紅蓮仙途 【第177話】【第178話】 潮風に 導く子守唄 水平線
【第177話】東の果てにて
旅を続けて幾日、蓮弥たちは東の大地をひたすらに進んだ。
山を越え、川を渡り、町や村を過ぎ去り、やがて緑豊かな森を抜けると――視界の先に、果てしなく広がる蒼き海が姿を現した。
「ここが……東の果て」セリナが息を呑んだ。
風が頬を撫で、潮の香りが胸に広がる。白波が絶え間なく打ち寄せ、夕陽を反射して黄金に輝いていた。
ルナは四つの尾を揺らし、険しい表情を浮かべた。
「これ以上、陸はないな。道はここで尽きる」
彼女の言葉は真実だった。大地はここで途切れ、先にはただ、遥かな水平線だけが伸びている。
しかし――。
「……まだだ」蓮弥は耳を澄ませた。
潮騒の音をかき分けるように、あの旋律が届く。
――「かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ……」
それは、やはり子守唄だった。恐怖も不安も含まぬ、ただ心を癒やす柔らかな調べ。だが確かに、彼を呼んでいた。
「まだ、さらに東から聞こえる」蓮弥の声はかすれていた。
セリナは目を丸くする。
「東? でも、海の向こうよ。もう道なんて……」
「それでも、聞こえるんだ」
蓮弥の目は真剣そのものだった。彼にしか聞こえない唄が、海の向こうから響いている。まるで見えぬ手が彼を導こうとしているかのように。
三人はその夜、海辺の小さな漁村に宿を借りた。
祭りの余韻がまだ残っていた心に、波音が静かに重なる。だが蓮弥だけは、眠りに就けなかった。
窓辺に座り、夜の海を見つめる。月が波を銀に染め、その先でまた、子守唄が囁く。
――「つきよ。てらしませ。……」
新たな一節が加わっていた。柔らかく、どこまでも優しい歌声。胸の奥に染み入り、懐かしい安らぎを呼び起こす。
「どうして……俺にだけ聞こえるんだ」蓮弥は独りごちた。
子守唄を耳にするたびに心は癒やされる。だが同時に、何か大きな流れに導かれているような感覚が強まっていく。
翌朝、浜辺で三人は集まった。
「蓮弥、やはりあの唄が聞こえたのか?」ルナが問いかける。
蓮弥は静かに頷いた。
「昨夜もはっきりと。しかも、さらに東から聞こえる」
セリナは唇を噛んだ。
「でも、どうやって行くの? 海を越える術なんて……」
「修仙の道において、不可能はない」ルナが低く言う。
「飛翔の術を極めれば海を渡ることもできるだろう。だが、今の蓮弥の結丹の力では、長き渡海は難しい」
言葉は現実的だった。だが、蓮弥の心は揺るがなかった。
「それでも、行かねばならない。あの唄は、俺を呼んでいる」
海風が吹き、三人の衣を揺らした。
昼、村の浜辺で船を直す漁師たちに声をかけると、彼らは一様に首を振った。
「この先は、ただの大海原だ。島も陸も見えねぇ。行ったら戻れねぇぞ」
「昔から東の海には“影の霧”があるって話だ。船を呑み、帰さないってな」
村人の声には恐怖と畏れが混じっていた。東の果ての先には、何か人智の及ばぬ存在があるのだろう。
セリナは心配げに蓮弥を見た。
「危険すぎるわ……それでも行くの?」
「行く」蓮弥の答えは短く、迷いがなかった。
彼は拳を握りしめる。
「師を継いだ以上、俺の修行はただの力を求める旅じゃない。あの唄の先に、何か大切な意味がある気がするんだ」
その夜、三人は再び海辺に立った。満月が海を照らし、波は白く輝いている。
蓮弥は目を閉じ、深く息を吸った。
――「かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ……つきよ。てらしませ。やさしきひかり……」
唄は確かに聞こえる。東の、遥か彼方から。
「蓮弥……」セリナが声をかける。
「俺は行く。たとえ海を渡る術がまだ未熟でも、必ず方法を見つける」
「ならば、我らも共に行く」ルナが言い切った。
「四尾の狐火は海風をも遮れる。道を切り開いてやろう」
セリナも強く頷く。
「どんな危険でも、三人でならきっと越えられる」
蓮弥は二人を見つめ、胸に熱いものを覚えた。
波音の彼方で、子守唄は続いていた。
まるで母が子を眠りに誘うように、静かで優しい歌声。
その旋律が、蓮弥をさらに東へと誘い続けている。
――果てしない海の先に、何が待つのか。
まだ誰も知らない。だが、旅は確かに続いていた。
【第178話】霊舟の誓い
