紅蓮仙途 【第187話】【第188話】 蒼牙現れ 丹薬師の盾 海震う
【第187話】海の怪獣狩りへ
港を覆う朝霧は白い帳のように垂れ込み、停泊する戦舟を淡く包み込んでいた。
修士たち二十名ほどが甲板へと続く桟橋に整列している。鋭い刃を光らせる剣士、雷を帯びた槍を携える者、華やかな法器を抱えた術士――誰もがこれから挑む死地に備え、己の威を誇示していた。
目的地は外海の魔海域、黒淵。その深き暗黒には、伝説の怪獣・蒼牙鯨が棲むという。
列の端に、蓮弥の姿があった。
鍛え抜かれた剛士たちの中にあって、質素な衣に身を包む彼はひどく目立たない。だが、その瞳には一片の曇りもない光が宿り、静かな闘志を秘めていた。
「おい、見ろよ。あの顔色」
隼人が鼻を鳴らす。
「丹薬師様は波に揺れるだけで倒れそうじゃないか?」
剛志が肩を叩き、下卑た笑いを漏らす。
「戦うより薬作りが得意だろ。足を引っ張らなきゃいいがな」
武蔵がわざと剣を振り抜き、楓は涼やかな笑みを浮かべる。
「セリナとルナが同行するから、逃げられなかったのでしょう。情けないわ」
周囲の修士も面白がるように嘲笑を重ねた。
しかし蓮弥は眉ひとつ動かさず、ただ黙して受け流した。怒りが胸に芽生えぬわけではない。だが、口先の応酬に価値はない。
――実力で示すしかない。
「くだらん」
低く吐き捨て、背筋を伸ばす。
セリナが庇おうと一歩踏み出すが、蓮弥は首を横に振って制した。
だが、ルナが前へ進み出る。
「言葉を慎め。蓮弥は――」
「ほら見ろ、狐まで庇ってるぞ!」
「女と妖狐に守られるなんてな!」
下卑た笑いが再び弾けた。
蓮弥の視線は微動だにしない。冷たく澄んだ黒瞳は、むしろ相手の心を射抜くように鋭さを増していた。
その時、霧を裂いて指揮官の鴻烈が姿を現した。
長身の影が静かに歩み出ると同時に、空気が一変する。
「目標は黒淵。蒼牙鯨の討伐だ。互いに足を引っ張るな。弱者は淘汰される――覚悟して挑め」
鋼のように冷たい声に、場を覆っていた軽口は跡形もなく消えた。
戦舟が港を離れる。符文を刻まれた船体は、霧を裂いて外洋へと進む。
潮は荒く、船は容赦なく揺れた。
蓮弥の顔色が僅かに青ざめる。丹薬を口にし、体内の真気を整える。
――波酔いではない。外洋特有の霊脈が乱れ、真気が微細に共鳴しているのだ。
「ほら見ろ、もう限界だ」
隼人が口端を歪め、剛志が背を押す。
蓮弥は眉をひそめ、静かに言い返した。
「俺は戦えぬわけではない。ただ、戦い方が違うだけだ」
その一言に、隼人たちは鼻で笑った。だが、セリナとルナだけは真剣な眼差しで小さく頷く。
やがて黒淵が視界に広がった。
空は鉛色の雲に覆われ、風は唸り、波は戦舟を叩きつける。
「……来るぞ!」
鴻烈の号令が響いた瞬間、海面が爆ぜた。
蒼牙鯨――山のごとき巨影が水柱と共に現れる。
青黒い外殻は稲妻のように光を反射し、蒼き牙が海霧を裂いて輝く。
その咆哮は天地を震わせ、戦舟が大きく傾いた。
「放てッ!」
修士たちが一斉に術を解き放つ。
雷槍が空を裂き、炎矢が海を穿ち、氷刃が蒼牙鯨の鱗を打つ。
蓮弥も符を結び、丹田に真気を込めて火輪弾を放った。
紅蓮の球が弧を描き、怪獣の目元へ正確に突き刺さる。
「ぐおぉぉっ!」
蒼牙鯨が咆哮し、顔を振った。
「今の……蓮弥が?」
嘲笑していた剛志が目を見開く。
蓮弥は息を切らしつつも印を変えた。
「〈水盾〉!」
海面から湧き上がった水壁が、振り下ろされる尾撃を受け止める。
轟音とともに盾は砕け散ったが、その一瞬が仲間二人の体勢を立て直させた。
「助かった!」
救われた修士が叫ぶ。
しかし隼人はなおも蔑む。
「ちょっとした術を使えたくらいで、調子に乗るなよ!」
蓮弥は応えない。
丹薬師であるがゆえに、彼には誰よりも長く戦い続ける体力と、的確な補助術を繰り出す精密さがある。
――威力ではなく、継戦こそが自分の役割。
蒼牙鯨が再び尾を振り下ろす。
甲板が裂け、木片が飛び散り、数人が海へ投げ出された。
「セリナ、結界を!」
「任せて!」
光の障壁が仲間を包み、衝撃を和らげる。
ルナの尾が白炎を纏い、海中から迫る小型の怪魚を焼き払った。
蓮弥は即座に丹薬を数人へ投げ渡す。
「これを服せ! 真気を保て!」
