紅蓮仙途 【第167話】【第168話】 魔仏裂く 雷光天を貫く 魂昇る
【第167話】進化せし魔仏
空洞を震わす絶叫が、岩壁を割って世界を貫いた。
祭壇を覆う炎と光に一度は貫かれ、崩れ落ちるかに見えた魔仏――だが、その巨体は死を拒むかのように蠢き、次の瞬間、膨れ上がった肉塊から禍々しい瘴気が奔流となって噴き出した。
黒い霧が渦を巻き、岩盤を舐めるたびに石が腐食して崩れる。祭壇の四方からは漆黒の鎖が次々と伸び出し、周囲に散る無数の魂を絡め取っていく。鎖に囚われた魂は悲鳴を上げ、その声が空洞全体で反響し、怨嗟の大合唱と化した。
蓮弥は血の味を覚えながら奥歯を噛みしめる。
目の前の魔仏は、もはやさきほどまでの存在ではない。
背に散らばっていた無数の眼が、赤黒い光を帯びて脈動し、肉を裂きながら翼の形に変貌していく。四本の腕は骨を伸ばし、筋を裂いてさらに長く膨張。指先からは剣のように鋭い瘴気が滴り落ち、地に触れるたびに大地が焼け爛れた。
それは単なる巨躯ではない――意思を宿した「魔の王」が、完全な形へと進化しつつあった。
セリナが震える声を押し殺し、杖を掲げて光障壁を展開する。しかし障壁が形を成すより早く、魔仏の翼が一振りされ、凶暴な瘴気の衝撃波が壁を粉砕した。破片が鋭い光の針となって散り、三人の頬や腕を切り裂く。
巨腕が振り下ろされ、岩盤が地鳴りを上げて裂けた。
蓮弥とルナは咄嗟に身を翻したが、衝撃波に弾き飛ばされ、硬い岩壁に叩き付けられる。
「ぐっ……!」
蓮弥の口から鮮血が吐き出される。胸骨が軋み、肺が焼けつく。
ルナも四尾を広げて衝撃を受け止めたものの、白炎は一瞬で弾かれ、淡銀の毛並みは焦げ、皮膚が裂けて血が滲んだ。
祭壇の周囲では、鎖に囚われた魂たちが悲鳴をあげ続けている。
「たすけて……」
「引きずり込まれる……!」
その叫びは耳だけでなく、骨と魂に直接響き、蓮弥の意識を削った。
セリナは必死に詠唱を紡ぐ。しかし魔仏の咆哮が空洞そのものを震わせ、声が途切れる。震動で天井から無数の岩片が降り注ぎ、光の粒となって視界を曇らせた。
三人の力は、幾多の試練を経て確かに増している。だが、進化した魔仏はそのすべてを凌駕していた。
瘴気が押し寄せるたびに光が消え、空洞全体が夜の底のように暗黒へと沈んでいく。
蓮弥は立ち上がろうとするが、足は鉛のように重く、体は言うことをきかない。
(ここまで、なのか……? 師よ、すまな――)
視界が赤黒く染まり、思考が途切れかけたその瞬間――。
轟く念動とともに、空洞を裂くような光の奔流が降り注いだ。
黄金の法力が矢となって魔仏の背を貫き、広がりつつあった黒き翼を一瞬押し戻す。瘴気が悲鳴のような金切り声を上げ、空洞に白い裂け目が走った。
「――皆、下がれ!」
岩壁を震わせる朗々たる声が響く。
蓮弥のかすむ視界に、比叡山の明覚が姿を現した。
黄金の法衣が光を放ち、掌に刻まれた法印が雷火のように脈打っている。
その背後には数十名の修士たちが列をなし、各々が法具を掲げ、経文を唱え、力を練り上げていた。
炎を操る術者が燃え盛る火柱を、雷を呼ぶ修士が稲妻の鎖を、僧たちが響く真言を。
そのすべてが一つの結界へと収束し、巨大な光壁となって魔仏の暴威を押し返していく。
セリナの顔に安堵の色が差した。
「明覚様……!」
蓮弥も拳を震わせ、喉を焼く血を吐きながら叫ぶ。
「……来て、くれたか……!」
魔仏は怒号を上げた。背の眼が一斉に赤光を放ち、黒翼がさらに膨れ上がる。しかし、先ほどまで圧倒的だった優位は崩れ始めている。
明覚が一歩前に進み、法印を結ぶ指が閃光を帯びた。
「この闇は、我らすべてで払う! 蓮弥よ、時を稼げば必ず道が開ける!」
その声に呼応し、ルナが再び白炎を広げ、セリナが光の矢を紡ぐ。
蓮弥は裂けた胸を押さえ、全身を炎に包みながら立ち上がった。
三人が前へと躍り出る。
背後には、修士たちが築く黄金の光壁――決して破られぬ仲間たちの盾がある。
優勢は奪い返した。
だが、進化した魔仏の禍々しい気配はなお衰えず、空洞の闇はさらに深く、重く、狂気を孕んでいく。
