第9話 慶応4(1868)年閏4月1日 逆さ地図の戦略
4月29日夕刻、土方一行は若松に入った。山間に広がる城下の街並みは、戦を控えているせいか、普段の賑わいの影に張り詰めた空気が漂っていた。秋月が先に田島から手配していた七日町の清水屋旅館に腰を落ち着けると、一行はようやく長旅の疲れを癒すことができた。
夜が明けると暦は「閏」へと折れた。
太陰と太陽。二つの暦の歩調を合わせるために、三年に一度ほど挿し入れられるもう一つの月。暦と季節のずれを無理に縫い合わせるその在り方が、この乱世の均衡に重なるように大和には思えた。
閏4月1日。春の冷気が残る若松の町並みに薄い靄が立ち込める頃、清水屋の土方のもとを一人の若武者が訪れた。日光口確保のため、田島・藤原方面の指揮に向かう会津藩士・山川大蔵である。
山川は、齢24にして若年寄。既に名声を得ている人物だった。鳥羽・伏見では最後まで大坂城に残って殿を務め、敗残兵をまとめ上げて江戸へ撤退させた。その胆力に加えて、欧州視察で見聞した知識と感性が、彼の眼差しをより鋭くしていた。
二人は、京で同じ空気を吸った旧知の仲。
身分に隔たりはあっても、山川は新選組を対等に扱った数少ない人物であり、土方にとっても数少ない気心の知れる相手だった。山川もまた、そんな土方に対して、憧れに近い敬意や興味を抱いていた。互いの眼差しには、再会の喜びとともに言葉にせぬ信頼がのぞいていた。
日光口を確保できれば、若松城下への東西からの新政府軍からの進軍を回避でき、逆に関東に討って出て新政府軍の背後を衝くこともできる。この極めて重要な任務を果たすべく、土方の考えを聞くために山川は訪ねてきたのであった。
「結、紙と筆を」
差し出された大きな紙に、土方は地図を描き始めた。会津から江戸に至る道筋を描く。墨の線がすっと走り、会津から江戸までの大まかな街道が浮かび上がる。
「お前たちはこの地図を、どこを上にして見る?」
不意に投げかけられた問いに、山川が質問の意図を図りながら答える。
「北を上――でしょうか」
隣にいた大和も、首を縦に振った。
土方は二人に向け、地図を北を上にして示した。会津が上、江戸が下――常の見方である。
「これを見てどう思う?」
――どう思うと言われても、ただの地図だ。山川も大和も答えに窮する。
「いいか、江戸を下にすると、どうしても『攻め上がる薩長』『北へ逃げる徳川』って構図ができちまう。だが、こうしてみるとどうだ?」
土方は薄く笑みを浮かべ、墨の匂い漂う紙をぐるりと逆さに返した。
「どうだい? 全く違って見えねぇか? 俺には負ける気がしねぇ」
その言葉に呼応するように、大和の胸がどくりと鳴った。ほんの一瞬前まで「逃げる旧幕」「追う薩長」と見えていた構図が、逆転したことで「攻め上がる我ら」「押し潰される薩長」へと反転する。霧が一気に晴れ、視界が開けるような感覚。
山川もまた、瞳を輝かせていた。地図一枚をひっくり返すだけで人の思考を反転させる――。その発想の柔軟さに、若き会津藩士は驚嘆を隠せなかった。大和もまた同じ思いだった。
二人の心の変化を確認した土方の声が低く落ちる。
「敵の主力は奥州道中から来る。そこで、まずは白河を奪い、防衛に徹する。その間に今市と大田原を押さえる。この二つを押さえれば、敵は白河どころじゃねぇ。いつ背後を衝かれるか夜も寝れねぇ。そして、今市と大田原の二方面から宇都宮を奪う。後は簡単な陣取り合戦だ。一つの点を二つの点から突く。この繰り返しで関東の地図を塗り替える。最後に江戸だ」
土方の戦略に聞き入る二人。土方は続けた。
「仮に白河や大田原を落とせなくとも、今市だけでも死守すれば戦況を変えることは可能だ。西からの脅威に、奴ら肝を冷やすぜ。敵の進軍が鈍れば、後は筋を元に戻すだけだ」
軍事に疎い大和でさえ「いける」と思わせる構想。大和は、剣の腕前とは違う、戦略を描き出す土方の底知れぬ凄みに初めて触れた気がした。そして、その凄みは、自分が仇と憎んでいるはずの男に、抗えぬ魅力を感じさせていた。
「そういうわけで、日光口――今市が肝ってことだ」
山川に向けられる土方の鋭い視線。山川の背筋がすっと伸びた。
この時、土方の胸中にはもう一枚、秘めた策があった。海からの一撃――開陽丸をはじめとする旧幕府最強艦隊が常州沖を押さえ、新政府軍の補給を絶ち、陸を援護するというもの。しかしこの時、この策は絵に描いた餅になっていた。
北を目指す前日、江戸で海軍副総裁・開陽丸艦長の榎本武揚と交わした約束。時同じくして品川沖を出港した榎本艦隊。だが報せは途絶えたまま。勝海舟らの説得、新政府軍の監視――幾重もの網に絡め取られているのだろう。
(所詮は夢想か……なればこそ――)
土方の眼差しは、逆さ地図の今市に据えられたままだった。
土方の話を聞き終えた山川が思い出したように切り出す。
「永倉さんも大鳥さんの軍にいると聞きました」
「らしいな。まだ顔は見ていないが」
土方の表情は動かない。それでも胸中には、勝沼の後、袂を分かってからわずか2ヶ月の空白を埋める懐かしさが滲んでいた。
「よろしく言っておいてくれ」
やがて山川が立ち上がろうとしたとき、土方が声をかけた。
「こいつを連れて行ってくれ。伝令としてなら使える」
虚を突かれた大和は目を丸くした。山川は軽く笑みを浮かべ、大和に向かって言った。
「昨日の今日で同じ道を戻れというのは酷というもの。私は先に行くが、君は数日会津で休むといい」
言葉に温かみがあった。大和は返す言葉もなく、ただ黙ってうなずいた。山川は書状をしたためると、これを大和に渡して清水屋を去っていった。
三日後の閏4月4日、山川は山王峠の茶屋で大鳥を出迎えて合流。田島宿へ移動して部隊の再編制に取りかかった。
その同じ日、大和も清水屋を出発した。
早朝、出発する大和の目の前に土方が結を伴って現れた。大和に右手に持った愛刀・和泉守兼定を水平に差し出す土方。
(持って行け、とでも言うのか?)
差し出されたものを受け取ろうとする反射的な行動。大和は、軽い気持ちのまま右手で兼定を掴み、自分の方に引き寄せようとする。しかし、土方は兼定から手を放さない。引き寄せようとした大和の右手から兼定はするりと抜け落ち、引き寄せる勢いで大和は尻餅をついた。
「それが今のお前だ」
冷ややかに告げ、土方は旅館の中に消えていった。
あっけに取られた大和。一連のやり取りを見ていた結も、表情一つ崩さず、その眼差しも何も語ろうとすることなく、一礼して土方に続いて消えていった。
いつものお遊びだろうと思いつつ、結の口から何一つ言葉がなかったことに、不思議と胸がざわつく。怒りとも寂しさともつかぬ思いを抱え、大和は会津西街道を日光へと歩み出した。
次回から2話ずつ後悔します。




