紅蓮仙途 【第171話】【第172話】 雷火交わす 密室の闇に 師の灯
【第171話】裏切りの影
重厚な扉が閉ざされると同時に、密室は外界から完全に切り離された。厚き石壁が音を遮り、ただ淡い灯火だけが静かに揺れる。
中央には〈養魂壺〉が置かれ、そこから漂う薄光が部屋を照らしていた。その中に宿るのは、蓮弥の師――シュウ廉の魂。揺らめく光は弱く、かすかに震える呼吸のように見える。
宗主シュウ瑛は壺を前に立ち、しばし目を閉じていた。その背は威厳を帯びているが、瞳の奥には冷ややかな光が宿っている。
やがて彼は重く口を開いた。
「……兄上は、我が宗門の掌門であった。だが、その座から降りることになった経緯を、そなたらは知っているか?」
蓮弥は首を横に振った。
シュウ廉は弟子に多くを語らぬ師であった。修行の道を示すことはあっても、己の過去に触れることはなかったのだ。
シュウ瑛は低く笑みを漏らす。
「当然だろう。兄上自身、真実を知らぬままにいたからな」
その言葉に蓮弥の心臓が跳ねた。セリナとルナも息を呑む。
「かつて兄上は、不世出の才を持つ煉丹師として名を馳せ、宗門を大いに繁栄させた。だが……私はその影で忘れ去られていた。弟である私は、常に比較され、ただ『掌門の弟』としか呼ばれなかったのだ」
声は静かだが、押し殺した怨嗟が滲んでいた。
「私は決意した。兄上を失墜させると。そこで――兄上の丹薬に、ひそかに毒を混ぜた」
言葉が密室を震わせた。蓮弥の胸が冷たく凍りつく。
「……まさか」
「そうだ。兄上はその毒丹を服し、修為の根幹を断たれた。肉体は崩れ落ち、魂のみが辛うじて生き長らえた。私はそこで、宗門を継ぐために手を打ったのだ」
シュウ瑛の声は揺るがなかった。告白でありながら、それは悔恨ではなく、むしろ誇示に近い響きだった。
セリナが怒りを抑えきれず踏み出す。
「……実の兄を、毒で堕としたと……それが宗主のすることか!」
シュウ瑛は冷笑を浮かべる。
「兄上は掌門として、あまりに強すぎた。彼の才は、この宗門を導くと同時に、我ら弟子たちを縛っていたのだ。私はそれを断ったに過ぎぬ」
蓮弥の脳裏に、師の穏やかな笑顔が浮かぶ。丹薬を調合する時、いつも弟子を気遣い、細やかに指導してくれた姿が――。
その師が、もっとも信じるべき弟によって裏切られたなど。
だがシュウ瑛の言葉はまだ終わらなかった。
「毒によって肉体を失った兄上の魂を、私は我が弟子と共に〈南の沼〉へ連れ去った。あそこは古より魂を抹消する符が眠ると伝わる禁地。そこで完全に葬ろうとしたのだ」
蓮弥は思わず拳を握りしめた。
――師の魂が、あの沼に……。
シュウ瑛は続ける。
「だが、その途上で我が弟子が不測の事態に巻き込まれた。……そなたらも聞いたことがあるだろう。蓮弥、蒼汰、風牙――三人の若き修士が、我が弟子を討ったと」
蓮弥の瞳が大きく開かれる。
あの時の戦い――確かに、不可解な修士に襲われた。そして彼が倒れた後、なぜか魂の光が自分の中に流れ込んできた。その正体は……。
「そうだ」
シュウ瑛は嗤う。
「我が弟子が敗れたことで、兄上の魂は偶然にもお前のもとに宿った。皮肉なことよ。私はそれを奪う機会を失い、いまこうして目の前に戻ってきたのだ」
蓮弥の胸に冷たい戦慄が走る。
――すべては、策謀と裏切りの果て。師の魂が自分のもとに宿ったことすら、偶然でしかなかったのか。
ルナが唇を噛みしめ、声を絞り出す。
「じゃあ、今も……シュウ廉様は……弟を信じているの?」
シュウ瑛はわずかに視線を逸らし、答えずに壺へ目を向けた。
壺の中の光は、かすかに揺れている。まるで聞いているように、あるいは言葉を拒んでいるように。
蓮弥は壺を抱き上げ、胸に寄せた。
「師よ……あなたは、弟に裏切られたのです」
だが、その呼びかけに応えるように、魂の光が淡く震えた。
〈まだ……信じている〉
幻聴のように、蓮弥の心に響いた声。それは穏やかで、どこまでも優しい。
――師はなおも弟を信じ続けている。裏切りの真実を知らぬままに。