決戦はまだ終わらない。
進化を遂げた魔仏との、本格的な死闘がいま幕を開けようとしていた――。
【第168話】決断の雷
魔仏山の深奥――。
そこはもはや世界の底そのものだった。黒き瘴気が渦を巻き、無数の魂の呻きが地を震わせ、崩れた祭壇の残骸は青黒い光を帯びて微かに脈動している。その中心には、なおも健在な魔仏の巨影が鎮座していた。
修士たちは三面から結界を張り、絶え間ない術を繰り出している。火炎の矢が雨のように降り、氷刃が空を切り裂き、光の槍が闇を穿った。轟音が連鎖し、瘴気と光が交錯する戦場は昼夜の境を失い、空気そのものが狂気を孕んでいた。
しかし、魔仏を覆う黒き外殻には一向に亀裂が入らない。わずかに裂けても、濃密な瘴気が即座に流れ込み、傷を縫い合わせてしまう。
「くっ……! これでは埒があかぬ!」
一人の修士が膝をつきかけ、隣の仲間が慌てて結界を重ねた。額に汗が滲み、焦燥が瞳に浮かぶ。
明覚は陣の中央で法印を結び、冷徹な声で号令を飛ばした。
「退くな! 術を絶やすな! あの存在を封じられるのは、我らしかおらぬ!」
その言葉に修士たちは再び力を振り絞る。だが、誰もが理解していた。どれほどの術を叩き込もうとも決定打には至らぬことを。長引けば、力尽きるのは時間の問題――。
蓮弥は額の汗をぬぐい、前線を見据えた。セリナは杖を握る手に力を込め、ルナは四尾を広げて迫り来る瘴気を焼き払う。しかし尾の先は疲弊でわずかに震えている。
(……このままでは押し潰される。だが――)
そのとき、セリナの胸奥で「星光の魔種」が脈打った。
心臓の鼓動と重なり、星々の輝きが血脈を走る。セリナは息を呑み、悟った。
(……この力……新たな術式……。このために授けられたのね)
だが、ためらいも同時に生まれた。
その術は未完成。放てば己が焼き尽くされるかもしれない。
しかし、ここで撃たねば全てが終わる――。
セリナは静かに一歩を踏み出した。
蓮弥が振り向く。彼はその瞳に宿る決意を読み取り、わずかに頷くと炎の結界を展開した。
「ルナ、守るぞ」
「……ああ」
二人は左右に並び、迫り来る瘴気を斬り裂く盾となった。
セリナは杖を高く掲げ、深く息を吸い、静かに詠唱を始める。
「星々よ、遥かなる蒼穹より――
闇を裂く光を我に与えたまえ。
幾千の夢を束ね、ひとすじの雷と化し……
万象を貫け!」
詠唱が重なるたび、空気が震え、足元の大地に星形の紋様が浮かび上がった。杖先には蒼白の雷が集い、旋回し、やがて一本の矢となって収束する。
魔仏が咆哮し、巨腕を振り下ろした。だが蓮弥の炎壁とルナの四尾の光がその腕を受け止める。結界が軋み、火花が散る。二人の身体に凄まじい圧がのしかかるが、退く気配はない。
セリナは瞳を閉じ、最後の言葉を叫んだ。
「――《星雷穿》!」
蒼白の光柱が杖から解き放たれた。
雷鳴が戦場を裂き、巨大な矢が夜空を突き抜けるように魔仏の胸を直撃する。
黒き外殻が一瞬で砕け、瘴気が爆ぜた。
雷は奥底に潜む核へ突き刺さり、白と蒼の閃光が全身を駆け巡る。ひび割れが網の目のように広がり、闇が内部から崩壊していく。
魔仏が凄絶な咆哮を上げ、結界を破ろうと暴れ狂う。しかし星雷の力は留まらず、内部から膨張して己を裂いた。
やがて――。
轟音と閃光が戦場を覆い、黒き巨影は粉砕された。
崩れ落ちる残骸の中から、無数の魂が光となって解き放たれ、安らぎの調べを奏でながら天へと昇っていく。
修士たちは武器を下ろし、ただその光を見上げた。誰一人として言葉を発さず、勝利の実感が胸に広がるのを待つ。
セリナは杖を下ろし、その場に膝をついた。全身を消耗に蝕まれながらも、その瞳には確かな輝きが宿っている。
蓮弥とルナが駆け寄り、彼女を支える。三人は互いに視線を交わし、言葉少なに笑みを分け合った。
こうして――。
長き戦いは終わりを告げた。
魔仏山を覆っていた瘴気は霧散し、囚われていた魂は解き放たれ、地はようやく静寂を取り戻した。
だが、この勝利は終焉ではない。
新たな道、新たな戦いが、彼らを待つことを三人は誰よりも理解していた。




