紅蓮仙途 【第165話】【第166話】 魔仏山 瘴気の闇に 師を思う
【第165話】魔仏山の闇へ
戦場の喧噪が、遠雷のように徐々に後方へと消えていった。
谷間を染めていた血の匂いも、夜風に混じり薄れてゆく。しかしその空気の中には、まだ拭えぬ殺気と、肌を刺すような瘴気が渦巻いていた。
魔仏山――その名が示す通り、この山は古来より数多の死と怨念を呑み込み、ついには仏の姿を歪めた魔像そのものと化した場所だ。外郭を守っていた兵や妖魔たちは比叡山の修士の突撃によって散り散りとなり、勝鬨の声が山峡に木霊している。
だが、蓮弥はその声に耳を貸さなかった。むしろ、歓声の奥底で蠢く不気味な静寂を感じ取り、眉間に皺を刻む。
「……ここからが、本当の地獄だ」
低く呟いた彼の声に、隣のセリナとルナが頷く。
セリナは白磁の顔を引き締め、金色の瞳に決意を宿した。
ルナはふわりと尻尾を広げるが、その四尾は逆立ち、警戒の色を隠さない。
「嫌な匂い……これは妖魔の匂いじゃない。もっと古く、もっと深い……」
そこへ、血まみれの鎧をまとった明覚が現れた。彼は比叡山の部隊を率い、ここまで攻め上った指揮官である。額には汗が滲んでいたが、その目は戦場で鍛えられた鋭さを失わない。
「蓮弥。ここから先は未知の領域だ。瘴気が濃すぎる。術の精度も鈍るだろう。それでも行くのか?」
蓮弥は、即座に首を縦に振った。
「師の魂は、この山に囚われている。ここで退くわけにはいかない」
その声音には、揺るぎない決意と憤怒が混じっていた。
セリナが一歩前へ進み出て、杖を胸に抱いた。
「私も行くわ。あの人のために――そして、あなたのために」
ルナは言葉を発さず、蓮弥の隣に立ち、金色の瞳で暗闇を見据えた。
明覚は短く息を吐くと、静かに頷いた。
「……わかった。だが無理はするな。魔仏山の瘴気は魂を削る。中に入れば、外の戦いとは比べ物にならぬ試練が待つだろう」
三人は最後に視線を交わし、裂け目のように口を開けた山の洞窟へと足を踏み入れた。
内部に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
そこはもはや生者の世界ではなかった。
洞壁は黒曜石のような闇色の岩で覆われ、その中を赤黒い筋が血管のように走っている。霊気は歪み、吐く息さえ重い。足音を立てるたびに、地下から低い呻き声が響き渡り、耳の奥を震わせた。
「ここ、山そのものが……生きてる」
セリナが呟く。
ルナは鼻を鳴らし、毛を逆立てる。
「生きてるだけじゃない……喰らってる。ここで死んだ魂を、山が吸い上げ、糧にしている」
蓮弥は胸の奥に圧迫感を覚えていた。外界の霊気を自在に操るはずの自分の術も、この中では霧の中に火を灯すように不安定だ。
――それでも進まなければ。
やがて、遠くから不気味な光が差し込む。
洞窟が開け、広大な空間が姿を現した。
そこには、巨大な黒い仏像が鎮座していた。
しかし、その顔はもはや仏ではなかった。
ねじれ、裂け、眼孔の中には無数の牙が刻まれ、口元は笑っているのか嘲っているのかわからない。
瘴気がその像の全身から滲み、空間そのものを腐らせているようだった。
「……魔仏……」
セリナが呟き、唇を噛む。
その足元で、影がうごめいた。
十数体の人型が、鎖で吊るされた傀儡のようにゆらゆらと立ち上がる。皮膚は剥がれ、肉が崩れ、骨の隙間から瘴気が噴き出していた。
それらの瞳は空虚だった。
魂を抜かれ、ただ命令に従う器。
「これが……魔仏山の守り手か」
蓮弥は低く呟き、掌に炎を灯す。赤い焔が闇を裂いた。
セリナは杖を構え、詠唱の言葉を紡ぐ。
ルナは四尾を逆立て、牙を剥き出しにした。
傀儡たちが同時に甲高い悲鳴を上げ、襲いかかってくる。
「来るぞ!」
蓮弥の炎が一体を包み込み、骨と肉を焼き焦がす。しかし倒れても立ち上がる。
「……効きが浅い!」
セリナが結界を展開し、迫りくる傀儡を弾き返す。ルナは雷光を纏わせた尾を叩きつけ、数体を吹き飛ばしたが、奴らは這うようにして迫り来る。
「倒す必要はない! 突破するぞ!」
蓮弥は叫び、前方を指差した。
「師匠の魂はもっと奥だ!」
三人は光と炎で進路を切り開き、傀儡の群れを突破した。瘴気の渦を突き抜け、さらに奥へと駆け抜ける。
視界が開けたとき、そこには血のように赤い光を放つ祭壇があった。
その中央で鎖に縛られ、淡い霊光を放つ魂の結晶が宙に浮かんでいる。
「……師匠!」
蓮弥の声が震えた。その魂の気配は、忘れもしない。シュウ廉――かつての師の魂が、囚われている。
しかし、その瞬間。
祭壇の背後で、山そのものが軋むような音が響いた。
巨躯が立ち上がる。
四本の腕、無数の眼、そして裂けた口から瘴気の嵐を吐き出す――魔仏山の主、そのものだった。
洞窟が震え、瘴気が嵐となって吹き荒れる。
「これが……真の脅威!」
ルナが低く唸り、セリナが杖を握り締める。
蓮弥は炎を握り、師の魂を睨みつけた。
(必ず奪い返す……! たとえ、この山すべてを敵に回そうとも!)