東の果て――陸地が尽きる断崖に立ち、蓮弥は潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。どこまでも広がる海は、まるで青き天の裏側が流れ落ちてきたかのように果てが見えず、ただ波と風が交わり続けている。
そのとき、不意に聞き覚えのある声が背に届いた。
「おい、蓮弥じゃないか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、かつて共に南の沼を歩いた修士――風牙だった。日に焼けた顔には以前より逞しさが宿り、背には風の紋を刻んだ長剣を負っている。
「風牙!」蓮弥の目が見開かれた。「生きていたか……」
「ははっ、簡単に死んでたまるかよ。お前こそ無事で何よりだ」
二人はがっしりと腕を取り合った。久方ぶりの再会に、言葉以上の熱が籠もる。セリナとルナも笑顔を浮かべ、すぐに打ち解けた。
やがて蓮弥は問う。
「……蒼汰のことを知っているか?」
風牙の顔が陰を落とす。
「南の沼で別れてから、一度も会ってない。あそこから先はそれぞれの道だったからな。……すまん、俺にも消息はわからん」
短い沈黙が流れた。蒼汰の安否は杳として知れぬ。しかし嘆きに沈む暇はない。
蓮弥は海を指さす。
「ここで何をしている?」
風牙は口元に笑みを浮かべ、断崖の下を示した。そこには組み上げられつつある霊舟があった。龍骨には黒鉄木、帆には霊絹が張られ、符が幾重にも彫られている。
「俺は東の仙山を目指してるんだ。仙人の弟子になりたい。だが海を渡るには舟が要る。そこで自分の手で霊舟を作っていたのさ」
蓮弥の胸に熱がこみ上げる。
「……奇遇だな。俺たちも東を目指している」
「なら、同じ舟に乗るのが道理だろ?」風牙はにやりと笑う。
その晩、四人は焚き火を囲み、霊舟計画を練った。
「俺は風の功法が得意だ。帆に風を呼び、進ませることはできる。だが――」風牙は焚き火の炎を見つめて言った。「俺は水の術に疎い。海は気まぐれだ。波を鎮め、流れを操れねば舟は転覆する」
蓮弥は静かに頷いた。
「水なら任せてくれ。俺の修行した功法は川を導き、雨を呼ぶ。波を押さえ込むぐらいはできるはずだ」
ルナが小さく尻尾を揺らし、ふわりと青白い狐火を浮かべた。四本の尾から同時に火が生まれ、焚き火の炎と共鳴して揺れる。
「わたしの火は霊力を生み出す。舟の心臓に注げば、長く進む力になる」
セリナはまっすぐに蓮弥を見つめた。
「なら、私の役目は舟を守ることね。結界を張り、海の魔物や霊気の嵐から皆を守る。攻めよりも守りに徹するわ」
四人の視線が交わり、一つの確信が胸に宿る。
「……これなら、渡れる」蓮弥が言った。
風牙は力強く頷き、笑みを浮かべた。
「よし、仲間が増えた。これ以上心強いことはない」
翌日から霊舟作りは本格化した。蓮弥は水の符を舟底に刻み、潮流を操る陣を完成させる。ルナは狐火を霊石に注ぎ込み、燃え尽きぬ炎を作り出す。その光は昼夜を問わず灯り続け、舟に命を宿した。
セリナは守護の陣を編み、光の盾を張り巡らせる。幾重にも重なる結界は、外敵を寄せつけぬ城壁のように強固だった。
風牙は山の谷間から風を呼び込み、帆布を広げて舟に息吹を与える。その風は彼の修行の結晶であり、まるで天空の竜が海へ降り立ったかのごとく力強かった。
日が暮れるごとに舟は形を整え、やがて海岸にそびえる堂々たる姿となった。漆黒の龍骨に銀の紋が輝き、四人の力が一つに編み込まれた霊舟は、まるで生き物のように呼吸していた。
完成の夜、月光に照らされながら四人は舟の前に並んだ。
蓮弥の耳には、あの子守唄がかすかに響いていた。
――かぜよ。しずらかに。ねむりをまもれ。
――つきよ。てらしませ。やさしきひかり。
その旋律が、まるで舟を祝福しているかのように感じられる。
蓮弥は深く息を吸い込み、仲間を見渡した。
「この舟に命を託し、東の海を渡ろう。誰一人欠けることなく、必ず仙山に辿り着く」
風牙が拳を握り、ルナが尻尾を揺らし、セリナが静かに頷いた。
それぞれの胸に、不安よりも期待が満ちていた。
夜空には無数の星が瞬き、波間に映る光が道のように広がっている。
東の果てに眠る仙山――そこに待つものは、まだ誰も知らない。
だが今はただ、仲間と共に舟を作り上げた誇りが胸を満たし、未来へ向けて一歩を踏み出す力となっていた。




