第20話 慶応4(1868)年5月3日 茶臼山奪還
5月3日――季節は梅雨。
灰色の空から絶え間なく雨が降り続け、土も草も水を含んで重く沈んでいた。増水した川の水は、所々に架けられた橋を流し去っていた。
この日、永倉は山川から茶臼山奪還を命じられた。
茶臼山――今市宿の北方半里(約2キロ)にそびえる標高500mほどの小高い山。頂からは今市宿はもちろん、南の荊沢村や北の大桑方面までも見渡せる。先の戦で猟師隊が退却した隙を突き、土佐兵が占拠、胸壁を築いて20余名が陣を張っていた。
今市への再攻撃は雨のため延期されている。その裏で荊沢村に新たな橋を架ける作業が急がれていた。茶臼山を敵に押さえられていては、その動きは筒抜けになる。作戦の成否を左右する拠点――だからこその奪還命令だった。
大和にも事情は理解できた。けれど胸には棘のような思いが刺さっていた。
「……俺のせいです。あの時、猟師隊に救援を求めたから」
呟いた大和に、永倉が薄く笑う。
「気にするな。あの時はあれが正解だ。あれで救われた命もある。状況が変わっただけのことだ」
大和は、土方と同じ響き、同じ重さ、隊を束ねる者の気配を永倉から感じた。
永倉はニヤリと笑いながら続けた。
「土方さんみたいだろ?」
「島田さんも会津で同じことをやっていました」
「あんなおっさんと同じにするな!」
会津でもあったな、こんな会話……。ほんの数日間のことが、とても懐かしい。
「で、お前はどうする?」
永倉の問いは鋭かった。今回の作戦は確実に斬り合いになる。大和の顔の迷いは薄れていたが、果たして刃を交えたときにどうか。
大和は迷わず立ち上がり、柄に手をかけた。
「行きます!」
雨の帳の中、大和と永倉は剣客10名と猟師隊50余名を率いて山を登った。濡れた葉が兵たちの頬を打ち、靴底が泥に沈む。降りやまぬ雨音が、兵の足音や衣擦れの音をすべて呑み込んでいた。
やがて敵陣が近づく。永倉は兵を森に潜ませ、自ら一人で胸壁の前に歩み出た。見張りの土佐兵が行く手を阻む。
「新選組二番隊組長、永倉新八!」
名乗りを聞いた土佐兵が色めき立つ。半年前の近江屋事件――坂本龍馬暗殺の影が、いまだ彼らの胸にくすぶっていたのだ。
銃口が永倉に向けられる瞬間、鋭い刃が閃いた。見張りの兵が一刀のもとに斬り伏せられる。同時に森の中から銃声が轟いた。猟師隊の一斉射撃である。銃弾に怯み、胸壁に身を隠した土佐兵の陣に、大和らが一気に斬り込んだ。
勝敗は瞬時に決した。猟師隊を除けば数で勝るはずの土佐兵は、懐に飛び込まれたことでなす術なく乱れ、次々に退却していった。
その時、一人の土佐兵が大和に刃を向けてきた。大和の手が震えた。抜いた刀が雨に濡れて冷たく光る。あの血の匂い、今市宿での土佐兵の目が脳裏に蘇る。
土佐兵の斬撃を受け止める大和。そのまま鍔迫り合いのまま押し込まれ、木立に背をぶつる。刹那、大和は土佐兵の腹に蹴りを入れた。倒れ込む土佐兵。すぐさま剣先を鼻先に突きつけると、土佐兵の顔は恐怖でひきつった。だが大和はこれを斬らなかった。ただ目で「行け」と告げると、土佐兵は転がるように山を駆け下りていった。土佐兵を見送る大和の心臓の鼓動は、雨に混じってやけに大きく響いていた。
陣の外では猟師隊の銃撃が土佐兵の退路を遮っていた。傷を負い倒れる者、血を流しながら走り去る者――。土佐兵はついに今市宿へと引いていった。
戦は終わった。茶臼山は会幕軍の手中に還った。
猟師隊が続々と山頂の陣に戻る。その中に、大和に笑顔で頭を下げる猟師がいた。先日の戦闘中、真っ先に大和の報告を受けた猟師だった。
(無事だったんだ……)
安堵――なのだろう。雨に濡れた草の上に座り込む大和に永倉が歩み寄る。
「こうなることは分かってた。……だがいいか、迷うなら戦場に来るな。死ぬぞ」
永倉の目は真剣だった。
大和の胸に再び迷いが渦巻いた。守るために斬れと土方は言った。けれど今も人を斬ることはできなかった。
永倉は言葉を継ぐ。
「だがな、いざって時は身体が勝手に動くもんだ。あの時、お前は俺を救ってくれた。強い思いがあれば身体は動く。深く考えるな」
大和は頷いた。確かに、あの瞬間は考える間もなく動いていた。迷いの闇を少しだけ晴らすように、永倉の言葉が胸に響いた。
茶臼山には猟師隊を残し、大和と永倉は雨の中を下山した。
(……やはり、あの人は見抜いていたんだ。俺が永倉さんの元で何を学ぶかを)
自らの背に注がれる大和の視線。これに気づいた永倉が優しく微笑む。
濡れた道を踏みしめながら、大和には、目の前の背と遠い背が、ひとつに重なって見えていた。




