紅蓮仙途 【第193話】【第194話】 幻裂けて 涙と炎の 希望立つ
【第193話】幻に囚われて
闇が閉じ、黄泉醜女の口の奥に呑み込まれた瞬間――セリナの意識は、別の景色へと放り出された。
そこは見覚えのある大地。緑豊かな丘に囲まれた、かつての故郷だった。
懐かしい草の匂い。鳥のさえずり。子どもの頃に駆け回った森がそのままの姿で広がっている。
「ここは……まさか……」
セリナの胸に希望が灯りかけたが、その瞬間、風景は一変した。
轟音と共に炎が天を焦がす。丘は崩れ、木々は火に飲まれて燃え盛った。家々は赤い舌に舐め尽くされ、人々の悲鳴が木霊する。
「やめて……!」
セリナは駆け出す。だが走っても走っても距離は縮まらない。
炎の中から現れたのは、黒き影に包まれた魔の軍勢だった。槍を構え、家を蹂躙し、逃げ惑う村人を次々と突き刺す。
「お父さん! お母さん!」
彼女の声に答えるように、二つの影が現れた。父と母。血に塗れながらも彼女を見て、手を伸ばす。
しかしその手は、背後から現れた悪魔に掴まれた。爪に貫かれ、鎖で縛られ、闇の中へと引きずられていく。
「いやあああああっ!」
セリナは必死に魔力を練ろうとした。しかし、火も風も応えない。魔力はまるで底に穴が空いたかのように流れ出し、術が形を成さない。
「まただ……また私は……」
幼き日のあの日、村が滅び、彼女はただ隠れて震えることしかできなかった。何も救えず、ただ無力に泣き叫ぶだけだった。その記憶が今、再び目の前で繰り返されていた。
「私には……力がない……」
膝をつき、涙が土に落ちる。
父母の姿は闇に消え、残されたのは焦げた匂いと絶望だけ。
炎に包まれた故郷は、彼女の心を抉るためだけに存在する幻影だった。
だがセリナは、そのことに気づく余裕すらなく、ただ過去の罪と無力感に押し潰されていった。
――同じ頃。
ルナもまた、異なる幻に囚われていた。
暗黒の空。地平まで広がる荒野。
彼女はそこに立ち尽くし、己の背に広がる九つの尾を見つめていた。
長き年月をかけ、幾度も死線を越え、ようやく揃えた九尾。妖狐として最高の位へ辿り着いた証。
「やっと……ここまで来たのに……」
誇りと共に胸に広がる充実感。しかし次の瞬間、鋭い刃が空を裂いた。
「ぎゃああああっ!」
激痛と共に、一尾が斬り落とされる。血が飛び散り、尾が地に落ちた。
振り返ると、影の群れが迫っていた。醜悪な顔、嘲る声。
「妖であるくせに人と歩もうとは、滑稽だ」
「九尾など不要だ。我らが切り落としてやろう」
再び刃が閃き、次の尾が地に転がる。
「やめろ……やめろおおおっ!」
ルナは尾を振るい、炎を放つ。だが炎は虚空に吸われ、力は半減していた。
「なぜ……力が……」
刃は容赦なく襲いかかる。三尾、四尾、五尾……次々に斬り落とされていく。
やがて背には一本の尾も残らず、ただの小さな狐へと姿を変えていた。
「いや……いやだ……!」
四肢は震え、牙は砕け、声すら届かない。妖としての誇りも力も失い、無防備な小狐へと堕ちていく。
――その時、耳に届くのは仲間の声。
「守れなかった……」蓮弥の自責の呻き。
「私は無力……」セリナの絶望の声。
ルナの胸に、重く黒い泥のような感情が広がる。
自分は何も守れない。
九尾を得ても、結局は斬られて奪われる。
人でも妖でもない、半端な存在――。
小さな狐の瞳に涙が溢れ、荒野の上にぽたりと落ちた。
幻は彼女たちを締め付け、過去の傷と恐怖を増幅させていく。
黄泉醜女の術――「幻縛」。
それは心の奥底に潜む最も深い恐れを現実に変え、魂を蝕んでいく呪縛だった。
セリナは炎に包まれた故郷で泣き叫び、
ルナは尾を失った小狐として荒野に蹲る。
二人の魂は、絶望に囚われて抜け出せずにいた。
そして遠く離れた場所で、泥に膝を沈める蓮弥もまた、自己否定に沈みつつあった。
仲間を救えぬ無力。己の金丹の砕けた痛み。