蓮弥の胸は張り裂けそうになった。目の前にいるのは、実の兄を毒殺しようとした男。だが師の魂は、いまだにその弟を信じて疑わぬ。
セリナが一歩踏み出し、蓮弥の肩に手を置く。
「蓮弥……今は言葉を重ねるな。事実は……やがて剣で語られる」
蓮弥はただ頷き、壺を強く抱き締めた。
灯火のような魂の光は揺らぎながらも、決して消えてはいなかった。
――だが、この静寂の裏には、確かに嵐が待ち受けていた。
兄弟の因縁は、まだ終わってはいなかった。
【第172話】兄弟の決裂
重苦しい沈黙を裂いたのは、低く唸るような殺気だった。
密室の奥、宗主の座に立つシュウ瑛の眼差しが冷たく光を帯びる。彼はゆっくりと右袖を翻し、掌に黒紫の符文を浮かべた。
「――もう隠す必要もあるまい。兄上を抱え、私に楯突く愚か者たちよ。ここで葬る」
瞬間、空気が震えた。妖しく燃え立つ霊力が四方から押し寄せ、まるで密室全体が彼の術式の一部となったかのようだ。
セリナとルナは反射的に後退し、蓮弥は胸に〈養魂壺〉を抱え込んで身を固くする。
だが、か細い光が壺から漏れた。揺らめきながら立ち昇るそれは、一人の男の影を形づくる。
――シュウ廉。
「……瑛……」
弱々しい声。しかし、その眼差しには確かに師としての威光が宿っていた。
シュウ瑛の眉がわずかに動く。
「兄上、まだ私を庇うつもりか? それとも、この者どもにそそのかされ、私を敵と見なすのか?」
シュウ廉は苦しげに呼吸を整えながらも、蓮弥たちの前へ歩み出た。魂の身でありながら、その姿は大樹のように揺るがぬものだった。
「……蓮弥たちは関わりなき者……。瑛、お前が彼らを狙う理由はない。怨はすべて我に向けよ」
蓮弥は胸が張り裂けそうになった。
師は――この期に及んでも、弟を諫めようとしている。
しかしシュウ瑛の笑みは冷酷だった。
「ならば、兄上ごと打ち砕くまでだ!」
叫ぶや否や、符文が炸裂し、黒雷の矢が一斉に放たれた。
密室の壁を焦がす轟音。蓮弥たちに迫るその刹那――
「退けェッ!」
シュウ廉が両手を広げ、青白い結界を張った。魂だけの身にしては、驚異的な霊力が奔る。黒雷が次々と弾かれ、空に散った。
その衝撃に蓮弥は立ち尽くした。
――師は、まだこれほどの力を……!
だが同時に気づく。結界を張るごとに、魂の光が削れていく。
このままでは、師は……。
「兄上!」
シュウ瑛は怒声を上げ、次なる印を結んだ。床に刻まれた紋様が赤く輝き、地の火が噴き上がる。
炎は蛇のようにうねり、結界を呑み込まんと迫った。
「くっ……!」
シュウ廉は必死に結界を維持する。だが魂の光が一層薄れ、今にも消え入りそうだった。
セリナが咄嗟に詠唱し、雷光の槍を生み出して炎を裂いた。
ルナも狐火を放ち、蓮弥を包むように防壁を築く。
「蓮弥、後ろに!」
「わかってる!」
しかし、これは兄弟の戦い。弟子や仲間の力では埋められぬ深淵の因縁。
シュウ瑛は再び笑った。
「哀れな兄上よ。魂だけの亡霊となりながら、まだ弟を守ろうとするか。だが――貴様の弟子を護り切れるものか!」
黒雷と地火が絡み合い、巨大な竜の形をとる。
密室を震わせ、牙を剥く炎雷の竜。その咆哮に空気すら裂けた。
蓮弥は歯を食いしばった。
「師匠……俺が……戦います!」
「ならぬ!」
シュウ廉の声が響く。
「蓮弥……お前は未来を担う者。ここで命を落としてはならぬ!」
彼の魂が燃えるように光を増し、炎雷の竜へと突き出された。
「瑛――この因果、我が身で断つ!」
竜が吠え、魂が輝き、両者は激突した。
衝撃は密室を貫き、石壁が軋み、天井の灯が吹き飛んだ。
蓮弥は必死に踏みとどまり、師の背を見つめ続けた。
――師は、最後の力を燃やしている。弟を止めるため、そして自分たちを護るために。
青白い光と黒紫の雷火がせめぎ合い、空間は震動の渦と化した。
やがて、眩き閃光が炸裂する。
「兄上ォォッ!」
シュウ瑛の絶叫。
その中で、シュウ廉の魂がひときわ強く輝いた。
光の盾となり、蓮弥たちを覆うように広がっていく。
――それは、魂を削り尽くす決死の守りだった。




