第30話 慶応4(1868)年4月13日 毛虫と相棒
三月上旬――。雪解けが進み、山里にもかすかな春の気配が忍び寄る頃。
桧枝岐村に出向いていた包彦が不在の中、古町村の照国寺では男たちが薪の香漂う堂内に集まっていた。
場を仕切った馬場太郎右衛門が低く告げる。
「私は倅殿のお力になろうと思うが、どうだ?」
ざわめきが走る。
「お若いが、なかなかの器を持った御仁と見た。我らはもともと河原田の家臣。ご領主の末裔が力を求めているのだ。従わぬ理由はあるまい」
雪深き伊南で、河原田家の血筋を引く若者が自ら先頭に立とうとしている。その姿を見続けてきた馬場の言葉には、自然と力がこもっていた。
「馬場殿がそこまで言うのなら、わしらに異論はない」
「我らのご先祖は、あの伊達政宗すら追い返した。ならば今度は、倅殿のもとで薩長を追い返してやろうじゃないか!」
豪胆な声が次々と上がり、ざんばら髪の男たちが頷いた。馬場の影響力は絶大であった。
その場の末席で静かに座していたのは太一。父・大介に代わり話を聞いていたが、心中は穏やかでない。会合が終わると足早に家へ帰り、囲炉裏端に横たわる大介へ愚痴をぶつけた。
「名主殿まで、あんな奴に騙されちまって……」
大介はしばし黙したのち、火の粉を眺めながらゆっくり答えた。
「そうでもねぇぞ。あの子倅、なかなかやるぞ」
めったに人を誉めぬ父の言葉。太一の胸に鋭い棘が刺さった。尊敬する父が、他の男を褒めた――その事実が悔しかった。
「くそっ……」
家の外へ飛び出すと、前庭の大木を思い切り蹴った。
ばさり、と枝から毛虫が降りかかり、頭や肩を這う。
「うわあああっ!」
伊南の静寂を破り、獣じみた叫びが響いた。
やがて時は流れ、四月半ば。
11日、江戸城が新政府軍に明け渡され、北へ逃れた旧幕府軍と新政府軍が野州で激突。戦火の匂いは次第に会津領内にも漂い始める。
桧枝岐口の番所に詰める日数が増えた包彦は、斥候を放ち、藩境を固める一方で、農兵たちとの訓練に汗を流していた。
この頃、3月1日には古町村の南西約半里(約2㎞)、伊南川対岸の宮沢村に田島陣屋の出張所である御用場が設置されていた。雪解けを待ち、桧枝岐口防衛を強化すると同時に、蛇行する伊南川を天然の要害として下野街道から伊南に侵攻するかもしれない新政府軍に備えるためである。
中世、河原田氏が伊南川西岸に久川城を築き、伊達政宗の攻撃すら防いだ知恵が、ここでも生かされていたのである。
4月13日。曇天の下の古町村。
太一は所在なげに村を歩いていた。今月の桧枝岐口警護は古町・白沢・多々石の三村が当番であったが、太一は役目に飽き、理由をつけて実家の多々石に戻ってはのんびり過ごしていた。
照国寺の境内に差しかかると、人影が目に入る。竹刀を振るう包彦の姿だった。
「精が出るじゃねぇか」
太一はにやりと口元を歪め、歩み寄る。
「俺らに見張りを押し付けといて、御大将はこんなところで稽古かい? いいご身分だな」
包彦は黙々と竹刀を振り続けた。
無視されたと感じた太一は、小枝を拾って投げつける。胸に当たり、包彦がようやく振りを止めた。汗を拭い、一言。
「後にしてくれるかな。数日寝込んで鍛練が疎かになってしまったんだ」
(すました、いけ好かねぇ、ぼっちゃんだぜ)
苛立ちが胸を焦がす。
「みんな言ってるぜ。倅殿の剣なんざ大したことねぇってな。敵はもう近くまで来てる。今さら稽古しても手遅れだ!」
「そんなことは僕が一番わかっているよ。でも、だからといって何もしないわけにはいかないだろう。悪いけど邪魔しないでくれるかな」
包彦は背を向け竹刀を構え直す。その姿に太一はさらに挑発した。
「実戦に勝る稽古はねぇ。俺が相手してやろうか?」
包彦は構えを解き、太一の方へ向き直った。
