紅蓮仙途 【第197話】【第198話】 霧の奈河 亡き声誘惑す 仲間呼ぶ
【第197話】黄泉の守護者
蒼汰の魂が光となり散ってから、三人はしばし言葉を失って歩いた。
足音だけが黄泉比良坂に響く。大地は血に濡れ、腐臭と瘴気が肌を焼くようにまとわりつく。ここでは時間の流れすら曖昧で、歩いても歩いても出口が見えぬような錯覚に陥る。
――それでも進むしかない。
蓮弥は背筋を伸ばした。砕けた金丹の代わりに、全身を覆う痛みと重さを抱えている。だが、足を止めればただ飲み込まれるだけだ。
不意に、空気が変わった。
前方に巨大な影が立ちはだかる。二丈を超える鬼神の姿――黄泉の守護者。
牛の角を備えた頭、赤い炎のような瞳、黒き皮膚は岩のごとく硬く、両腕は大木のように太い。ひと息つくだけで地が震え、腐敗した風が渦を巻く。
「……あれが門番か」
セリナの声はかすれていた。
ルナの尾がざわりと揺れる。四つの尾は炎を帯び、妖気が緊張に応じて高まる。
「通さない、って顔してるね」
守護者が吠えた。その声は大地を揺るがし、耳をつんざく。黄泉比良坂の闇全体が震え、魂の奥まで突き刺さるようだった。
「……避けて通ることはできないな」
蓮弥は一歩踏み出した。
守護者が巨腕を振り下ろす。地が砕け、岩が跳ね飛ぶ。蓮弥は飛び退き、拳を振り上げて迎え撃つ。
「はああああっ!」
金鋼経の力を全身に漲らせた渾身の一撃。だが、石を砕く拳も、守護者の肉体にはかすり傷しか与えられない。
「これほどか……!」
背後からセリナの声。彼女は印を結び、魔力を強く練り上げた。
「雷よ――撃ち砕け!」
稲妻の槍が走り、守護者の胸を貫いた。雷鳴が轟き、光が闇を裂く。
だが――
煙の中から、守護者はゆらりと立ち上がる。胸に穿たれた穴が、黒い瘴気を吸い込みながら再生していく。
「う、嘘でしょ……」
セリナの顔から血の気が引く。
ルナが吠え、妖火を尾から解き放った。青白い炎が守護者を包み、その巨体を燃やす。だが皮膚は焦げても、やがてひび割れから肉が再生する。
「傷が……塞がっていく……」
ルナの瞳が揺れる。
守護者が咆哮し、三人を薙ぎ払う。衝撃波が身体を吹き飛ばし、蓮弥は地に叩きつけられた。骨が軋み、口中に鉄の味が広がる。
「ぐ……ッ」
それでも立ち上がる。立たねば、ここで全てが終わる。
守護者は再び巨腕を振り上げる。セリナは魔力を奔流のように解き放ち、氷の矢を放った。矢は突き刺さるが、やはり再生。
「何をしても……意味がない……?」
ルナは尾を振り回し、飛びかかる。しかし守護者の掌に弾かれ、地に叩きつけられた。鮮血が飛ぶ。
「ルナ!」
蓮弥が叫ぶ。
守護者が止めを刺すべく迫った瞬間――蓮弥は正面から駆け出した。全身の骨が悲鳴を上げても構わない。
「仲間は――渡さない!」
拳と拳がぶつかり、衝撃が世界を震わせる。蓮弥の腕に激痛が走るが、押し返す。彼の目は決して折れていなかった。
その時、ふと気づいた。守護者の再生――上半身の傷はすぐに塞がる。だが……足元のひびは長く残っている。
「……そうか!」
「セリナ! ルナ! 奴の足を狙え!」
蓮弥の叫びが響く。
セリナが符を取り出し、雷鎖を放つ。稲妻が守護者の足に絡みつき、痙攣させた。
ルナも四尾に炎を纏わせ、足首を焼く。
「この炎、逃がさない!」
守護者が呻き、膝を折る。
「今だッ!」
蓮弥は跳躍し、拳を振り下ろした。
金鋼経第四層の全力を込めた打撃が、膝を砕く。轟音と共に守護者の巨体が崩れ落ちた。
「おおおおおお!」
全身が痙攣し、肉体が黒い靄となって崩れ始める。もがく声は悲鳴か呪詛か分からない。だがやがて、闇の中に溶け消えた。
静寂が戻る。
三人は地に倒れ込み、しばらく息を整えた。汗が背を流れ、血が滴る。
「……勝ったの……?」
セリナが震える声で呟く。
ルナは尾で体を支えながら、弱く笑った。
「ええ、勝った……でも、次はもっと強いのが来るかもね」
蓮弥は拳を見つめた。砕けた金丹の代わりに、鍛えた肉体と仲間の力で勝てた。それは誇りでもあり、同時に恐怖でもあった。次に同じことが通じる保証はない。
その時、前方の石門が軋みを上げて開いた。
冷たい風が吹き抜ける。黄泉よりさらに重く、冷たく、底知れぬ闇を孕んだ気配。
「……冥界……」
セリナの呟きに、誰も否定しなかった。
蓮弥は振り返り、二人を見た。
「俺たちはここまで来た。もう後戻りはできない。行こう」
