紅蓮仙途 【第195話】【第196話】 茶湯立てる 黄泉の女微笑む 光芽生ゆ
【第195話】茶を点てる黄泉醜女との邂逅
闇の底を歩いていたはずだった。
血と腐臭に満ち、亡者の呻きが響く黄泉の道。
だが、蓮弥たち三人が幻の試練を脱した瞬間、その世界はまるで反転するかのように色を変えた。
目を開けると、そこには静かな座敷が広がっていた。
畳は青く香り、障子から柔らかな光が差し込んでいる。
先ほどまで聞こえていた亡霊の叫びも腐臭もなく、ただ湯が煮立つ音と茶葉の清らかな香りが漂っていた。
「……ここは……?」
セリナが呆然とつぶやく。
ルナは狐の姿から人に戻りつつあり、四尾を揺らして周囲を警戒していた。
座敷の中央、黒漆塗りの台の前に一人の女が座していた。
黒髪は絹のごとく艶やかに流れ、白磁のような肌に薄紅をさした唇。
着物は深緋に金糸の文様が織り込まれ、動くたびに花が揺れるように見える。
その姿は、これまで彼らが戦ってきた「黄泉醜女」の醜悪な姿とは似ても似つかない。
女は茶筅を手に、静かに茶を点てていた。
しゅん、しゅんと湯をかき混ぜる音が座敷に響き、心を落ち着ける。
「……黄泉醜女……?」
蓮弥が警戒の色を濃くして声を漏らすと、女はふと顔を上げ、優美に微笑んだ。
「ようこそ。あなたたち三人……試練を超えて、よくここまで来ました」
その声音は鈴の音のように澄んでいて、しかし背筋に冷たいものを走らせる神秘があった。
「試練……?」
セリナが眉をひそめる。
女はこくりと頷き、用意していた茶碗を一つ、蓮弥の前に置いた。
「そう。あなた方が見てきたものは幻。己の弱さを突かれる幻を越えられぬ者は、この先に進むことはできません」
蓮弥は黙って茶碗を見つめた。
翠玉のように澄んだ抹茶が湯気を立て、わずかな苦みと甘みを予感させる香りを漂わせる。
「……なぜ茶など……」
ルナが訝しげに言うと、女は微笑みながら答えた。
「茶は心を映すもの。黄泉で真の姿を隠し続けてきた私が、こうして茶を点てるのは、あなた方に祝福を告げるため」
「祝福……?」
蓮弥の胸にざらついた感情が湧いた。
祝福など、自分のような者が受ける資格があるのか。
金丹を砕かれ、仲間すら守れず、ようやく幻から逃れただけの弱者に――。
女はその心の揺れを見透かすように、柔らかに視線を注いだ。
「あなたは自らを弱いと思っている。それは間違ってはいない。けれど、弱さを受け入れ、なお前に進もうとする者にしか、この茶は口にできないのです」
蓮弥の喉が鳴った。
茶碗を手に取ると、熱が掌に伝わる。
口に含むと、苦みがまず舌を刺し、やがて柔らかな甘みが広がった。
「……これは……」
体の奥に沁みわたり、崩れた丹田の周りに微かな灯がともる。
砕けた金丹の破片が、再び寄り集まり、細い糸のような真気を結び始めていた。
「再結丹……?」
セリナが驚きに目を見張る。
女は静かに頷いた。
「そう。金丹は一度砕ければ、再び築くのは至難。だが、あなたの心に芽生えた『守りたい』という願いが、再生の火種を呼んだ」
蓮弥は深く息を吐いた。
己の内側に、確かに再び生まれつつある光を感じる。
まだ微かな兆しに過ぎない。だが、それは絶望の闇を裂く小さな焔だった。
「……俺は……」
彼は拳を握り、仲間を見やった。
セリナは微笑んで頷き、ルナは四尾を揺らして「行こう」と告げるように見返していた。
女は二人にも茶を差し出した。
セリナは迷わず口に含み、張り詰めていた魔力の乱れが落ち着くのを感じた。
ルナは香りを嗅いでから舌先で味わい、九尾を失った記憶の痛みがわずかに和らぐのを覚えた。
「……幻を脱したことを祝福します。あなた方は次の道へ進むことを許される」
女はそう告げると、茶筅を静かに置き、立ち上がった。
次の瞬間、座敷の障子が音もなく開く。
そこには深い闇と、遠くに淡い光を放つ道が続いていた。
「行きなさい。次なる試練が待っています」
女の声音は優しさと同時に、試練を課す者の冷徹さを含んでいた。
蓮弥は振り返る。
女の姿は再び霞み、どこか悲しげに揺らめいていた。
もしかすれば――彼女こそ、黄泉に縛られ、美しい姿を見せることの叶わなかった「真の黄泉醜女」なのかもしれない。
だが、問いかける前に、扉は闇に閉ざされていった。
三人は無言で互いを見やり、そして歩き出した。
新たな光の方へ。
蓮弥の胸の奥で、砕けた金丹の破片がかすかに脈打ち、再び力を求めて形を変え始めていた。