受け取った修士たちは驚きながらも薬を口にし、途端に気力を取り戻して術を放った。
「役立たずどころか……!」
誰かが呟く。
だが戦いはまだ始まったばかりだ。
蒼牙鯨の巨体はなお健在、海は狂気を孕み、黒淵の波濤が戦舟を翻弄する。
蓮弥は額の血を拭い、唇を固く結んだ。
「俺が示す……丹薬師も戦場に立てると!」
轟音と怒涛の中、彼の決意はひときわ強く燃え上がった。
【第188話】黒淵の初戦
戦舟は黒淵の中心へと滑り込む。
海は鉛色に沈み、雲は低く垂れこめ、空と海の境界さえ曖昧だった。風は重く湿り、まるで深淵そのものが息を吐くかのように甲板を打つ。乗り込む修士たちは誰一人として言葉を発せず、ただ緊張に息を潜めていた。
「――全員、構えろ。来るぞ!」
鴻烈の号令が響いた刹那、海面が炸裂した。
天を衝く水柱が立ち上がり、その中から蒼牙鯨の巨影が現れる。
青黒い甲殻は島のごとき膨大な体躯を覆い、雷光を映す双牙は稲妻のように輝いた。深海の主が、ついに牙を剥いたのである。
「〈雷牙槍〉!」
隼人の雷撃が裂帛の音と共に走る。蒼白の槍が海を切り裂き、続けざまに剛志の〈風刃斬〉が嵐のごとく吹き荒れた。
武蔵と楓も遅れずに術を放つ。火刃が閃き、氷矢が飛び、海面は轟音と閃光に包まれた。
蓮弥も印を結び、丹田に真気を巡らせる。
「〈火輪弾〉!」
紅蓮の球が蒼牙鯨の胸鰭を撃ち、黒煙が立ち上った。
だが、巨鯨の外殻は容易に焦げ付かない。
「効きが……薄いな」
蓮弥が低く呟く。すぐに水盾を展開し、仲間の背後に防壁を張った。
「邪魔すんなよ、丹薬師!」
剛志が怒鳴る。
「盾なんか張ってる暇があったら、目くらましでも撃て!」
「お前の火弾、蚊に刺されたくらいだったぞ!」隼人も鼻で笑った。
蓮弥は言葉を返さず、再び印を組む。
〈火輪弾〉、〈水矢〉、〈土縛〉――小ぶりながらも正確な術を重ね、仲間の隙を埋めていった。
蒼牙鯨が尾を振り下ろす。
「来るぞ!」
楓の声と同時に甲板が爆ぜ、激烈な衝撃波が走る。
蓮弥は咄嗟に〈土縛〉を展開し、足元を固めて吹き飛ばされるのを防いだ。
「くっ……!」
膝を沈めながらも、再び火弾を放つ。
火輪は怪獣の片目をかすめ、巨影が一瞬たじろぐ。
「やるじゃねえか……って言いたいとこだが、やっぱしょぼいな」
剛志が皮肉を漏らす。
「燃やすならせめて焦がせよ!」
隼人が嘲笑する。
蓮弥はただ一瞥を返すのみ。丹薬師として培った精密さ――大技ではなく、戦場を支える術。それが自分の役割だと知っていた。
戦場は混沌と化す。
セリナが〈結界術〉を張り、仲間を包む光壁を維持する。ルナは四尾を翻し、小型の怪魚を白炎で焼き払いながら、迫る瘴気を散らした。
しかし蒼牙鯨は怯まず、灰色の海を割って巨体を迫らせる。
「全力で叩け! 一気に仕留めるぞ!」
鴻烈の声に応じ、修士たちは渾身の術を一斉に放った。
蓮弥も丹田を震わせ、真気を限界まで練り上げる。
「〈火輪弾〉連射!」
三連の紅蓮が弾丸のように飛び、怪獣の胸を撃ち抜いた。爆煙が黒海に弾け、蒼牙鯨の動きが鈍る。
「今だ、突っ込め!」
武蔵と楓が前衛へ躍り出て刃を振るい、雷鳴のごとき衝撃が続けざまに走った。蓮弥は後衛から水矢を放ち、刃の軌跡に追撃を重ねる。
その瞬間――。
蒼牙鯨が口を開いた。
青白い光が喉奥に渦を巻き、異様な気圧が海を震わせる。
「〈蒼牙砲〉だ、避けろッ!」
轟音とともに放たれた蒼光が甲板を薙ぎ払った。
水と雷が混じる奔流が一帯を呑み込み、修士たちが次々と吹き飛ぶ。
蓮弥も衝撃波に巻き込まれ、甲板を転がった。
「ぐっ……!」
痛みに顔を歪めながらも、すぐに印を結ぶ。
「〈水盾〉!」
水の障壁が瞬時に立ち上がり、炎と破片の嵐を受け止めた。背後に倒れていた仲間が息を呑む。
「……無事か!?」
救われた修士が叫ぶが、蓮弥は振り返らない。視線はただ前――再び牙を研ぐ蒼牙鯨へ向けられていた。
灰色の空の下、咆哮と波濤が絶え間なく響く。
戦いはまだ終わらない。
丹薬師であろうと、修士である以上、退くことは許されない。
蓮弥は黙々と印を結び、火弾、水矢、土縛を重ねていく。
その瞳には恐怖も迷いもなく、ただ仲間と共にこの黒淵を越える決意だけが燃えていた――。




