紅蓮仙途 【第175話】【第176話】 祭りの灯 花火に重なる 母の唄
【第175話】子守唄の誘い
夜を焦がす丹炉の炎が収まり、炉の中から金色に輝く丹薬がふわりと浮かび上がった。
その瞬間、丹房にいた蓮弥の身体から、滝のごとき霊気が吹き荒れる。
「……っ!」
胸奥に集めた真気がひとつにまとまり、丹田へと凝縮していく。骨は軋み、血が燃えるように流れ、魂魄が光を帯びる。
やがて内なる気海が静かに爆ぜ、すべてが収束した。
――結丹。
修仙の大いなる関門を、蓮弥はついに踏み越えた。
「……成したか」
静かに息を吐く蓮弥の傍らで、セリナは目を潤ませて微笑む。
「蓮弥……本当に結丹を果たしたのね」
「うむ、見事だ」ルナは四つの尾をゆらりと揺らし、狐火を収めながら満足げに頷いた。「これでようやく、師の夢に並び立つ者となったのだ」
蓮弥はただ黙ってうなずいた。だが心の奥底で、別の旋律が響き始めていた。
その夜。
静かな闇に包まれた房内で、蓮弥はふと耳を澄ませた。
――かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ。
柔らかい声だった。母が子を抱きながらそっと歌うような、あたたかで優しい調べ。そこには霊気も呪力もない。ただ心をほどき、眠りを誘うような歌声だった。
「……子守唄?」
幼き日の記憶を掘り起こすような響きに、蓮弥は思わず胸が熱くなった。疲労に満ちていた心が、静かに癒やされていく。
だが、不思議なことに、この声が聞こえているのはどうやら自分だけのようだった。
翌朝。
蓮弥は昨夜のことをセリナとルナに打ち明けた。
「……唄が聞こえたんだ。まるで母が子を寝かしつけるような、やさしい唄だった」
セリナは首を傾げる。
「わたしには何も聞こえなかったわ。夢でも見たんじゃない?」
ルナも四尾を揺らしながら言った。
「我も耳にしておらぬ。だが結丹の境を越えたゆえ、心が研ぎ澄まされ、過去の記憶や情景が夢に混じったのかもしれぬな」
蓮弥は少し迷ったが、確かに聞こえたという感覚を振り払うことはできなかった。
「……いや、確かに聞いたんだ。子を包むように、優しく……。あれはただの幻ではない」
日が経つにつれ、その子守唄は夜ごと蓮弥の耳に届くようになった。
最初は短い節だけだったが、次第に詞が長くなり、旋律もはっきりと響くようになる。
――かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ。
――つきよ。てらしませ。やさしきひかり。
不安や恐怖は一切なく、ただ胸の奥に静けさを広げる。
だが同時に、歌声は彼をどこかへ導こうとしているようにも感じられた。
ある晩、蓮弥は月明かりの下で静かに告げた。
「……この唄の正体を確かめなければならない」
セリナが目を見開く。
「正体を? でも、それは蓮弥にしか聞こえないのでしょう?」
「だからこそだ。日ごとに唄は明瞭になっていく。このまま放っておけば、きっと心を完全に奪われる」
ルナは長く息を吐き、尾を揺らした。
「東方から呼ぶように響いているのだな」
「……ああ」蓮弥は頷いた。「東へ行こう。そこで、この唄が何者なのかを確かめたい」
セリナは少し黙したのち、柔らかく笑った。
「なら、わたしたちも一緒に行くわ。蓮弥一人に抱え込ませるわけにはいかない」
ルナも尾を立てる。
「良いだろう。我もまた、主の傍で見届けよう」
翌朝、蓮弥は丹心宗の弟子たちに旅立ちを告げた。
「宗門をしばし頼む。必ず戻る。その時には、さらに強くなっているはずだ」
弟子たちは深く頭を下げ、宗主の決断を送り出した。
こうして、蓮弥・セリナ・ルナの三人は再び旅支度を整え、東の空へと歩み出す。
遠い地平から昇る朝日が、三人を金色に照らし出していた。
その夜もまた、蓮弥は耳を澄ました。
――かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ。
――つきよ。てらしませ。 やさしきひかり。
やさしい唄声に導かれるように、彼の瞳は遥かな東方を見据えていた。
新たな旅が、すでに始まっている。
