紅蓮仙途 【第129話】【第130話】 雪原に 巨影迫る 白き牙
【第129話】氷獣王の影
村の朝は、息を呑むほどの静けさに包まれていた。雪は夜通し降り積もり、家々の屋根も畑も道も、全てが白銀の幕で覆い隠されている。凍りついた大気は肌を刺し、吐息はすぐに白煙となって散った。
広場に集まった村人たちは、厚手の毛皮をまといながらも、震える手を胸に合わせ、祈るように蓮弥たちを見つめていた。
村長は一歩進み出て、長く白い髭を撫でながら口を開いた。
「氷獣……あやつらは、この雪原そのものの化身じゃ。毛並みは雪を映す鏡、牙は氷柱を思わせ、吐息は嵐そのもの。人が正面から挑めば、一瞬で命を奪われる」
その声は穏やかでありながら、長い年月を氷獣と対峙してきた者の重みを宿していた。杖を雪に突き立てる音が、しんとした空気に響く。
「だが、奴らにも隙がある。胸奥に宿る《氷精核》──それが砕ければ、いかに巨体でも崩れ落ちる。また、あまりに冷気を溜めすぎておるゆえに、炎と雷には脆いのじゃ」
セリナは冷ややかな瞳を細め、小さく頷いた。
「なら、私の雷が道を切り拓ける」
隣でルナが尻尾を揺らし、雪明かりに微笑んだ。
「狐火だって負けないよ。氷を焼くには、炎が一番だからね」
その明るい声音に、村人たちの顔にわずかな安堵が浮かんだ。
シィラは懐から氷草で編まれた小さなお守りを取り出す。淡く青白く光を帯びたそれを、三人の手にそっと握らせた。
「これは我らの願いを込めた護り。身を守る力が宿っておる。どうか、持って行ってくれ」
蓮弥は紅晶石の温もりを胸に感じながら、深く頭を垂れた。
「必ずや、北の道を切り開いてみせます」
村人たちの祈るような視線を背に、三人は雪原へと踏み出した。
そこから先は、人の領域ではなかった。
吹き荒ぶ雪嵐は咆哮のごとく耳を打ち、氷塊は暴風に乗って砲弾のように飛び交う。数歩先すら霞んで見えず、冷気は骨を凍てつかせる。普通の人間なら、半刻も経たずに凍死するだろう。
だが、蓮弥とセリナの胸に下げられた紅晶石は、淡い赤光を放ちながら温を宿し、氷の侵入を拒んでいた。
セリナは震える吐息を漏らしながら、その輝きを撫でる。
「……本当に、不思議な石ね。なければ、もう立ってすらいられなかった」
蓮弥は雪を睨みつけ、低く応じる。
「命を護る石だ。村人たちの願いでもある。無駄にはできない」
一方のルナは、雪煙をものともせず駆けていた。三本の尻尾がしなやかに舞い、狐火がその周囲を淡く照らす。まるで雪精が戯れているかのような姿に、セリナはふと呟く。
「やっぱり……不思議な子ね。どうして、そんな力を持っているのかしら」
ルナは振り返り、白雪を背景にして目を細めた。
「理由なんて関係ないよ。私たちはただ、前に進むだけ」
その無邪気な笑みに、蓮弥は僅かに口端を上げた。確かに、今は進むことこそが唯一の答えだった。
やがて、白一色の世界に溶け込むようにして、一匹の氷獣が姿を現した。
人の二倍を超える巨体。雪よりも白い毛並み、凍てついた息吹を吐き、瞳は氷晶のごとく冷たい。
「来たな……」蓮弥が刀に手をかける。
氷獣は咆哮を放ち、雪を弾き飛ばしながら突進してくる。だが、セリナの雷槍が一瞬早く空を裂いた。紫電が胸を貫き、氷精核を直撃する。甲高い破砕音とともに巨体は氷片となり、粉雪の中へと崩れた。
セリナは息を整え、淡々と呟く。
「やっぱり胸……」
蓮弥は頷き、刀を納めることなく雪原を睨む。
「今のはただの前触れだ。本番はこれからだ」
三人が辿り着いたのは、氷塊で築かれた山の洞窟だった。入り口には幾重もの氷柱が牙のように垂れ下がり、内部からは絶え間なく冷気が吹き出す。
大地が震え、空気そのものが凍りつくような圧が襲った。
やがて、暗闇の奥から巨影がゆっくりと姿を現す。
十数メートルを優に超える巨体。白銀の毛は鎧のように凍りつき、牙は剣より長く輝く。歩むだけで氷柱が砕け、吐息すら結晶となって舞った。
その眼は血のように赤く燃え、ただ立つだけで天地を圧する。
――氷獣王。
存在そのものが雪嵐であり、絶対の支配者。村人たちが語った「影」とは、この威容を指すのだろう。
蓮弥は刀を抜き放ち、足を雪に踏み固める。
「……ついに来たか」
