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戊辰役秘録4 山河を駆ける  作者: 氷乃士朗
第一部 今市
20/68

第19話 慶応4(1868)年閏4月27日 繋ぐ想い

 閏4月26日夜半――屋根を打つ雨脚は昨夜より弱まっていた。

 隣では島田が深い眠りに落ちている。だが大和の(まぶた)は閉じなかった。土方の言葉と結の言葉が胸の中でせめぎ合っていた。

 ――守るためならためらうな。

 ――人を殺めてはならない。死んではいけない。

 どちらも正しい。人を斬った恐怖を知り、二度と斬りたくないと思う一方で、斬らねば自分が斬られる。そして仲間も。答えのない問いに心を巡らせるうち、ふともう一つの土方の声が蘇った。

「本当に守りたかったのは、仲間との時間、そして明日だった」

 では、自分が求めるものは何か。自分にとっての「明日」とは。

 かつて土方が語った「あの頃」は、自分にもない。そう思ったとき、真っ先に心に浮かんだのは結の姿だった。素っ気ない態度の裏に潜む寂しさ、ふとした瞬間にのぞく微笑み。透明な気配と、確かな温もり。――そうだ、自分は初めて会ったときから、彼女に惹かれていた。気づいた途端、心の底から願いが生まれた。

 ――生きたい。結の声を聞き、そばにいたい。

 そこには土方や島田、永倉たち仲間がいる。共に明日を見たい。

 それが自分の望むものだと悟ったとき、不思議と迷いは消えていた。満ち足りた思いに包まれ、まどろみに沈みかけたその時、不意に胸を突く予感が走った。

(あの人は、死ぬ気だ!)

 かつて臨終の間際に芹沢を斬った理由を話すと言っていた土方。その答えを既に自分に語った。そして「明日を見ろ」と告げた。

 ――ならば臨終にあるのは土方自身。

 仇と思ってきた男の背中は、いつしか追いかけるべきものに変わっていた。大和の目に涙がにじむ。気づけば、雨は止んでいた。


 27日明け方。霧に覆われた街並みは、光を柔らかく反射して白く霞んでいた。

 一人身支度を整えた大和は、眠る島田に小さく頭を下げて部屋を出た。土方と顔を合わせれば未練が残る。言葉を漏らしてしまう。今は女々しいと思われたくない――そう思って足早に廊下を抜けた。

 廊下を抜け、戸口に差しかかったとき、人影が立っていた。霧に差す光を背負う影。そこにいるのは、やはり土方だった。

(やはりお見通しか……)

 この人には勝てないと思いながら、土方の顔を見ることができた――大和は喜びの微笑みを隠すように頭を下げて、土方の横を通り過ぎる。

「待て」

 大和の背中に向けられた低い声。振り返った大和の目に、兼定を水平に差し出す土方の姿が映った。

「持っていけ」

 かつてと同じ光景。あの時は受け取れなかった。今度こそ――大和は意を決して右手を伸ばし、強く握りしめた。鋭い眼差しに射抜かれ、土方は兼定を手放す。

(……託された)

「こっちの雨は上がったが、峠は分からねえ。……こいつも持ってけ」

 差し出されたのは白い布。洋装の首元にいつも巻かれていたものだった。

「戦の前に風邪なんざ引くなよ」

「ありがとうございます。……土方さん」

「どうした?」

 大和は言葉を選んで続けた。

「結さんのことを、お願いします」

 土方の口元にわずかな笑みが浮かんだ。

「筋金入りの朴念仁だな、お前は」

 大和も微笑み、深く頭を下げて外に出た。


「起こして悪かったな」

 土方が襖の向こうに声をかける。襖がゆっくりと開く。結が静かに立っていた。土方は続ける。

「ほんと分かっちゃいねえな。お前が笑顔のときは、決まってあいつがいるってことを」

 言葉が見つからない結。胸に手を当て、頬を緩ませた。気づかなかった自分の想いに、今さら心が温かくなる。

 土方は真剣な眼差しで言った。

「頼みが二つある。一つは、この宿にしばらく残ってくれ。もう一つは……あいつを待っていてやってくれ。ただ待つだけでいい。その先は好きにしてくれていい」

 結も直感的に土方の覚悟を感じ取っていた。結は頷き、少し照れくさそうに笑った。

「大和さんが土方様の弟なら、私は義理の妹ですね」

「いやか?」

「いいえ。光栄です。楽しい方々と家族になれて」


 街道をゆっくり馬を進ませる大和。その視線の先、霧の中にうっすら浮かぶ影。

「狸寝入りでしたか」

 大和の言葉に島田は笑いながら口を開いた。

「感動的な場面を邪魔するほど野暮じゃないんでね。土方さんと違って」

 しばし霧の街道を並走する二騎の馬。

 峠道に差しかかり、島田が馬を止める。

「ここまでだな」

「ありがとうございました」

 疲れた体を鞭打ってここまで見送りに来てくれた島田の心遣いが、大和は心底嬉しかった。

「もしかしたら、これが最後になるかもしれない」

「お互い様ですね」

 白河と今市、これまで以上の激戦になる。

 土方さんの手前言えなかった――との前置きの後だった。

「俺も弟みたいに思っていた」

 少し照れくさそうな島田に、大和は笑って返す。

「島田さんは兄じゃなく、おじさんですよ」

 霧の中に笑い声が溶けた。

 別れ際、大和は声を張った。

「土方さんに伝えてください。今日から土方を名乗る、と」

「いいんじゃないか。必ず伝える」

 島田は背を見せ去っていく。大和は、島田の姿が霧の中に消えるまで見つめていた。

(まあ、『いとこ』くらいにしてあげるか)

 霧の合間から、わずかに陽の光が届き始める。大和は馬を進めた。激戦が待つ今市へと。


「なかなか粋なことを言いやがる……土方大和――俺と近藤さんが一つになれば無敵じゃねぇか」

 宿に戻った島田からその言葉を聞いた土方は微笑んだ。

「島田……」

「はい」

「もう弟は死なせたくねぇな」

 その一言に、襖の向こうの結の瞳が潤んだ。


 その夜、小百村の本営に戻った大和は永倉にしみじみと語った。

「仲間って、いいものですね」

 永倉は穏やかに返した。

「お前も仲間だよ」

 晴れやかな顔の大和に、永倉にも自然と笑みがこぼれる。

 外は再び雨に包まれていた。


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