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戊辰役秘録4 山河を駆ける  作者: 氷乃士朗
第一部 今市
15/68

第14話 慶応4(1868)年閏4月21日 今市宿攻防戦③

「……無理だ」

 眼前の大谷川は荒れ狂っていた。

 狭い川幅に押し込められた水は勢いを増し、巨岩が流れを乱して白波を立てている。ところどころに渦を巻き、足を踏み入れた途端に呑み込まれそうだった。とても容易に渡れる状況ではない。


 昨夜から小佐越村や今市周辺に雨の形跡はなかった。渡渉可能と判断したことは誤りではなかったのだろう。だが山の天気は裏切る。おそらく上流で雨が降り、今こうして急流となって姿を現したのだ。

 大和の胸に巣食っていた不安が、最悪の形で現実となった。

「誰だ、渡渉に問題なしと言ったのは!」

 兵の怒声が響いた。大和の心も同じ叫びで震えていた。

(どこの“土地の者”に聞いた? いつの情報だ?)

 大鳥への怒りが次々と噴き出す。

 下木戸の先鋒はすでに森友村に達している頃だろう。目の前の川を渡るのには、相当の時間と犠牲を覚悟する必要がある。その間に新政府軍に見つかる。下木戸隊も露見するだろう。作戦は潰える。悪夢の未来が脳裏をよぎった。

 大和は沼間のもとへ駆け寄った。

「こちらの状況を確認に参りました」

「見ての通りだ。川を渡るには時間がかかる。……“問題なし”と抜かした奴を恨むぞ」

 声に苛立ちを滲ませながらも、沼間は冷静だった。

「自分が戻って知らせます。同時攻撃は不可能です。撤退を――!」

「確かに、このままでは各個撃破される恐れがある。……次を見据えて、戦力を温存すべきだ」

 沼間が決断を下そうとした、その時。

 ――パンッ!

 乾いた銃声が山肌に弾けた。

 下木戸の方角。大和の血が凍る。

(まさか……)

「まだ刻限ではないぞ!?」

 沼間の怒号が飛ぶ。だが大和には分かっていた。昂ぶった会津兵が、抑えを振り切って突撃したのだと。

「下木戸へ行きます! 状況を伝え、攻撃を止めさせます! 沼間さんは撤退のお下知を!」

 走り出そうとする大和の腕を、沼間が掴んだ。

「今さら君一人で止められるものか」

 分かっている。だが何もせずにはいられなかった。このままでは下木戸隊は一手に新政府軍の迎撃を受け、犠牲を強いられることになる。誰かが動かなければ、仲間の命が無駄に散る。居ても立っても居られず焦る大和。

「攻撃が始まった以上、退くことはできん。このまま渡渉を続ける。敵が下木戸に集中すれば、こちらからの突破が容易になる。君は急ぎ小百村と本営にこのことを伝えろ。これは現場指揮官としての命令だ」

 沼間は馬を引き出し、大和に手綱を渡した。

(どうして……皆、命をこんなにも軽く……)

 胸が灼ける。怒りか、悲しみか、自分でも分からない。滲む視界の中で、兵士たちが水流に抗い、腰まで濡らして川を渡ろうとしていた。

 その光景に、大和の心は揺さぶられた。

 これまで命は忠義のために捨てるものと教えられてきた。仇を討てるなら自らの命など惜しくないとさえ思っていた。だが、無謀に散っていく命を前に、初めて「命の重さ」というものが胸に突き刺さった。

 大和は馬を蹴った。まずは小百村へ。途中、茶臼山の麓で猟師隊の兵に出会う。戦況を告げると、兵はすぐに駆け戻っていった。猟師隊は山を下ると、兵を二手に分けて上木戸、下木戸の各隊の援護に向かった。

 そして小百村に布陣する部隊に事の次第を伝え、前進を促す。この部隊が側面から援護できれば、退却の際にも味方を救える。そして本営に向かった。 

 やがて本営へ。報告を終えた大和は、一人で今市宿へ馬を走らせた。報せを受けた大鳥は茫然と立ち尽くし、言葉を失った。

 この時、すでに戦の趨勢は決まりつつあった。

 森友村に入った山川隊の先鋒――血気にはやる会津兵が、今市宿から宇都宮方面に向かう新政府軍の籠を斬ったことをきっかけに、刻限前に戦端が開かれることになった。

 下木戸を守るのは、交替で詰めていた土佐兵50人ばかり。朝餉あさげや賭け碁に興じ、緩み切った守兵は、倍以上の兵力を有する山川隊の攻勢の前に一瞬にして崩れた。だが、陣取る土佐兵は精鋭・迅衝隊。すぐさま態勢を立て直して下木戸に兵力を集中する。しかも、彼らの手にあるのは最新のミニエー銃、スペンサー銃。対する会幕軍は旧式のゲベール銃ばかり。

 雨あられのごとき銃火が下木戸を攻める会幕兵を薙ぎ払い、押し返した。やがて今市宿周辺に配置されていた部隊も異変に気付き集結。数で劣るはずの新政府軍が逆に優位に立つ。山川隊は下木戸に取りつくことさえできなかった。そして、山川隊の左翼から新政府軍の別働隊が襲いかかる。山川隊は混乱に沈んだ。

 多くの死傷者を出し、大谷川を渡って敗走するしかなかった――。


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