紅蓮仙途 【第153話】【第154話】 黒大蛇 氷に沈みて 湖光る
【第153話】地下湖の影蛇戦
砂牛頭人を退けた三人が進んだ先は、息を呑むほどの広大な地下空間だった。
空気は急に変わり、乾いた砂の匂いは跡形もなく消え、湿気を帯びた重苦しい息吹が肌をまとわりつく。天井は闇に呑まれ、どこまで高いのかすら見えない。蒼白い光苔が岩壁に点々と貼り付き、ほのかな光を放っては、鏡のように静かな湖面に揺らめきを映し出していた。
その静寂は、あまりに不自然であった。
まるで時間そのものが止まったかのように、波紋一つすら起こらない湖。だが、そこに潜む気配は、鈍い鐘の音のように心臓の奥を打ち続けていた。
蓮弥は剣の柄に手を添え、眉をひそめた。
「……強い妖気がする。気を抜くな」
ルナは四本の尾を広げ、尾先に青白い狐火を灯した。炎がゆらりと揺れるたび、周囲の岩壁に長い影が生まれては消える。
「……湖の底に何かいるわ」
セリナは杖を構え、慎重に呪文の詠唱を始めた。その瞬間――。
――轟ッ!
湖面が突如として盛り上がり、闇を切り裂く巨影が躍り出た。
全長二十丈を超える漆黒の大蛇。鎧のような黒鱗に覆われた体躯が水飛沫をまき散らし、赤い双眸は血のような光を宿して三人を射抜く。
「黒大蛇――っ!」
蓮弥が叫ぶよりも早く、巨体がうねりを上げ、尾が大地を薙ぎ払った。
轟音と共に水柱が弾け、まるで矢の雨のような飛沫が岩壁を打ち砕く。三人は瞬時に飛び退き、ぎりぎりで回避した。飛沫の一つ一つが刃のように鋭く、頬をかすめただけで血がにじむ。
息を整える暇もなく、大蛇は再び湖面に身を沈めた。だが、それは退避ではない。次の瞬間――。
湖の影が揺らめき、無数の蛇影が這い出してきた。
黒大蛇の影が裂け、まるで生き物のように形を成す。大小様々な蛇が岩場を這い、天井を這い、三人を取り囲む。
「まさか……これ全部、分身!?」
セリナが顔を強張らせる。「幻影じゃないわ……どれも実体を持ってる!」
ルナは狐火を投げ放ち、一匹を焼き払った。だが、その身体は煙のように霧散し、別の場所で影が再び形を成す。
「……無限に湧いてくる……!」
蓮弥は剣を振るい、迫る影蛇を切り裂いた。だが、次から次へと押し寄せる蛇の群れに、じりじりと足場を削られる。
「……本体を見極めないと埒が明かないな」
セリナは杖を天に掲げ、広域探知の魔法陣を展開した。湖面に青白い光の紋様が広がり、全域の気配を探ろうとする。だが、その光の中からも影蛇が這い出し、詠唱を妨げるように群れをなして襲いかかってきた。
ルナが素早く前に出て、狐火の壁を展開する。「詠唱を続けて! 私が守る!」
狐火の壁が蛇たちを焼き払うが、それでも群れは止まらない。焼き払った影は霧散し、別の影がまた湧き出す。体力を削るだけの消耗戦。焦燥が三人の背に冷たい汗を伝わせる。
――このままでは飲み込まれる。
蓮弥は深く息を吸い、剣を胸元に構えた。目を閉じ、霊力を研ぎ澄ます。雑音のように響く無数の妖気の中から、ひときわ濃く、底知れぬ存在感を放つ気配を探る。
湖底深く――闇の淵から響く、脈打つような妖気。
「……いた!」
蓮弥が目を見開くと同時に、湖面が轟音と共に割れ、本体の黒大蛇が姿を現した。
巨大な顎が彼を飲み込まんと迫る。
剣が閃き、光をまとった斬撃が放たれた。
一閃が闇を裂き、数十匹の影蛇をまとめて吹き飛ばす。
「セリナ、今だ!」
ルナが狐火の壁を押し広げて道を作り、蓮弥の斬撃の軌道を導く。
セリナの詠唱が完了し、湖面全体が青白い光に包まれた。
影蛇たちが苦悶の声を上げ、次々と霧散していく。
「そこだッ!」
蓮弥の一刀が黒鱗を切り裂き、血飛沫が湖を赤に染める。
大蛇の悲鳴が地下空洞を震わせ、波が岩場を飲み込む勢いで荒れ狂った。
しかし、それでも黒大蛇は倒れない。
怒り狂った大蛇は尾を振り下ろし、三人を湖面へ叩き落とそうとする。
波が嵐のように渦巻き、視界は闇に呑まれる。
「まだ終わりじゃない……!」
