紅蓮仙途 【第189話】【第190話】 金丹砕け 黄泉の裂隙に 魂舞う
【第189話】金丹の破砕と裂隙
海を裂いて咆哮する蒼牙鯨の巨影は、まさに魔神の顕現であった。
戦舟を中心に怒涛が逆巻き、空と海を隔てる雲は砕け、無数の白泡が天を覆う。修士たちが放つ術光は荒れ狂う潮に呑まれ、光の矢はたちまち霧散していく。
「押し返せ!」
鴻烈の怒号が風と波を裂く。だが返す声は掠れ、修士たちは皆、真気を削られ限界に近づいていた。
蓮弥もまた全力で印を結び、〈火輪弾〉を連続して放つ。火花は他の修士の豪烈な術に比べれば小さい。だがその軌跡は正確無比で、怪魚の鰭を射抜き、仲間の隙を作り続けていた。
さらに〈水盾〉で仲間の背を守り、〈土縛〉で海面を這う怪魚を縫い止める。丹薬師としての補助を超え、一人の修士として戦場に立つ。その気迫に嘲笑を浴びせていた者たちも、いつしか声を失っていた。
「やるじゃねえか……だが限界は見えてる」
剛志が呟いた瞬間、海が異様に脈動した。
蒼牙鯨の口腔に蒼白の光が収束する。
次の刹那、天地を裂くような咆哮が轟き――
「〈蒼牙砲〉だ!」
誰かの叫びも、凄絶な光の奔流に掻き消された。
衝撃波が戦舟を包み、符文で補強された結界は一瞬でひしゃげる。甲板が悲鳴をあげ、衝撃が山を砕くように全身を叩いた。
「くっ……!」
蓮弥は〈土縛〉で足元を固定し、必死に〈水盾〉を張る。しかし蒼牙砲の直撃は苛烈で、盾は砕け、衝撃が胸を抉った。
――その瞬間。
丹田の奥で、何かが砕け散る音がした。
金丹。
修士の命脈、魂魄を宿す核。
その中心に亀裂が走り、次の呼吸で粉々に砕けた。
「……あ、ああ……」
胸の奥から冷気が逆流し、意識が霞む。
丹田にあったはずの真気は砂のように崩れ落ち、身体は鉛のように重く、足が震えた。
その刹那、背筋を這う異様な気配。
――何かが、こちらを覗いている。
裂け目。
空でも海でもない。砕けた金丹の奥、魂魄の深淵に黒い亀裂が走り、底知れぬ闇が口を開けていた。
その奥から伸びてくるのは、冷たく湿った鎖のような力。黄泉の底から這い上がる、魂を絡め取る手。
「やめろ……まだ終わってない……!」
蓮弥は呻き、必死に抗う。しかし力は抜け、魂魄はずるずると闇に引きずられていく。
「蓮弥ッ!」
セリナの叫びが響いた。彼女は震える指で印を組み、〈空間転移術〉を発動する。仲間を救うために磨き続けた術――だが恐怖と焦燥がその安定を奪った。
「っ……!」
術式が狂い、光が弾ける。
戦舟の上空に裂けたのは逃走の門ではない。闇へと通じる、底知れぬ裂隙だった。
黒き風が吹き荒れ、甲板を軋ませる。
耳を澄ませば、無数の声が囁き、魂を誘う。
「やめろ、セリナ!」
楓の叫びが轟くが、術は止まらない。
セリナの頬を涙が伝う。
「違う……救いたかっただけなのに……!」
蓮弥の身体は既に半ば闇に呑まれていた。
セリナは震える手を伸ばし、必死に彼の指を掴もうとする。
その横を、白銀の尾が閃光のように駆け抜けた。
「ルナ……!」
妖狐は迷いなく飛び込み、四尾を燃え上がらせた。蒼白の冥火が二人を包み、裂隙に抗する。
「主を……見捨てはしない……!」
彼女の叫びは、荒波よりも熱く、闇よりも深かった。
しかし闇の裂隙は一層強く開き、三人を呑み込む。
――轟音。
――断末魔。
――そして静寂。
次に気づいた時、戦舟の甲板には彼らの姿はなかった。
残されたのは軋む船体と、呆然と立ち尽くす修士たちの顔。
蒼牙鯨の巨影さえ、荒波の底へと沈み、ただ海霧だけが漂っていた。
「蓮弥……!」
セリナの声が最後に木霊し、白い霧に飲まれて消えた。
そして三人は――黄泉を繋ぐ裂隙の底へと、果てなき闇へと堕ちていった。
【第190話】黄泉の入口
……冷たい。