二人は頷いた。
三人は並んで歩み出す。石門を越え、黄泉比良坂を後にする。
その先に広がるのは、闇と死の都――冥界。
【第198話】奈河の囁き
足元に広がる大地は、黒く、冷たい。裂け目のように穿たれた谷の底から、白い霧が絶え間なく湧き上がり、まるで生き物の吐息のように彼らの身体を包み込む。
蓮弥は深く息を吐き、視線を正面に向けた。目の前には、果ての見えぬ川が横たわっていた。水面は黒曜石のように濁り、波一つ立たず、ただ静かに流れている。これが——奈河。生者と死者を分かつ川、忘川とも呼ばれる冥界の大河であった。
川辺には無数の彼岸花が咲き乱れている。真紅の花弁は炎のように揺れ、霧に隠れた空間を妖しく照らし出す。その美しさは息を呑むほどであったが、同時に、どこか胸を締め付けるような哀しみを帯びていた。
「……ここが、冥界の奈河……」
セリナが小さく呟く。彼女の瞳はわずかに震え、川の向こうを見つめていた。そこには、影のような人影が幾重にも立ち並んでいるのが見える。霧のせいで輪郭ははっきりしないが、無数の魂が川岸に佇み、何かを待つかのように動かず立っていた。
「視線を合わせるな」
蓮弥は低く告げた。
「ここにいるのは、未だ成仏できぬ亡霊たちだ。気を許せば……魂を奪われる」
ルナは黙って頷いたが、彼女の白い頬には緊張が走っていた。生者が冥界を歩くこと自体、本来なら許されぬこと。すでに彼らは死者の領域に足を踏み入れてしまっているのだ。
奈河を渡るには、試練を超えねばならない。それは、ただ舟に乗るだけではなく、魂を惑わす囁きを退けること——そう、明覚から聞かされていた。
次の瞬間だった。
川の水面が微かに揺らぎ、三人の耳に声が流れ込んでくる。
「……蓮弥……」
「こちらへ……来い……」
「もう苦しまなくてよい……」
それは懐かしい響きだった。母の声、かつての友の声、失われた師の声。ひとつひとつは微かで、霧に紛れて聞き間違いかと思うほどだが、確かに耳に届く。
セリナの瞳が大きく揺れる。
「……お母様……? なぜ……」
彼女の足が一歩、川の方へと進みかけた。
「駄目だ!」
蓮弥は即座に彼女の腕を掴んだ。その瞬間、足元の霧が形を変え、白い手のようなものがセリナの足首を掴もうと伸びてきた。
ルナが即座に符を切り、火の符を投げ放つ。赤い炎が地面を走り、亡霊の手を焼き払った。だが、その煙の向こうからはさらに幾重もの囁きが広がる。
「……ルナ……我を救え……」
「お前の力では足りぬ……こちらへ来れば、すべてを授けよう……」
声は甘美で、同時に冷たい。亡霊の囁きは、それぞれの心の最も脆い部分を狙って響いてくる。
ルナの眉間に皺が寄る。彼女の指先が震えていた。
「……これは、私の父の声……」
「違う!」
蓮弥は声を張り上げた。
「忘れるな! これは冥界の罠だ! 死者は還らない、囁きはすべて幻影だ!」
しかし、声を否定すればするほど、耳の奥に別の囁きが広がっていく。
「蓮弥……」
「我を置いていくのか……?」
「共に歩むと誓ったではないか……」
胸の奥を鋭く刺す声。蓮弥の脳裏に、かつて共に戦った仲間の姿が浮かぶ。血に倒れ、最後に微笑んだあの顔。忘れようとした記憶が、無数の声に引きずり出される。
ぐらりと視界が揺れた。足元が崩れ、意識が闇に引き込まれそうになる。
その時——冷たい手が蓮弥の腕を掴んだ。
「目を開けろ、蓮弥!」
セリナの声だ。彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、それでも強く蓮弥を見据えている。
「私たちは、生きている。あなたと共に進むために、ここまで来たの!」
ルナも続けて叫ぶ。
「亡霊に心を囚われるな! あれはただの影! 本物の絆は、ここにある!」
蓮弥の心に、ふっと熱が灯った。囁きがどれほど甘くとも、過去がどれほど痛かろうとも、彼が選ぶのは今を共に歩む仲間の声だった。
彼は大きく息を吸い込み、胸の奥から真気を放つ。光が身体を包み、囁きを押し返す。
「……俺は行く。生者の道を。お前たちに惑わされはしない!」
その瞬間、川の上を覆っていた霧が渦を巻き、亡霊たちの声が悲鳴に変わる。影の群れは後退し、彼岸花の群れがざわめくように揺れた。
試練の第一関門——死者の囁きを退ける。
彼らは、冥界の最初の門を越えたのだった。