蓮弥は剣を構え直し、セリナとルナが背を預け合う。
巨大な影が湖を覆い、終わりなき影蛇たちが再び現れる。
三人は血の気配漂う水の上に立ち、なおも闘志を燃やした。
戦いは、まだ始まったばかり――。
【第154話】氷獄の湖に響く咆哮
暗黒の地下湖を震わせるような黒大蛇の咆哮が響き渡った。
その声は空間そのものを揺らす重低音で、洞窟の天井から無数の岩片が落ちてくる。三人は荒れ狂う湖面の上に立ち、なおも敵の圧倒的な妖気に耐え続けていた。
「くっ……っ!」
セリナは膝をつきながらも、杖を握る手を離さない。その杖――紅氷の杖は、赤い宝玉の奥に氷の精霊を宿し、静かな力を脈動させていた。
無数の蛇影が彼女を狙い、湖面を滑るように迫ってくる。しかし、ルナがその全てを炎の壁で焼き払った。
「セリナ! 詠唱を続けて!」
「分かってる……!」
セリナの口から、古の言葉が紡がれ始める。
紅氷の杖を握る手が震えているのは恐怖ではない。膨大な魔力を束ねる圧力に全身を押し潰されそうになりながらも、彼女は集中力を切らさず、一語一語を刻むように唱えた。
ルナは尾を広げ、蒼い狐火を宙に舞わせる。その炎は徐々に紅く染まり、やがて竜火の輝きを帯びていった。
「……竜火、宿れ!」
狐の炎と竜の力が混じり合う瞬間、空気が灼熱に変わった。狐火の玉が矢のように放たれ、無数の影蛇を焼き尽くす。焼かれた影蛇は逃げ場もなく消滅し、その数はみるみる減っていった。
黒大蛇の本体が咆哮を上げ、洞窟の奥で身をくねらせる。その怒りは影蛇の供給源を絶たれた証であり、ルナの炎が確かに均衡を崩した証でもあった。
「ルナ、見事だ!」
蓮弥は剣を握り直し、残る気配を睨みつけた。
セリナの詠唱が頂点に達し、紅氷の杖の赤い宝玉が血のように輝く。
「――《氷獄・紅蓮封界》!」
その瞬間、紅い光が杖先から迸り、湖全体を覆うように広がった。
紅氷の力は冷気でありながら、赤い炎のような輝きを放つ。それは瞬く間に湖水を凍らせ、揺らめく波をそのまま氷に閉じ込める。
氷結の奔流は洞窟の奥へと伸び、黒大蛇の巨体の動きを封じた。湖は一瞬で氷の大地となり、洞窟はまるで氷獄と化した。
黒大蛇が苦しげに咆哮し、凍りついた体を激しくのたうつ。鱗が氷を砕き、巨大な尾が暴れ狂う。だが動きは確実に鈍り、氷は再びその隙間を塞いでいく。
「……今だ、蓮弥!」
セリナが叫んだ。
蓮弥は剣を前に掲げ、深呼吸した。
彼の全身から白い霊気が立ち昇り、剣に吸い込まれるように集中していく。
周囲の空気が震え、剣先から迸る気配が岩壁を砕くほどの圧力となる。
「《剣気・極点――天裂》!」
叫ぶと同時に、蓮弥は全身の霊力を一点に収束させた。
剣気は光となり、眩い閃光を帯びて一直線に放たれる。
その刃は氷を割り、大蛇の鱗を断ち、巨体を貫く。
黒大蛇が絶叫した。
その声は洞窟を震わせ、湖面の氷をも砕くほどの力を持っていたが、やがてそれは弱まり、低い唸り声に変わった。
血が氷の上に流れ出し、深紅の模様を描いて広がっていく。
巨体は痙攣し、やがて静止した。
赤い瞳の光が消え、黒大蛇は崩れ落ちるように湖の奥深くへ沈んでいった。
洞窟の中は静寂に包まれた。
湖は氷の中で凍りついたまま、冷たい光を反射している。ルナは尾をたたみ、炎を消した。セリナは杖を支えにしながらも微笑んだ。
「……終わった、のね」
「ああ……やっと、な」
蓮弥は剣を納め、氷に映る自分の影を見下ろした。その影は疲労でふらついていたが、瞳の奥には確かな達成感が宿っていた。
三人はしばらくその場に立ち尽くした。息を整えながら、互いの無事を確かめる。
氷の湖は静まり返り、戦いの跡を無言で物語っていた。
やがて蓮弥が前を向く。
「……行こう。この先に、まだ道があるはずだ」
セリナとルナが頷き、三人は湖を渡り始めた。
その先にはまだ未知の試練が待ち受けている。だが、今の彼らに恐れはなかった。
黒大蛇という禁忌の守護者を討った今、彼らの歩みは確固たる力を帯びていた。




