紅蓮仙途 【第181話】【第182話】 仙山影 波間に揺れる決意 子守唄響く
【第181話】遥かなる仙山
幾日もの航海を経て、霊舟はなお東を目指して進んでいた。
嵐を越え、霊獣を退け、穏やかな海に包まれた後も、彼らは一歩も退かずに東へ進み続けた。
蓮弥は船首に立ち、両手を組み潮風を受ける。
水平線はいつも果てしなく続き、ただ青と蒼の世界が重なり合っているだけだった。だが、この日の空気はどこか違っていた。胸の奥にざわめきが生じ、子守唄がふいに強く響いたのである。
――かぜよ。やわらかに。よあけのたずね。
――つきよ。かがやけり。あまねきひかり。
耳に流れる調べは、これまで以上に鮮明で、まるで道標のように彼を導いていた。
「蓮弥、どうかした?」セリナが背後から声をかけた。
振り返った彼の目は、どこか遠くを見つめている。
「……聞こえるんだ。あの唄が、今までよりずっとはっきりと」
「やっぱり、蓮弥だけに……」セリナは小さく眉を寄せた。
その時、風牙が高らかに叫んだ。
「おい! あれを見ろ!」
全員が顔を上げ、指差す先を見た。
遠い水平線の向こう――薄い靄の中に、灰青の影がかすかに浮かび上がっていた。
「島……いや、山だ!」ルナの尻尾がわくわくと揺れた。
彼女の金の瞳は輝き、尾を四本ふわりと広げる。
「とうとう見えたんだね! 東の仙山!」
靄に包まれたその姿はまだ輪郭も定かでない。だが、確かにそこに巨大な山影があった。海の上に忽然とそびえる孤島の峰。その頂は雲を突き抜け、天に届かんばかりの威容を誇っている。
舟上に興奮が広がった。
セリナは結界を強め、進路を安定させる。
「これほどの山ならば、仙家が棲むのも頷ける。だが……同時に、容易に近づけぬ気配もあるな」
風牙は風を操り、舟をさらに加速させた。
「俺がここに来た理由も、この仙山にある! 弟子入りして力を磨くんだ!」
その横顔は希望に満ち、幼子のようにまっすぐだった。
一方で蓮弥の胸には、ただならぬ鼓動が響いていた。
唄はやまぬ。いや、むしろ仙山の影が見えるほどに調べは強まり、心の奥底を揺さぶる。
――みずよ。なごやかに。ゆめをつつめり。
――やみよ。はるけくに。あさひをまてり。
その旋律は、どこか懐かしく、そして切なかった。まるで遥か昔から自分を待っていたかのように。
昼を過ぎ、霊舟は仙山へとじりじり近づいてゆく。
だが、近づくほどにその荘厳さは明らかになった。
山肌は蒼翠の樹海に覆われ、雲海がその中腹を帯のように巻き付いている。さらに山麓は厚い霧に包まれ、外界を拒むかのようであった。
「……まるで仙界への門だな」セリナが呟く。
「えへへ、なんだか胸が高鳴る!」ルナは尻尾をぴんと立て、狐火を灯した。その光が霧に揺れ、幻想的な影を生み出す。
風牙は目を輝かせていた。
「俺の夢は、きっとあの山にある。だが……」
彼は言葉を切り、真剣な顔になる。
「近づけば近づくほど、重い気配を感じるんだ。俺の風の術でさえ、押し返されるような……」
実際、舟は霧に阻まれるように進みが鈍り、波も静かに渦を巻いていた。
まるで見えざる結界が、島そのものを外界から隔絶しているかのようだった。
その夜。舟を止め、甲板に集まった四人は仙山を遠望しながら語り合った。
「ここからどう進むか、考えるべきだな」セリナが言う。
「無理に突っ込めば、舟ごと霧に呑まれるかもしれない」
「けど……」風牙は拳を握る。「俺は絶対に行くぞ。こんなところで立ち止まれない」
ルナがその肩にそっと手を置いた。
「焦っちゃだめ。ここまで来られただけで、もうすごいことなんだよ」
蓮弥は黙したまま仙山を見つめていた。
――唄がまた響いていた。
それはもはや風の音や波の響きではない。確かな声が、彼を呼んでいる。
「……あそこだ」
静かに口を開き、仲間を振り返る。
「唄は、あの山の奥から聞こえてくる。俺が進むべき道は、あそこにある」
彼の瞳には迷いがなかった。セリナも風牙もルナも、その真剣な眼差しに引き込まれ、やがて頷いた。
翌朝。
東の空から昇る朝日が仙山を黄金色に染め上げた。
雲海の切れ間から放たれる光は、まるで天の御光のように四人を照らす。
「行こう」蓮弥が一歩を踏み出す。
「東の仙山、その奥に待つものを確かめるために」
風牙は力強く頷き、風を呼び起こす。
セリナは結界を張り、舟を護る。
ルナは狐火を揺らし、霊力の灯を絶やさぬようにした。