その全てが重なり、三人の心を闇の奥底へと引きずり込んでいく――。
【第194話】子守唄と決意
闇が全てを呑み込む。
蓮弥の意識は、泥に沈むように深く沈降していた。
金丹が砕けた瞬間から続く痛み。
内側から骨が裂け、魂が剥がれ落ちるような感覚に苛まれ、立つこともできない。
「俺は……弱い……」
仲間を守れなかった悔恨が、何度も心を刺す。
セリナは幻に囚われ、泣き叫んでいる。
ルナもまた、小さな狐へと堕ちて絶望に震えている。
それを知っているのに、何もできない。
丹薬を積み上げても、術を覚えても、結局は守れない。
無価値な存在――そう思うほどに、意識は闇に引き込まれていった。
――その時だった。
ふと、耳に柔らかな声が触れた。
歌。子守唄。
幼き日の記憶の奥に眠っていた旋律。
「……これは……」
霞んだ視界に浮かぶのは、幼い自分を抱き、優しく揺らしてくれた母の姿。
温もりと香り。夜を照らす灯火のような柔らかさ。
「眠りなさい、蓮弥……」
懐かしい声が、深い傷に沁み渡っていく。
胸の奥に張り付いていた泥が、少しずつ剥がれ落ちる。
涙が自然と溢れた。
「……母さん……」
その瞬間、彼の心に火が灯る。
幼き日に抱かれた温もりが、ただ一つの答えを告げていた。
――守りたい。
あの時守られたように。
今度は自分が。
砕けた金丹の残滓が疼き、灰の中に埋もれた火種のように微かに光を放つ。
「俺は……まだ終わっていない」
蓮弥は立ち上がった。
全身は血を吐くほど痛んでいたが、心は澄んでいた。
闇を裂き、幻の中へと足を踏み出す。
――最初に辿り着いたのは、炎に包まれた故郷だった。
セリナは地に膝をつき、両手を伸ばして泣き叫んでいる。
「お父さん……お母さん……! 私には何もできない……!」
蓮弥は駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。
「できるさ、セリナ!」
セリナは振り返る。絶望に染まった瞳。
蓮弥は腰の袋から、焼け焦げもせず残っていた一枚の符を取り出した。
「これは……お前に渡したはずの……」
「そうだ。お前は俺の符を握って、戦ってきた。力がないなんて嘘だ。お前はずっと、俺を支えてくれた」
その言葉に、セリナの頬を涙が伝った。
蓮弥は符を燃やし、幻影を貫くように光を放った。
燃え盛る村も、悪魔の群れも、炎と共にかき消えていく。
残されたのは涙に濡れたセリナの姿だけだった。
「……蓮弥……」
彼女の震える指が、彼の袖を掴んだ。
「大丈夫だ。俺がいる。お前を守る」
その言葉に、セリナの瞳に再び光が戻った。
――次に向かったのは、荒野。
そこには一匹の小さな狐が蹲っていた。
九つの尾を失い、ただの小動物のように震えるルナ。
「私は……もう、何もない……」
蓮弥は膝をつき、彼女を抱き上げた。
その毛並みは温かくも脆く、触れれば砕けてしまいそうだった。
「何もない? そんなことはない」
「でも……尾を失って……私は……」
蓮弥は強く抱きしめた。
「尾なんかに価値はない。お前はお前だ。俺を守り、セリナを助けてくれた。尾を失っても、それは消えない」
ルナの瞳から、大粒の涙が零れた。
その瞬間、彼女の体から小さな炎が溢れた。
温かく、優しい火――冷たい荒野を包み込む。
「……蓮弥……」
狐の姿のまま、ルナは彼に身を預ける。
炎は波紋のように広がり、幻を焼き払った。
セリナがその光に包まれ、苦悩の影が消えていく。
彼女は胸を押さえ、涙と共に笑みを浮かべた。
「……助かった……」
三人の幻影は消え去り、再び黄泉の闇に立っていた。
だがそこにはもう、絶望も恐怖もなかった。
蓮弥は深く息を吸った。
砕けた金丹の欠片が胸の奥で微かに震え、再び形を取り戻そうとしている気配を感じた。
「俺は……必ず強くなる。仲間を守るために」
その誓いは、子守唄の旋律と共に、闇を切り裂く光となった。