瞼を開いた瞬間、蓮弥は凍てつく空気に包まれていることを知った。
そこは海でも空でもない。
足元には灰色の大地、頭上には色を失った天。
濃い靄が垂れ込め、遠くも近くも同じ灰色に霞んでいる。
吐息が白く散ったかどうかすら分からぬほど、世界は沈黙に沈んでいた。
「……ここは……」
声を発しても響かない。ただ湿った音が喉から漏れるだけ。
蓮弥は腹に手を当てた。そこにあるはずの金丹は、もう存在しない。
砕けた破片すら感じられず、ただ虚ろな空洞が残るのみ。
身体が生きているのか、魂だけが漂っているのかすら曖昧だった。
「蓮弥!」
背後から震える声。振り返れば、セリナが座り込んでいた。
長い髪は乱れ、頬に涙の跡が残っている。
「よかった……無事……?」
その声には安堵よりも、深い後悔が色濃く滲んでいた。
「……ここは、黄泉だ」
低く告げたのはルナだった。
白い毛並みの妖狐が立ち上がり、尾を揺らす。
四本の尾のうち一本は煤け、輝きを失っている。
「黄泉……?」セリナが呟く。
「死者が流れ着く底の世界。生と死の境で魂を削る場所。――主が金丹を砕かれた衝撃で魂魄を引かれ、わたしたちも共に落ちた」
蓮弥は言葉を失った。
自分のせいで二人を巻き込んだ――その罪悪が胸を締めつける。
「すまない……」
呟きは靄に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
セリナは首を振った。
「違う、私が……助けようとしたのに、裂隙を……!」
唇を噛み、両腕を抱きしめる。肩が小刻みに震えていた。
ルナは二人を交互に見やり、静かに尾を揺らす。
「互いを責めるな。ここは心を弱めた者から呑まれる。黄泉の霧は魂を蝕み、迷わせ、やがて溶かす」
その言葉と同時に――
靄の奥から声が響いた。
〈――戻れ、戻れ……生は虚ろ、死こそ安らぎ〉
囁きはどこからともなく降り注ぎ、耳の奥に直接響く。
蓮弥は思わず膝をついた。砕けた金丹の代償で魂は脆く、黄泉の声に引かれやすかった。
「蓮弥!」
セリナが駆け寄り、その腕を掴む。
だが彼女の目もまた揺れている。――生きる意味などあるのか、と囁かれるたびに心が揺さぶられる。
その時、ルナが立ち上がった。
四本の尾の先に蒼白の炎が灯る。
「退け!」
妖火が霧を焼き払い、囁きは一時的に消えた。
だが炎は尾を焦がし、ルナの呼吸は荒くなる。
「無理を……」
蓮弥が言いかけたが、ルナは首を振った。
「護るのが役目だ。主も、セリナも……この黄泉で迷わせはしない」
その眼差しは真っ直ぐで、揺るぎがなかった。
蓮弥は唇を噛む。
――自分だけが弱い。
戦場でも守られ、今もなお、二人に庇われている。
悔しさが胸を焼いた。
砕けた金丹の残骸すら感じられぬ虚無の中で、ただ拳を握るしかない。
「……立とう。進むしかない」
震える声を押し殺し、蓮弥は灰色の大地に足を踏みしめた。
セリナも涙を拭い、立ち上がる。
「出口は……あるの?」
ルナは霧の彼方を見やり、小さく頷いた。
「なるようになる。前を向いて進めば、必ず生へ還る道が見えるはずだ」
「前か……」
セリナが顔を曇らせる。
ルナは静かに言った。
「恐怖も後悔も、すべて形を持って迫ってくる。それを斬り払えぬなら、ここで永遠に迷う」
沈黙が落ちる。
霧が渦を巻き、再び囁きが忍び寄る。
〈――お前は弱い、無価値、足手まとい……〉
蓮弥の耳元に、戦舟で浴びた嘲笑の声が蘇る。
〈ただの丹薬師だ〉
胸が軋み、息が詰まり、視界が歪む。
「蓮弥!」
セリナが抱き寄せる。
ルナは尾を翻し、妖火で囁きを払う。
「急ごう。ここに長く留まれば、魂が削られる」
三人は互いを支え合い、靄の中へ歩を進めた。
黄泉の入口――それは始まりに過ぎない。
己を試す死の旅路が、今まさに幕を開けたのだった。




