼び止めた。女将に促されるまま旅籠の中へ入る包彦。
「これを……」
差し出されたのは一本のかんざし。包彦がみさに贈ったものだった。かんざしを受け取る包彦。女将は震える声で続けた。
「みさちゃん、息を引き取る間際、そのかんざしを握りしめて、『包彦さん』って……」
嗚咽が言葉を途切れさせる。包彦の胸に、熱いものがこみあげた。涙があふれ出しそうになり、顔が歪む。袖で顔を押さえ、必死にこらえた。やがて袖を離し、無理に平静を装いながら小さな声で言う。
「お別れをさせてください」
包彦はみさの傍らに座り、白布をそっと外した。そこには安らかに眠るような顔があった。両頬に手を当てる。だが、そこに温もりはなかった。
動かぬ包彦に、女将が静かに声をかける。
「いいのよ。泣いても」
「いいえ……太一の方がよほど悲しいはずです。僕が泣くわけには……」
「だから人は泣けるの。今は誰もいないわ」
女将が後ろから包彦の両肩に手を添える。その温もりに触れた瞬間、包彦の張り詰めていた心が音を立てて崩れた。みさの頬に手を当てたまま、人目をはばかることなく泣き崩れた。
その後、包彦たちが田島村を去るのと入れ違いに、大介が静かにみさの亡骸をを引き取っていった。
翌8日早朝、治部や包彦たちは田島村を発ち、大内村を経由して精神隊との合流地点である永井野村を目指した。永井野村は大内村の北北西約3里(約12㎞)に位置し、大内村の北・大内峠の手前を西に分岐して進む。すでに新政府軍は若松城下に入っていたため、周辺にその姿はなかった。
治部の一行を先頭に、包彦と太一は少し離れて後ろを歩く。包彦は、治部の命に従い、暴発しかねない太一の動きを絶えず注視していた。
だが、包彦は気づかなかった。うつむきながら歩く太一が、時折ふと顔を上げ、治部の背中を鋭いまなざしで射抜いていたことに――。




