慶応4(1868)年4月24日 仇と未熟者①
正午頃に今市宿を出発した土方一行は、結の提案で川治を本日の宿に定めた。暮れ六ツ(午後6時)過ぎ、川治温泉の薬師の湯に到着する。
『傷は川治、火傷は滝(鬼怒川)』――地元でそう言われていると結は説明した。土方の傷にはこの湯が良いと踏んだのだ。
今市から若松へ通じる会津西街道には、大桑宿から五十里宿まで三つの道がある。鬼怒川東側の険しい峠越えの本道、西側を行く道、そして鬼怒川東側を進み川治を経由する平坦で距離の短い道。この日選んだのは三つ目だった。なお、会津側からは会津西街道を「下野街道」あるいは「南山通り」と呼んでいた。
湯治場に着くと、囲炉裏を囲んで簡素な夕餉が始まった。炙った川魚の香りと薪のはぜる音が、旅の疲れをほぐしていく。
前日の今頃は、宇都宮での戦に敗れて退却の真っ最中だった。それに比べれば、この静けさは夢のようだ。笑い声も漏れ、穏やかな空気が漂う。ただ一人、大和を除いて。
(なぜ仇と飯を共にせねばならないのか)
胸の奥にじわじわと不愉快さが広がり、箸は進まなかった。
「朴念仁、ちゃんと食えよ」
土方の声に大和はすぐには反応しなかったが、周囲の小さな笑い声でようやく自分に向けられた言葉と気づく。
(嫌味な奴――やはり仇だ!)
大和は、口いっぱいに食事をかきこんでいった。
ふと、島田の口から言葉が漏れる。
「なんか……『あの頃』に戻ったみたいだな。ここに……」
「その辺でやめておけ」
土方が短く遮る。島田は瞬時に真意を察し、それ以上は口をつぐんだ。
島田魁――美濃の出身で土方より7歳年長。大柄で剣は心形刀流の遣い手である一方、文芸を好み、最後まで土方に従った。戊辰戦争後も余命を全うし、新選組に関する貴重な証言を後世に残した男である。
食事が進む中、土方は幾度となく自分に向けられる視線に気づいた。
「……何か用か? 悪いが、俺にそっちの趣味はねぇぞ」
挑発めいた一言に、大和はたまらず口を開く。
「あの時、何を?」
不躾な質問をする大和を島田がたしなめるが、土方は手で制した。
「何をしたと思う?」
「……地面に立てた鞘の先で土をはじき、間髪入れずに突きを入れた」
「ほぉ……」
土方が珍しく感嘆の声を上げる。
「ほぼ正解だが、ちょっと違う。だが、なかなかいいぞ」
土方は結に水を張った桶と3尺(約90㎝)ほどの棒を持ってくるよう頼み、島田には箸を持ったまま隣に、正対するように座らせた。
「見ていろ」
土方は桶の中に棒を立て、左手で上端を掴み、右手は中央やや上を握る。刀と棒の違いはあるものの、昼間、大和が見た構えだ。
「行くぞ」
土方は左手を自分の方へ強く引く。支点となる右手の位置はそのまま。すると桶に浸かっていた棒の片端が勢いよく跳ね上がり、水が島田の顔に飛び散った。島田が反射的に目を閉じた瞬間、棒の先で箸を持つ島田の右手を下から叩き、さらに胸へ軽く突きを入れる。箸は宙を舞い、濡れた顔のまま唖然とする島田。
「……ひどいなぁ」
濡れた頬をさする島田の一言に自然と笑いが広がった。
「こうやって、お前は無様に俺の前にひれ伏したわけだ」
大和は返せなかった。腹立たしさではない。あの時、三つすべての打撃は同時だった。一瞬で相手の動きを見極めて放たれていた。その技量に圧倒されていた。
(……こんな奴に仇討ちなどできるのか)
片付けを終えた島田が席に戻ると、土方がふと尋ねた。
「芹沢の仇とか言っていたが、芹沢はお前の何なんだ? 訳もなく斬られたんじゃ、たまったもんじゃねぇ」
「……芹沢先生から剣術の手ほどきを受けました」
師かと問われ、大和は首を振った。江戸で本格的に剣術を学ぶ前、幼少のわずかな間だけ手ほどきを受けたのだという。
壬生藩は神道無念流の開祖・福井嘉平の出身地。藩は武術を奨励し、江戸藩邸にも道場を設けたが、大和は江戸家老と妾の子で、藩邸道場に通えなかった。そんな彼に、同門の誼で江戸に滞在していた芹沢が剣術の基礎を教えていた。
「ほんと朴念仁だな、てめぇは。そんな安っぽい理由で仇呼ばわりされたら、俺は数百、数千人に命を狙われているというわけだ」
「武士が恩人の仇を討つのが安っぽいだと!」
大和は勢いよく立ち上がった。
土方は見上げ、穏やかな口調で返す。
「いいか。ちょっと習ったくらいで仇討ちだなんて、ただの私怨だ。戦の最中に個人の都合で動いてんじゃねぇ」
言いながら、土方はふっと笑った。
「……何がおかしい!」
「こっちの話だ」
それ以上は語らず、土方は口を閉ざす。
「まぁ、座れ」
島田が促し、大和は渋々腰を下ろす。そして島田が、不意に切り込んだ。
「なぜ藩を裏切った?」
(……このおっさん、空気読めねぇのか!)