【第196話】鬼と蒼汰の残響
黄泉の道は果てしなく続いていた。
空は墨を流したように黒く、地平のどこにも光がない。歩を進めるごとに、足下から「ずるり」と何かを引きずる音が響き、腐敗臭が鼻腔にまとわりつく。
蓮弥は前を行く二人に目を向けた。セリナは顔色を強ばらせ、何度も額を押さえている。黄泉の瘴気が彼女の魔力を圧迫しているのだろう。ルナも尾を膨らませ、耳を鋭く立てて警戒していた。
「油断するな……この道に踏み入った者は、誰も安全じゃない」
蓮弥の声は低かった。彼自身も、砕けた金丹の代償として、内に渦巻く虚脱感を抱えている。だが、止まるわけにはいかなかった。
その時だった。
――ドンッ。
地の奥底から鼓動のような衝撃が走り、地面が震えた。暗黒の彼方から、巨大な影が立ち上がる。
「グォォォオオオ!」
咆哮とともに現れたのは、背丈三丈を越える鬼。皮膚は煤けて裂け、筋肉から黒い血が滴っている。両の瞳は血走り、ただ生者を引き裂くためだけに存在していた。
「来たな……!」
蓮弥は拳を構えた。
セリナが即座に詠唱を開始し、雷の弧を描く。ルナの尾が炎を纏い、舞うように前へ飛び出す。三人の連携が形を成すより早く、鬼の腕が地を薙ぎ払った。衝撃で岩が砕け、砂塵が巻き上がる。
蓮弥は身を翻し、鬼の膝へと拳を叩き込んだ。
「はぁッ!」
金丹を失ってなお、彼の肉体は「金鋼経」の修練によって強靭だった。拳は石を砕く鋼の如く重く、鬼の関節を軋ませた。
その隙を逃さず、セリナの雷撃が鬼の肩を焼く。続けてルナの尾が炎を巻き、黒き肉を焦がした。
「オオオオオ!」
鬼は吠え、暴れ狂う。凄まじい力が襲い掛かり、蓮弥は幾度も拳を交わした。衝撃で皮膚が裂け、血が飛ぶ。だが退かない。
数合の攻防の末、ついに鬼は崩れ落ちた。荒い息を吐きながら、三人は互いの無事を確認した。
しかし――その瞬間、倒れ伏した鬼の姿が変わり始めた。
肉が縮み、輪郭が人の形を取り戻していく。
「……っ!」
蓮弥の目が揺らぐ。現れたのは、かつて共に戦った青年の顔。
「……蒼汰……?」
血に濡れた顔がゆっくりと開き、かすかな笑みを浮かべた。
「……蓮弥……か……」
心臓を握り潰されるような感覚だった。蒼汰。かつては共に修行し、秘境に挑み、背中を預け合った戦友。だがある時を境に、それぞれの道を歩んだのだ。
「……お前……生きていたはずじゃ……」
蓮弥の声は震えた。
蒼汰は苦しげに息を吐く。
「いや……俺はもう、生者じゃない。あの後、別の仲間と共に深層の秘境に挑んだ。そこで……俺は死んだ」
その言葉は、刃となって蓮弥の胸に突き刺さる。
「俺たちは力を得たつもりで……慢心した。だが修仙の道は……そんな甘いものじゃなかった。ひとつの油断が仲間を殺し、俺をも殺した。屍の山の中で、俺は何もできず……ここに堕ちた」
セリナが息を呑む。ルナの尾がかすかに震えた。
修仙の道は栄光だけではない。大多数は途中で倒れ、名も残さず土に還る。
蒼汰はそれを、自らの姿で証明していた。
「蓮弥……お前は俺と違って生きている。進め。俺のように道半ばで倒れるな。修仙とは……屍を踏み越えて進む道だ」
その言葉は残酷で、しかし紛れもなく真実だった。
蒼汰は震える手で懐から小さな包みを取り出した。
「……これを……親に届けてくれ。俺は……果たせなかった。せめて、親にだけは……」
蓮弥の手が震えながらそれを受け取る。
「必ず届ける。お前の想いを……俺が繋ぐ」
蒼汰は安堵したように笑った。
「……それでいい。俺にはもう未練はない。蓮弥……強く生きろ。甘さは……死を招くだけだ」
その体が光に包まれ、少しずつ崩れていく。
「俺は……輪廻転生へ行く。お前は……ここで立ち止まるな……」
最後の声を残し、蒼汰は光の粒となって消えた。
残されたのは小さな包みと、胸を焼く虚しさ。
蓮弥は拳を強く握った。
「修仙の道は……非情だ。夢を追い、力を求め……だが誰もが生き残れるわけではない。蒼汰、お前の死を無駄にはしない」
セリナは震える声で言った。
「あなたたちの修仙の世界は……本当に、あまりに残酷……」
ルナも尾を垂れ、低く呟いた。
「……だからこそ、前に進む者は強くならねばならない……」
蓮弥は二人を見やり、強く頷いた。
「俺たちは進む。この道を……どれほど血で汚されようとも」
三人は再び歩き出す。
背後に残されたのは、黄泉に散ったひとつの魂の余韻と、修仙の道の無慈悲な現実だった。




