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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第137話】【第138話】 涙ゆえ 竜の胸撫で 冬の朝

【第137話】涙の訴え


 凍てついた雪原に、重苦しい静寂が訪れていた。


 荒れ果てた大地に黒き巨竜が横たわり、その巨大な胸が荒く上下している。吐息が氷を瞬く間に融かし、白い蒸気となって夜明けの冷気に混じり消えていく。


 その吐息ひとつひとつが、今なお圧倒的な生命力を宿している証でもあり、同時に彼の深手の深刻さを物語っていた。


 黒鱗の隙間から赤黒い血が雪を染め、傷口からは熱気が立ち上り、周囲の雪が音を立てて溶けていく。昨日までの恐怖の象徴であった存在が、今は苦悶のうめきを上げるだけの傷ついた獣に見えた。しかし、その威容は決して失われていない。彼の存在そのものが、北の地の厳しさと古の力を象徴していた。


「……生きてはいる。でも、このままでは……」

 セリナの声は小さく、吐息の白さに紛れるほどか細かった。彼女の握る杖の先にはまだ雷光の余韻が残り、戦いの激しさを映し出している。

 ルナの三つ尾が不安そうに揺れ、狐火の灯りが雪面にゆらゆらと影を落とした。


 そのときだった――


「お願い……やめて……!」


 澄んだ少女の声が、冷えきった大地を震わせた。

 三人は一斉に振り向く。視界の向こう、雪煙の中を白い衣をまとった小柄な影が必死に駆けてくる。素足で踏む雪は血で赤く染まり、髪には氷片が絡んでいた。

 彼女の名を、蓮弥は思わず口にした。


「シィラ……!」


 シィラは息を切らし、胸を押さえて立ち止まった。頬には涙の跡がいく筋も走り、真冬の風に晒されながらも、その瞳は必死に輝きを失わない。

「お願い……この竜を、殺さないで……! この子は……わたしたちシィラ一族をずっと守ってくれていた存在なの……」


「守って……?」

 セリナが驚きに声を漏らす。ルナの耳もぴくりと動き、彼女は何かを悟るように竜を見やった。


 シィラは膝をつき、傷ついた巨竜にそっと手を伸ばした。黒き鱗はまだ熱を帯びており、触れる指先が小刻みに震える。それでも彼女は怯まず、その鱗を撫でるように手を這わせた。


「……わたしたちの一族は、この北の地でずっと暮らしてきました。雪嵐や氷獣、飢えや寒さ……すべてに耐えながら。でも本当に恐ろしかったのは、人間や魔獣……外から襲ってくる者たちだったの」


 彼女は一瞬言葉を詰まらせ、かすれた声で続けた。


「そのとき、このドラコンたちが……わたしたちを守ってくれたのです。氷獣が襲えば竜が追い払い、雪崩が起これば翼で風を巻き起こして雪を退かせてくれた。わたしたちシィラは、彼らと共に生きてきた……」


 蓮弥は言葉を失い、竜の眼差しを見つめた。

 黒き竜の黄金の瞳は細まり、シィラを映している。その視線には怒りも憎しみもなかった。ただ深い慈しみが滲み、幼子を見守る親のような温もりさえ感じられた。


「……だけど、どうして俺たちに牙を向いた?」

 蓮弥の問いかけに、シィラは唇を噛みしめて涙をこらえた。


「それは……人間のせいなの」


 その言葉に、空気がさらに冷たく張りつめる。


「昔、この北には数えきれないほどのドラコンがいました。彼らは雪原を舞い、海で魚を取り、山で眠る……北の守り神でした。わたしたち一族も、彼らを敬い、共に暮らしてきたのです」


 シィラは視線を落とし、雪の上に深く膝をつく。


「でも……人間たちは北に進出し、拠点を築き、氷を砕き、海の魚を獲り尽くした。竜たちの食べ物も住む場所も、どんどん奪われて……」


 セリナが小さな声でつぶやいた。

「だから、憎むようになったのね……生きるために……」


 シィラは泣きながら頷く。

「仲間を失い、飢えと寒さに苦しみ……最後に残ったのが、この子だけだったの。もう誰もいない。それでも、この子はわたしたちを守ろうとした。だから……お願い……奪わないで。この命だけは……」


 沈黙が広がる。

 吹きすさぶ風が雪を舞い上げ、その音だけが静寂を切り裂いた。


 蓮弥は剣を握る手に力を込め、やがてゆっくりと剣を下ろした。

「……そうか。お前は、この大地を守ってきたんだな」


 その声は静かで、しかし揺るぎなかった。

 セリナも杖を下げ、ルナも狐火を消す。三人の胸には、仲間を失った痛みや恐怖ではなく、シィラの涙が訴える真実が重く刻まれていた。


 黒き竜は目を閉じ、苦しげに吐息を漏らした。だがその表情は、戦う者のものではない。ただ守護者としての誇りを背負い、最後まで己の役目を果たそうとした者の姿だった。


「蓮弥……」

 セリナが震える声で彼の名を呼ぶ。

「この戦い……まだ終わらせるべきじゃないわ」

「……ああ。まずは、この竜の声を聞こう」


 その言葉に、シィラの瞳が潤み、雪原に一筋の光が差し込む。

 北の空にはオーロラが再び舞い、緑と紫の光の帯が大地を照らした。それはまるで、竜を討たずにその真実を受け止めた三人を祝福するように、静かに彼らの頭上で揺れていた。




【第138話】聖域の誓い


 吹きすさぶ極北の風が、血と氷の匂いを混ぜて流れていく。


 黒きドラコン――ヴァルゼルの巨体はなお雪原に横たわっていたが、その黄金の瞳はもはや怒りも敵意も帯びていなかった。戦いの傷跡は深く、黒鱗の隙間から滲む血が雪を朱に染める。それでもその眼差しは凛としており、静かな意思が宿っているのを三人は感じ取っていた。