セリナは雷光を指先に絡め、ルナは狐火を三本の尻尾に宿す。
次の瞬間、氷獣王の咆哮が雪原を裂いた。天地が震え、氷塊が崩れ落ちる。
白銀の嵐の中、三人の戦いが幕を開けた。
【第130話】氷精石と北の光
氷獣王が咆哮を放った瞬間、雪原そのものが揺らぎ、大地は雷鳴のように震えた。白銀の毛皮は氷鎧のごとく硬く凍りつき、吐息は嵐となって空気を瞬く間に凍らせる。眼窩に燃える紅光は血のように赤く、巨影は山のごとき威容を揺らしながら三人へ迫ってきた。
「来るぞ!」蓮弥が叫び、刀を抜き払う。その刃には紅晶石の光が微かに宿り、淡く赤く輝いた。
大地を割るような一撃の爪。氷塊が飛び散り、雪面は砕かれ亀裂が奔る。だがルナは素早く狐火を散らし、四方に幻影を生み出した。揺らめく狐火は実体のように雪原を舞い、氷獣王の眼を惑わせる。
その隙を突き、蓮弥が地を蹴った。赤光を帯びた刃が横に滑り込み、氷獣王の前脚を斬り裂く。鋭い音とともに氷鱗が弾け飛ぶが、その奥には分厚い氷の筋肉が潜んでおり、傷は表皮を裂いたに過ぎなかった。
「……硬すぎる!」蓮弥は歯を食いしばり、刀を引き戻す。
その瞬間、セリナの詠唱が完成する。
「――雷槍よ、天より落ち、すべてを穿て!」
雪雲を裂き、蒼白の稲光が天から降り注ぐ。雷槍は氷獣王の肩を直撃し、轟音と閃光が雪原を焼いた。巨体が一瞬たじろぐ。だが次の瞬間、口腔から吹き荒れる猛吹雪が迸り、三人を呑み込もうとする。
凍てつく嵐。肌は裂け、呼吸すら凍る。
だがルナの三本の尾が輝き、狐火が爆ぜた。紅蓮の炎が障壁を成し、氷嵐と激突する。赤き炎と白き吹雪がぶつかり合い、天地を揺るがす轟音と共に削り合った。
「蓮弥! 今よ!」
ルナの声に押され、蓮弥は紅晶石を強く握りしめる。熱が刃に流れ込み、刀身が紅蓮に燃え立つ。
「はあああっ!」
渾身の突きが氷獣王の胸を目指す。刃は正確に狙ったが、巨体が揺れたためにわずかに逸れ、深々と脇腹を裂いたのみ。血ではなく氷片が雪原に飛び散る。
「……惜しいっ!」
怒り狂った氷獣王が両腕を振り下ろした。地面が粉砕され、雪煙の衝撃波が津波のごとく押し寄せる。蓮弥たちは弾き飛ばされ、雪の中を転がった。
セリナはとっさに雷結界を張り、直撃を防ぐ。しかし口端から鮮血が零れる。
「……核を狙わなきゃ、永遠に終わらない!」
ルナは瞳を燃やし、尾に狐火を集中させる。今度は幻ではなく、実体の炎。三つの炎の矢が矢雨のごとく放たれ、氷獣王の眼を撃ち抜いた。蒼白い氷眼が焼かれ、苦悶の咆哮が雪原を揺らす。
「今しかない!」
セリナが雷を呼び寄せる。蒼天から幾筋もの稲妻が降り、蓮弥は紅晶石の力を限界まで引き出した。炎と雷が交錯し、雪原は昼のように煌めいた。
光の奔流を突き進み、蓮弥の刃は氷獣王の胸を突き破る。刃先が奥深く突き刺さり、そこには冷たく輝く《氷精核》があった。
轟音。
氷精核が砕ける音が、世界を震わせた。氷獣王の巨体が痙攣し、最後の咆哮を上げる。その声は嵐をも凌駕する絶叫だった。
やがて白銀の巨影は崩れ落ち、粉雪となって吹雪に溶けていく。残されたのは、胸奥から零れ落ちた一つの輝石――《氷精石》。
戦場に静寂が訪れた。
氷精石は蒼色の輝きを放ち、紅晶石とは正反対の力を宿しているかのように冷気を鎮める。蓮弥はそれを両手で抱き、仲間へと見せた。
「……これが、氷精石か」
セリナは荒い息を整えながら、わずかに微笑んだ。
「紅晶石が炎なら、これは冷気を制する石ね。これがあれば、もっと北へ……氷原の奥へ進める」
ルナは尻尾を揺らし、嬉しそうに頷く。
「この石は、きっと次の道を示してくれるんだよ」
その言葉を証明するかのように、空が揺らめいた。
雲が裂け、夜空に七色の光が走る。揺らめき、舞い踊る光の幕――オーロラ。
雪原を覆う大天蓋に、北の光が燃え広がった。蒼、緑、紫、金。幾重にも重なる光は道しるべのように大地を照らし、さらに遠き北方を指し示している。
蓮弥はその光を見上げ、静かに呟いた。
「……導かれているのか」
疲弊した体のはずなのに、三人の胸には奇妙な高揚が満ちていた。氷精石の冷ややかな光と、天空を流れるオーロラの炎。その二つの輝きが重なり合い、彼らをさらに未知の世界へと誘っていた。