「確かに一理あるね。だが君、剣を学んだことはあるの?」
「あるわけねぇだろ」
「ならやめておこう。怪我をさせたくないからね」
見下されたと感じた太一の声が荒くなる。
「弱っちいくせに威勢だけは立派だな。安心しろ、お前なんか俺の足元にも及ばねぇ! 侍が猟師に負けるのが怖いなら、無理にとは言わねぇがな!」
その言葉に、包彦は竹刀を握り直した。少しずつ村の者たちと打ち解けてきていた。だからこそ、無用な争いごとは避けたい。しかし、戦わず背を向けたと言われては、武士として、そして父やご先祖に対して顔向けができないと思った。
「わかった。そこまで言うなら相手してもらうよ!」
太一は、にやりと笑った。そして、箒を手に取り、膝で折って棒とした。
「一回勝負だ!」
包彦が声を張り上げる。竹刀と棒。二人は境内で対峙する。
どっしりと構え隙を待つ包彦。これに対し、太一は素早く踊るように動き回る。
太一が石につまずき体勢を崩した。そこへ包彦の竹刀が振り下ろされる――しかし、それは太一の誘い。ひらりとかわし、逆に棒で包彦の小手を叩いた。竹刀が手から滑り落ちる。
「弱いな。その程度で俺たちを仕切ってんじゃねぇ! お前なんか昔の領主の名前がなけりゃ、何もできねぇ弱虫だ!」
弱虫――その言葉に包彦の胸が熱くなる。竹刀を拾い上げ、無言で構えた。
「一回勝負のはずだろ? 侍のくせに二言ありか? まあいい。今度はそのぼっちゃん頭にきついのをお見舞いしてやらぁ」
二度目の対決。今度は包彦が足を使って距離を取り、境内隅の立ち木の前で足を止めた。立ち木を背に構える包彦。
「もう逃げ場はねぇぞ!」
太一が迫った瞬間、包彦は木を蹴り太一の背後へ回り込む。立ち位置が入れ替わった刹那――。
「うわあっ!」
枝から大量の毛虫が降り落ちた。太一は仰け反り、背中から倒れ込む。
気付けば鼻先に竹刀の切っ先。そして、先端にはのたくる毛虫。
「や、やめろ!」
仰向けのまま這いずる太一に馬乗りとなり、毛虫付きの竹刀の先端を太一の顔に近づけて包彦が叫んだ。
「確かに剣は未熟だ。だから頭を使うんだ! これが僕の戦い方だ!」
包彦の肩口にも、もぞもぞと這いまわる毛虫。
「無理無理! 降参だ! やめてくれ!」
悲鳴に似た声。包彦は竹刀を離し、互いの身体を這う毛虫を払い落とした。
二人は伊南川の土手に寝転び、流れる雲を見上げた。
「猟師なのに毛虫が駄目なんて」
「うるせぇ! 嫌いなもんは嫌いなんだ!」
包彦は声をあげて笑った。伊南に来て初めて心から笑えた気がした。
「お前……俺が毛虫駄目なこと知ってて木を使ったのか?」
「知らないよ。ただ、毛虫が多い木だと知っていただけ。君の注意を引こうと思っただけなんだけど、あんなに落ちてきて、僕も本当は気持ち悪かったよ」
太一はふっと笑い、父の言葉を思い出した。雲間から青空が広がっていく。
「……俺は人の命を取ることはできねぇし、そんなこと絶対しねぇ」
包彦は身体を起こして太一の顔を見つめた。横になったままの太一も包彦に視線を向け、更に続けた。
「猟師だから、生きるためだけに獲物を獲る。それ以上は要らねぇ。だから、人を殺すなんて俺にはできねぇ。それでもいいか?」
包彦は優しい眼差しで答えた。
「いいよ。僕は人を殺すためじゃなく、会津を、伊南を守るためにここにいるんだから」
二人はしばらく並んで川を眺めた。
照国寺へ戻ると、境内に妹・みさの姿があった。包彦は黙って頭を下げ、離れのの中へと入っていった。
「兄さま、誰?」
太一は少し照れくさそうに答える。
「あいつは……今日から俺が仕える、河原田包彦って名前のおぼっちゃんさ」
みさは驚いた。いつも我を張る兄が「仕える」という言葉を使ったことに。
そして同時に、その包彦という少年に強い興味を抱いた。