 シィラは竜の首元に駆け寄り、涙で濡れた頬を袖で拭った。彼女の小さな手が、慎重に鱗へ触れ、ひどく熱を帯びた竜の体をなぞる。


「この子は……もう、最後の一頭なの。仲間も、住む森も、狩場もすべて奪われて……それでも、わたしたちを守り続けてくれた。どうか……」

 声が震え、言葉が雪に吸い込まれていく。


 その願いを受け、蓮弥は剣を腰に収めたまま、竜を真っ直ぐ見据えた。

「わかった。……俺たちが約束しよう。この地を、お前の聖域として守る」

 彼の声は風に消えず、氷原に響いた。


 蓮弥は胸元から紅晶石と氷精石を取り出した。紅の石は血と炎のような熱を帯び、青の石は氷雪のような冷気を放つ。彼が両手でそれらを合わせると、二つの結晶が低く共鳴し、光が雪面に反射して瞬く。


 セリナは瞳を閉じ、古の言語で呪文を紡ぎ始める。その言葉は雷鳴のような響きを持ちながらも柔らかく、空気を震わせた。ルナは三本の尾を広げ、尾先から青白い狐火を散らす。その火は風に溶けず、結晶の光と絡み合って天へと昇っていく。


 やがて雪原の大気そのものが唸りを上げた。氷と炎、雷と霊火が渦を巻き、地脈に眠る霊力を呼び起こす。

「――結界よ、この地を護れ!」

 蓮弥の声が大地を打ち、光が放たれる。


 瞬間、二つの結晶が解き放つ紅と蒼の光が柱となり、山々の稜線をなぞるように走った。光は地を巡り、雪原全体を網のように覆い、やがて天を舞うオーロラと一体となって、淡い輝きの結界を作り上げていく。それはただの防御ではなかった。


 ――ここは聖域。竜が眠る地、人が踏み荒らしてはならぬ大地。

 その意思が形となり、空気が変わった。外界から侵入しようとする者はこの光に阻まれるだろう。


 ヴァルゼルがゆるりと首を持ち上げ、低く喉を鳴らした。その声は唸りではなく、満足げな響きを含んでいた。


『……我が名は〈ヴァルゼル〉』

 突然、響いた声は耳ではなく心に直接届いた。蓮弥もセリナも驚きに息をのむ。


『人の子よ……紅晶と氷精を繋げし者よ。この誓約を受け入れよう。もしもこの地を護ると約すならば、我はお前たちを背に乗せ、東の道へと導こう』


 ルナが思わず尻尾を揺らし、目を丸くした。

「おおっ……しゃ、しゃべった!? いや、心に直接響いてきた!?」


 セリナは真剣な面持ちで頷く。

「竜は古き時代から生きる存在……言葉を超えた声で、世界と対話できるのよ」


 ヴァルゼルは視線を空に向けた。オーロラが雪の峰々を照らし、夜明け前の空が薄明に染まっていく。

『……だが忘れるな。東と西を隔てる山脈、そのさらに先には、古の禁忌が眠る。竜とて足を踏み入れぬ領域だ』


 その言葉に蓮弥の胸がざわつく。

「禁忌……?」


『そうだ。遥か昔、封じられた災厄がある。人も竜も呑み込むほどの禍。そなたらが進むというならば、その重さを背負う覚悟が必要だ』


 風が吹き荒れ、雪片が舞い上がった。ルナの瞳が竜を見据え、セリナは杖を握る手を強くした。

 蓮弥は一呼吸置き、迷わず言葉を発した。

「俺たちは行く。仲間を失っても、この道を止めるわけにはいかない」


 ヴァルゼルの黄金の瞳にわずかな笑みの気配が宿る。

『……よかろう。だが急ぐな。傷ついた我も癒さねばならぬ。まずはここで休め。夜を越し、時が来れば我が翼でお前たちを運ぼう』


 シィラは大きく息を吐き、雪に崩れ落ちた。安堵の涙が頬を伝い、彼女は震える声で三人に感謝を告げた。

「ありがとう……本当に……」


 こうして一行は、竜と共に極北の夜を過ごすこととなった。


 氷原に焚き火を起こし、炎の周りに座る。シィラが持参した干し肉や木の実を分け、セリナが小鍋に雪を溶かして簡素な煮込みを作る。ルナは尾で雪を払いながら、時折炎に狐火を加えて彩りを添えた。蓮弥は剣を傍らに置き、仲間たちを見守る。


 遠くでは、ヴァルゼルが翼を折り畳み、雪を枕に横たわっていた。巨竜の吐息が氷原を震わせるたび、大地そのものが呼吸しているように感じられる。


「……こうして竜の傍で眠るなんて、夢みたいだな」

 蓮弥の言葉に、セリナは微笑を浮かべた。

「でも、これは現実。わたしたちはいま、歴史の分岐点に立っているのかもしれない」


 ルナは焚き火の灯りで輝く瞳を細めた。

「禁忌の地、か……。尾が震えるよ。楽しみと怖さが同時に来てる」


 夜は更け、星々が瞬き、オーロラが天を舞った。

 竜の聖域は静謐で、しかし確かな力に満ちていた。三人の旅路は新たな段階へと進もうとしていた。



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