紅蓮仙途 【第163話】【第164話】 三面攻め 逃げ道ひとつ 心砕く
【第163話】三面攻撃の策
比叡山の大講堂には、松明の炎が揺れ、香木の煙が漂っていた。夜であるにもかかわらず百人を超える修士たちが集まり、堂内は熱気とざわめきで満ちている。
祭壇を挟んで東西に並ぶ長卓。その上には羊皮紙に描かれた地図と木札が置かれ、敵の陣地や地形が示されていた。議論は既に数刻続いており、誰もが疲労を帯びながらも声を荒げていた。
「正面から一気に突破するしかない!」
「いや、夜陰に紛れて奇襲すれば被害は減る!」
「正面突破など自殺行為だ! 奇襲など敵も想定しておろう!」
意見は二つに割れ、互いに譲らず。怒号が飛び交い、拳が机を叩く音が響く。
蓮弥はその場の隅に座し、黙して議論を聞いていた。炎の光が彼の横顔を照らす。年若い彼が発言権を得るとは誰も思っていない。しかし胸の奥では、すでに別の策が静かに形を結びつつあった。
やがて、一人の白髪の長老が杖で床を強く叩いた。乾いた音が堂内に響き、ざわめきが静まる。
「……これ以上、無駄に時を費やすわけにはいかぬ。敵は猶予を与えれば力を蓄える。我らに残された刻は少ない。諸君の知恵を総じても結論は出ぬようだ。――他に案を持つ者はおらぬか?」
重苦しい沈黙。誰も声を上げようとしない。
そのとき。
「……私に、一つ考えがあります」
静かで、しかし澄んだ声が響いた。視線が一斉に注がれる。若輩の修行者、蓮弥がゆっくりと立ち上がっていた。
場にいた多くの修士たちの目には訝しみが宿る。修練の途上にある若者が、戦の方針を語ろうというのか。だがその声音には揺るぎない芯があり、軽々しい発言ではないと悟らせた。
蓮弥は地図の前に歩み寄り、指を置く。
「四方から囲む。それは一見、理に適っているように思えます。しかし……追い詰められた獣ほど恐ろしいものはない。四面を塞げば、彼らは死力を尽くして戦い、我らにも甚大な犠牲が出るでしょう」
堂内がざわつく。若者の口から語られる理路に、誰もが耳を傾け始めた。
蓮弥は言葉を続ける。
「逆に、一方を開けておけばどうなるか。敵は逃げ道があると信じ、全力で戦う意志を失う。戦意が萎えれば、勝敗はすでに決したも同然です」
彼の指は地図の北面をなぞり、その先に三つの印を描いた。
「逃げ道に三重の狙撃場を設けます。
――第一の狙撃場。ここでは声を上げるのみ。矢をつがえて威嚇し、実際には撃たずに逃がす。
――第二の狙撃場。ここもまた弓を引き絞るが、放たぬ。敵はまだ生き延びられると信じ、さらに奥へ逃げ込む。
――そして第三の狙撃場。そこに本命の精鋭を潜ませる。戦意を失い、ただ逃げることしか考えなくなった敵に、決定的な一撃を与えるのです」
沈黙の後、ざわめきが広がった。
一人の修士が憤然と立ち上がる。
「敵に逃げ道を与えるなど……臆病の策ではないのか!」
蓮弥は迷いなく首を振る。
「逃がすのではありません。逃げると思わせるのです。戦いの勝敗は力のみによらず、心によって決まります。敵の心を折れば、無用な血を流さずに勝利できる。これ以上、我らの仲間を失う必要はない」
その言葉に、堂内は再び静まった。
年長の修士が腕を組み、低く唸る。
「……理にかなっておる。確かに四面を塞げば我らの損害は避けられぬ。だが一面を開け、三重の罠で削ぐ……」
別の修士が頷き、声を重ねる。
「最初は威嚇、次も牽制。そして最後に真の一撃……逃げ切れると信じる者ほど、落差は深く心を砕く。恐怖は剣より鋭い」
徐々に賛同の声が広がっていった。
「なるほど、この策なら犠牲は最小で済む」
「若き修士ながら、鋭い洞察を持っている……」
反対していた者たちも次第に言葉を失い、やがて白髪の長老が静かに立ち上がった。
「……良い。蓮弥の案を採用しよう。三面から攻め、一面を逃げ道として残す。そして三重の狙撃場を設け、敵の心を砕く。これこそ勝利を確実にする道である」
重々しい声が堂内に響き渡り、やがて全員の合意の声となった。
蓮弥は深く一礼した。視線を戻すと、セリナが温かな微笑みを向け、ルナは尾をふわりと揺らして誇らしげにこちらを見ていた。
胸の奥に熱が灯る。
(――師よ。必ず、この勝利の中で、あなたを救い出してみせます)
若き修士の瞳に燃える炎は、ただの策を超えた決意を映していた。
【第164話】決戦の幕開け
夜はまだ明け切らず、東の空は淡い灰色に濁った光を帯びていた。
