第1話 慶応4(1868)年4月24日 鬼との邂逅①
今市宿――日光道中20番目の宿場町。
宇都宮宿からおよそ7里(約27km)、終点の日光まではおよそ2里(約8km)。慶応4年当時、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠21軒、宿内の家数236軒、人口1,594人を数える規模を誇っていた。
この宿場は単なる通過点ではない。日光道中のほか、例幣使街道(倉賀野宿から今市宿)、壬生通り(日光西街道、小山宿から今市宿)、会津西街道(今市宿から若松城下)、日光北街道(今市宿から大田原宿)が交わり、東・西(南西)・南・北すべてから日光へ向かう道が必ず通る交通の要衝でもあった。
普段から賑わいを見せる今市宿だが、この日の喧騒は異質だった。
江戸開城後、江戸を離れて国元に戻ろうとする者、二度に及ぶ宇都宮城の戦いから逃れてきた者、そして宇都宮での戦いに敗れた旧幕府軍兵士。宿内は人の姿であふれかえっていた。
その喧騒の中、本陣の庭に面した縁側に一人の男が腰を下ろしていた。
散切り頭に和服姿。一見すれば明治の書生のような風貌。右脚を曲げて胡坐をかいているが、左脚は外側に伸ばし、左足先には包帯が巻かれ血がにじんでいる。
その背後には無造作に刀が横たわっていた。
男の名前は、土方歳三――新選組副長。
前日、宇都宮城での新政府軍との戦闘中に銃弾を左足に受け、そのまま今市宿へ運び込まれていた。包帯を替える時刻だろうか。屋敷の奥から湯を張った桶と真新しい包帯を持った女が歩み寄る。
その時、庭先の木戸の方から鋭い声が響いた。
「何者だ!」
見張りが声を荒げ、邸内に入ろうとする者と押し問答を始めた。やがて声は止み、代わりに足音が近づいた。
「どうした?」
土方が静かに問う。二人の見張りが若者を両脇に抱えて現れた。20歳前後、品のある顔立ちにあどけなさが残る。
土方は右手を払って見張りを下がらせ、低く問いかけた。
「何者だ?」
若者は鋭い眼差しで土方を睨み、名乗った。
「壬生藩士、鳥居大和」
その名に土方は過去のある男たちを思い出し、口元をわずかに緩める。
一方、若者が壬生藩士と知るや、見張りは刀の柄に手をかけた。旧幕府軍は北へ向かう途上で壬生藩と刃を交えていたからだ。
壬生藩は徳川家の忠臣・鳥居元忠の血を引く譜代藩でありながら、戊辰戦争では新政府軍に与した。宇都宮城奪還のための新政府軍本営が壬生城に置かれ、二日前には壬生城の北方・安塚村で激しい戦闘が繰り広げられていた。
「薩長の刺客か?」
「違う!」
大和の声には怒気がこもっていた。
「どこかで見た顔だな……その視線、確か宇都宮でも感じた」
大和の厳しい視線が土方に注がれ続ける。
「口先だけの壬生藩士様が、何の用だ?」
その一言に大和の頬が紅潮する。やがて吐き捨てるように言った。
「芹沢先生を斬ったのはあんたか?」
土方の頬がわずかに緩む。忘れていた名が、胸の奥をかすめた。
芹沢鴨――新選組初代筆頭局長。近藤・土方たちとの主導権争いの末に命を落とした男の名だった。
「だとしたら、どうする?」
「仇を討つ!」
大和は左脚を引いて重心を落とし、刀の柄を握った。それを見た見張りも同じ体勢を取る。これとは対照的に桶を抱えた女は眉ひとつ動かさない。土方もまた穏やかな目を向けていた。
「訳は知らねぇが、相手してやる。かかってこい」
土方は挑発するように言い放ち、女に片手で下がるよう合図を送る。
見張りが間に入ろうとしたが、騒ぎを聞いて駆けつけた新選組隊士・島田魁が首を振ってこれを制した。
大和が刀を抜き、すり足で迫る。土方は背後の刀を左手で持ち上げ、鞘先を地面に突き立て、左手で柄の端を握り、右手は鞘の中ほどを押さえる構えを取った。
二人の距離が2間(約3.6m)に縮まった瞬間、大和は左脚から鋭く踏み込み、上段から斬り下ろす。
刹那、大和の目に閃光のような痛み。反射的に瞼を閉じた時、右手首とみぞおちに同時の衝撃――。気付けば刀は手を離れ、地面に突っ伏していた。目つぶしであることは想像できた。しかし、一瞬のうちに何をされたのか、皆目見当がつかなかった。
「卑怯な……」
目を閉じたまま土方に顔を向ける大和。
「卑怯? 戦では卑怯も何もねえ。戦では生き残った者が勝ちだ。そのためにはどんな手でも使う。道端の糞でも投げつけてやる」
女がくすりと笑った。こんなお偉い方が子供のような物言いをするなんて……。女の名は結といった。
土方は続ける。
「綺麗ごとを抜かしていると、お前、死ぬぞ」
大和に返す言葉がなかった。
そんな大和を見やり、土方は結に手当てを命じた。だが、傷の状態は明らかに土方の方が重い。土方が先である、と結は淡々と土方に告げる。
その時、にわかに邸宅の外が更に騒がしくなった。皆々が歓喜の声を上げる。
「大鳥様が戻られた!」