【第176話】東の祭りと花火の夜
旅の道を東へ進んでいた蓮弥たちは、夕暮れ前に小さな町にたどり着いた。遠くからでも太鼓の音や笛の旋律が響き、人々の賑わいが風に乗って伝わってくる。提灯の明かりが道を照らし、町全体が華やかな色彩に包まれていた。
「……これは?」蓮弥は思わず立ち止まり、耳を澄ませた。
セリナが微笑み、指先で町の方を指す。
「お祭りみたいよ。人がいっぱい集まっているわ」
ルナも四本の尾をゆらりと揺らし、珍しげに鼻を動かす。
「焼いた魚の匂いに、甘い蜜菓子の匂いもするな。にぎやかだ」
三人は足を進め、祭りの中へ入った。道の両脇には屋台がずらりと並び、焼き団子や焼きそばの香りが漂っている。子供たちは金魚すくいに夢中になり、大人たちは笑顔で酒を酌み交わしていた。
「こんなに楽しげな町を見るのは久しぶりだな」蓮弥は少し目を細めた。
戦いや修行で張り詰めた日々が続いていた分、この光景が心を和ませる。
広場の一角に「貸し浴衣」と書かれた屋台があり、三人は勧められるまま浴衣を借りることにした。
蓮弥は紺地に白の柄の浴衣を着ると、思わず苦笑する。
「普段の衣より軽いな。妙に落ち着かない……」
セリナは赤地に花模様の浴衣を纏い、嬉しそうに裾を広げてくるりと回った。
「どう? 似合ってるかしら?」
蓮弥は思わず頷く。
「……ああ、すごく似合ってる」
ルナも、落ち着いた紫色の浴衣を身に着け、四つの尾を器用に結び布で覆った。
「これなら、あまり人目を引かずに済むな」
三人が揃って祭りの通りを歩くと、まるで町の一員になったかのように自然に溶け込んだ。
「見て、金魚すくいだ!」セリナが駆け寄る。紙の網を手に取り、水面を覗き込む姿は無邪気で、普段の毅然とした表情とは違っていた。だが金魚はするりと逃げ、紙はすぐに破れてしまう。
「う、うまくいかない……」
ルナが横で見て、尾を揺らしながら小さく笑う。
「戦場では鋭い剣を振るうお前も、小さな魚には勝てぬか」
「うるさい!」セリナはむくれたが、その顔も楽しげだった。
蓮弥は射的に挑戦した。木製の銃を構え、景品の人形を狙う。
「よし……」
引き金を引くと、弾は見事に的を当て、人形が落ちた。周囲の子供たちが歓声をあげる。
「兄ちゃんすげえ!」
蓮弥は照れながらも、人形をセリナに渡した。
「お前に似合いそうだ」
セリナは顔を赤らめ、受け取るとそっと胸に抱いた。
ルナは屋台で焼き団子を買い、口に運ぶ。
「甘い……人の作る菓子も、悪くない」
四尾を揺らしながら団子を頬張る姿に、蓮弥とセリナは思わず笑った。
やがて夜が深まり、町の中心の広場に人々が集まる。
「花火だ!」子供たちの声が響き渡る。
三人も人々に混じり、芝生に腰を下ろした。空はすでに黒く染まり、星々がきらめいている。やがて大きな音とともに、一発目の花火が夜空を裂いた。
「おお……」蓮弥は思わず息を呑む。
大輪の光が咲き、空に散り、瞬間ごとに夜が昼のように照らされる。赤、青、金、銀。色とりどりの花が次々に咲いては散っていった。
セリナは両手を胸の前で組み、笑顔で見上げる。
「綺麗……こんなに大きな花火、初めて見たわ!」
ルナも尾をふわりと広げ、静かに見つめている。
「一瞬で消えるゆえに、なお美しい……人も修行も同じだな」
蓮弥は花火を見上げながら、心の奥底に静かな響きを感じていた。
――あの子守唄が、再び耳に届いた。
「かぜよ、しずらかに。ねむりをまもれ……」
柔らかな声が、花火の音の合間に重なり、蓮弥の胸に深く沁み込む。癒やされるような、温かな旋律だった。
だが、この唄は彼にしか聞こえていない。セリナもルナも、ただ花火に夢中になっている。
「この唄は……導きなのか?」蓮弥は小さく呟く。
花火が最後の大輪を咲かせ、人々の歓声が夜空に響いた。三人は顔を見合わせ、微笑み合う。今日一日が、戦いと修行の合間に与えられた贈り物のように思えた。
「楽しかったな」蓮弥は言った。
「ええ、またこんな夜があるといいわ」セリナは頷く。
ルナも尾を揺らし、静かに同意した。
祭りの明かりを背に、三人は再び旅路へと向かう。だがその胸の奥には、今日の花火と笑顔が、確かに刻まれていた。