比叡山の山裾を覆う濃霧が、まるで大軍を隠す帳のように垂れ込めている。鳥の声もせず、木々は凍りついたように静まり返り、吐息すら音になりそうな緊張感が辺りを支配していた。
霧の中、数百の修士たちが陣を組んで息を潜める。彼らは皆、比叡山の名のもとに集った者たち。道家の護符を腰に下げ、杖や剣を構え、瞳は鋼のように光っている。各陣には結界が張られ、光の陣符が微かに淡く輝く。静謐な気配の裏に、張り詰めた殺気が潜んでいた。
敵地は目の前だ。
魔仏山――その名に違わぬ禍々しい姿が霧の奥に黒々と浮かび上がっている。岩肌はひび割れ、瘴気の靄が絶え間なく噴き出して山を包んでいた。空気は鉄錆の匂いに満ち、風は死霊の呻き声を運ぶかのようだった。草一本生えず、鳥獣すら近づかない。まるで大地そのものが息絶え、呪いの沼に沈んだような気配だ。
前線部隊の中央に、蓮弥・セリナ・ルナの三人も立っていた。
蓮弥は山を見据え、指先でそっと腰の剣を撫でる。刀身に宿る剣気が薄く震え、主の緊張を映すかのようだった。
「……始まるぞ」
その低い声に、セリナは唇を引き結ぶ。彼女は異国の魔法使い、まだこの地の戦場には不慣れだ。だが、その手は杖を固く握り、青い瞳は決意の光を宿している。
「こんな大規模な戦は初めて……でも、退くつもりはないわ」
隣でルナが四本の尾をゆらりと揺らし、狐火を小さく灯した。
「戦いは始まる前が一番怖い。……恐怖を感じるのは生きている証だ。忘れるなよ」
静寂を裂くように、山裾から一筋の法光が夜空を貫いた。
合図だった。
三方からの同時攻撃――蓮弥が提案した奇襲策が、ついに発動される。
まず東側。
修士たちの詠唱が重なり、数十の光弾が空を飛ぶ。まるで流星の群れが山を襲うかのように、轟音と共に魔仏山の外郭結界に衝突した。結界が軋み、幾筋もの光の亀裂が走る。
続いて西と南からも攻撃が集中する。炎の槍が山肌を貫き、雷撃が轟き渡る。衝撃で山の瘴気が吹き飛ばされ、黒煙の下から歪んだ伽藍の影が覗いた。
「結界が……破れた!」
誰かの叫びとともに、突撃の号令が響き渡る。
修士たちは一斉に山へ駆け上がった。護符が光り、剣が唸りを上げる。
瘴気の中から現れたのは、異形の修徒たち。腐った肉を纏う骸骨僧や、魔仏に仕える妖鬼たちが狂気の叫び声を上げながら迎え撃つ。
だが三方向からの同時攻撃は彼らの対応を乱し、防衛線は瞬く間に崩されていく。
蓮弥たちは後方の指揮地点に立ち、戦況を睨み続けた。
「敵の退路は北にしかない……。必ずあそこへ誘い込む」
蓮弥の策は、あえて北面を空けておくことで敵に「逃げ道がある」と錯覚させるものだった。追い詰められた者ほど、そこに殺到するはずだ。そして――狙い通り、敵は雪崩を打って北へ向かい始めた。
第一狙撃場。
矢を番えた弓隊が構えるが、矢は放たれない。ただ鋭い殺気を漂わせるのみ。敵兵たちは一瞬怯むが、何も起きないことに安堵し、さらに北へ駆ける。
続く第二狙撃場も同様だ。威嚇の叫びが響き、敵はさらに逃走本能を刺激されて加速する。
そして――第三狙撃場。
そこには精鋭の法弓隊と術者たちが潜んでいた。敵が視界に飛び込むや、指揮官の手が振り下ろされる。
「撃てっ!」
轟音が山峡を揺るがした。
無数の矢が矢雨となり、同時に術者たちの詠唱が重なり、光の奔流が谷を埋め尽くす。逃げ惑う敵兵たちは一瞬で罠にかかり、叫び声を上げる暇もなく倒れていく。
瘴気に紛れていた者たちも、光の浄化の中で次々と塵となり消えた。
「た、助けて……出口は……!」
「ひ、ひいいいっ!」
悲鳴がこだまし、敵軍の動揺は一気に広がった。
南・西・東の前線では士気を鼓舞された修士たちが一気に攻め込み、敵の防衛網は崩壊していく。わずか数刻で戦場は逆転し、魔仏山を守る者たちは散り散りに逃げ惑った。
セリナは肩で息をし、戦場を見渡した。
「……嘘みたい。あんなに数がいたのに……」
ルナは尾をひと振りし、獣の瞳で敵影を追う。
「蓮弥の策だ。敵に希望を見せて叩き潰す……。見事な戦術だな」
だが当の蓮弥の顔には喜色がなかった。彼は魔仏山の奥――黒霧がなお濃く渦巻く中心を睨みつけていた。そこから、戦場全体を押し潰すような圧迫感が漂ってくる。
この勝利は、ただの外郭戦に過ぎない。
真の敵は、山の奥深くに潜む。
師を救うため、そして己の因縁を断ち切るため――蓮弥は拳を握りしめた。
「行こう。ここからが本番だ」