――魔仏山の深奥で、決戦の幕が上がった。
【第166話】魔仏との死闘
轟音が世界を裂いた。
足元の大地が波打つように揺れ、頭上の岩盤から粉塵が降り注ぐ。漆黒の瘴気は霧のように空洞を満たし、視界を閉ざすだけでなく、皮膚に刺さるような痛みを与えてくる。
その瘴気の中心、四本の腕を持つ巨影がゆっくりと立ち上がった。背からは無数の眼が蛇の群れのように動き、赤黒い光を放って周囲を睥睨している。その視線を一度でも浴びれば、心臓が握り潰される錯覚に襲われるほどの圧が走った。
魔仏――数百年ものあいだ封じられた古の存在。その名を聞くだけで門派の歴史書に記されるほどの厄災が、今まさに完全に目を覚ましたのだ。
ルナは四本の尾を大きく広げ、全身を白炎で包み込み、唸り声を低く響かせる。
セリナは震える呼吸を整え、杖を掲げて光の障壁を形成するが、魔仏が一歩踏み出すだけで空間が悲鳴を上げ、障壁は軋む音を立てた。
蓮弥は拳に炎を凝縮し、背筋をまっすぐに伸ばして仲間と並ぶ。逃げ場などどこにもない。ここで仕留めるしかなかった。
魔仏が四本の腕を同時に振り下ろす。
地が裂け、衝撃波が空洞を切り裂く。三人の体は紙のように吹き飛ばされ、壁や地面に叩きつけられた。
肺から血を吐き出しながらも、蓮弥はすぐに立ち上がった。セリナの光の盾は粉々に砕け、ルナの尾はかすり傷を負い白炎の鱗粉を散らす。
それでも戦意は消えない。
蓮弥の視線が魔仏の背後に鎮座する祭壇へ向かう。そこには黒鉄の鎖に絡め取られた数百、数千の魂が淡い光を纏いながら呻き声を上げていた。
――その中の一つから、聞き覚えのある声が届く。
「……蓮弥……」
微かだが確かに、師シュウ廉の声だった。
蓮弥は歯を食いしばり、拳を固める。
「師だけじゃない……ここに囚われた命を、すべて解き放つ!」
ルナが尾を広げ、白炎の奔流で魔仏の視線を奪った。
セリナが詠唱を早め、光の矢を雨のように降らせる。背の眼が次々と潰れ、魔仏が咆哮を上げる。
蓮弥が炎を纏って突撃した瞬間、腕がしなるように振り抜かれ、彼の体は岩壁に叩きつけられた。骨が軋む音と共に視界が暗転しかける。
だが、その一瞬の隙を逃さなかった。ルナの炎が鞭のように走り、魔仏の動きを止め、セリナの光束が祭壇の鎖に命中する。黒き鎖の一本が砕け散り、魂たちの悲鳴が歓喜に変わった。
「――ありがとう……」
「まだ……逃げられない……」
その声が空洞に響いた瞬間、瘴気がさらに濃くなり、闇が蠢く触手のように祭壇を覆う。魔仏は絶叫を上げ、暴走した霊力が地脈を逆流させる。空洞の天井が崩れ始め、岩が雨のように降り注いだ。
それでも三人は諦めない。
ルナが尾を槍のように尖らせ、炎を吹き出し魔仏を抑え込む。セリナは全身から魔力を絞り出し、光の槍を形成した。
「――聖光、闇を裂け!」
光の槍が放たれ、魔仏の胸を貫く。
蓮弥は空を蹴り、拳に炎を極限まで圧縮させた。
「炎龍穿界ッ!」
炎が竜と化し、魔仏の胴を貫通する。同時にセリナの光が祭壇の核を撃ち、ルナの炎が鎖を次々と焼き切った。
封印されていた魂たちが一斉に解放され、光の粒となって空中を舞う。その中で、シュウ廉の魂が微笑みを浮かべた。
しかし勝利の安堵は訪れなかった。
崩れ落ちるはずの魔仏の巨体から、さらに濃い瘴気が溢れ出す。破壊されたはずの胸部が瘴気で補われ、裂けた肉体が黒い霊光で縫合されていく。
セリナの瞳が見開かれる。
「……再生している!?」
魔仏は絶叫を上げ、解放された魂のいくつかを瘴気の触手で絡め取り、再び己の体へと吸収した。魂の悲鳴が響き渡る。
蓮弥の拳が震えた。
「まだ……終わってないのか……!」
魔仏の四本の腕が一斉に広がり、空洞の中心に巨大な陣が展開される。瘴気の渦が渦巻き、天井の岩盤が一気に崩落を始めた。
ルナが尾を広げて結界を張り、セリナが全力で光の盾を張るも、圧倒的な霊力の奔流がそれらを押し潰す。
魔仏の背後に鎮座する祭壇は半壊しながらも黒き光を放ち、地下の霊脈からさらに瘴気を吸い上げていた。この存在はただの魔物ではない。地そのものを依代にし、封印を解かれた瞬間に大地と一体化していたのだ。
蓮弥は呼吸を整え、戦意を再び燃え上がらせる。
(ここで退けば、魂も、この地も、永遠に魔仏に呑まれる……!)
彼は炎をさらに凝縮し、全身の経脈を極限まで解放した。体の中で炎が暴れるたび、血管が裂けるような痛みが走るが、構っている暇はない。
セリナは呪文を変え、天光を呼び出そうとしている。ルナも尾の一本を炎で燃やし、自身の命を削って魔仏の足を絡め取った。
魔仏の無数の眼が一斉に開き、空洞全体が真紅の視線で満たされる。
今、死闘は極限を超え、誰一人退くことのできない領域に突入した。
戦いは――終わっていない。