霊舟は再び霧へと舳先を向ける。
四人の胸には、それぞれの願いと決意が燃えていた。
かつてない未知の地――東の仙山。
修仙の旅は、ついに新たな門を迎えようとしていた。
【第182話】仙山の門をくぐる
東の海を渡り、霊舟はついに仙山の眼前へと辿り着いた。
しかし霧に覆われたその姿は、まるで天界の門。誰もが容易に入れる場所ではないと、一行は身を固くした。
――だが、その時である。
霧がふわりと割れた。
まるで意思を持つかのように、海上の道がすうっと開け、舟の前に光の小径が伸びていく。
四人は息を呑んだ。
「……道を、開けてくれた?」セリナが呟く。
「入っていい、ってことなのかな?」ルナが尻尾を揺らした。
蓮弥は唇を固く結び、仙山を見上げた。
山そのものが彼らを選んだのだ。
霊舟は光の道を進み、やがて山の裾にたどり着いた。
霧が晴れると、そこには広大な庭院が広がっていた。
整然とした石畳、丹薬の香を漂わせる薬園、天に伸びる楼閣。
森厳な建築は威容を誇りながらも静謐で、踏み入った者の心を自然と正すようであった。
周囲には白衣を纏った修仙者たちが行き交い、誰もが深い修為を感じさせた。
その一歩一歩が、凡俗の者とは異なる重さを帯びている。
ルナは思わず小声で言った。
「ここ、全部が……仙の気に満ちてる……」
尻尾がふわりと広がり、霊気に酔ったように目を細める。
セリナもまた感嘆を隠せず、周囲を見回していた。
「こんな場所が現世に存在するとは……大陸の都でさえ、霞んで見えるわ」
と、その時。
一人の修仙者が庭院の奥から歩み出てきた。
白髪を背に垂らし、手に玉の如き尺を持つ壮年の男。
その目は鋭くも穏やかで、まるで全てを見透かすかのように一行を見渡した。
「よくぞ、ここまで辿り着いた」
低く響く声は、庭院全体に共鳴するようであった。
「我ら仙山は、誰にでも門を開くわけではない。だが、海を渡りここに至った勇と縁を尊び、入門を許そう。ただし……まず資質を図らねばならぬ」
そう言って、修仙者は玉尺を掲げた。
淡い光があたりに広がり、空気がぴんと張り詰める。
最初に進み出たのは風牙だった。
「俺から頼む!」
胸を張り、風の術で培った霊力を流し込む。
瞬間、玉尺は眩い翠光を放ち、周囲に爽やかな風が舞った。
庭院の修仙者たちがざわめく。
「資質は上上……風の道に天賦あり!」
壮年の修仙者が目を細め、静かに頷いた。
「この者、仙山にふさわしき才を持つ」
風牙の顔は喜びに輝いた。
「やった……! 俺にも道があるんだ!」
次に進んだのは蓮弥だった。
彼は深呼吸し、両手を合わせて霊力を注ぎ込む。
だが――玉尺は微かに光るのみ。
くすんだ色は弱々しく、結丹の証をようやく示す程度に過ぎなかった。
「……資質、下下。根骨浅し」
壮年の修仙者は淡々と言った。
「結丹はしたが、天命の加護なく、先を望むは難しかろう」
周囲にいた修仙者たちが冷ややかな目を向ける。
中にはあからさまに嘲りを含む声もあった。
「結丹ごときで満足しているのか」
「よくも仙山の門を叩いたものだ」
蓮弥の胸に、痛みが走った。
だが、彼は唇を噛み、背筋を伸ばした。
――師シュウ廉の言葉が胸に蘇る。
「資質は天の与え。だが努力は己が掴むものだ」
蓮弥は拳を握り、目を逸らさなかった。
セリナが進み出ると、壮年の修仙者は首を横に振った。
「汝は異界の魔法を操る者。道は異なる。資質を測る必要はない」
「つまり……?」セリナが問う。
「仙山の道には馴染まぬが、外客として留まることは許す」
セリナは肩を竦め、苦笑した。
「外客でも構わないわ。私は蓮弥と共にあればいい」
最後に、ルナが尻尾を揺らしながら進み出た。
だが壮年の修仙者は一瞥すると、すぐに目を伏せた。
「汝は妖であるな。狐火を操る稀なる存在。そなたに資質を量る術は不要」
「そっか……じゃあ、いいんだね!」ルナは満面の笑みを見せた。
こうして結果は出た。
風牙――優秀。
蓮弥――最下。
セリナとルナ――測定対象外。
風牙は拳を握り、希望に燃えていた。
一方で蓮弥は、胸に深い影を落としていた。
しかし、心の奥底では確かに唄が響いていた。
――かぜよ。しずらかに。ねむりをまもれ。
それは、誰も聞こえぬはずの調べ。
蓮弥は悟っていた。
たとえ資質がどうであろうと、自分を導くものは、ここにある。
仙山の門は開かれた。
だが、これからが真の試練の始まりであった。




