紅蓮仙途 【第123話】【第124話】 雷光に 白衣舞い降り 石砕け
【第123話】白衣の少女、雷と共に
魔物像の鼓動は、もはや山の心臓が破裂しそうなほど激しく脈動していた。
大地を伝う震動は、足裏から骨まで響き、耳の奥では絶えず鈍い低音が鳴り響く。
封印の地の中心、地面に刻まれた古い陣法の文様は血のような赤黒い光に照らされ、無数の亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていた。
その裂け目から噴き出す妖気は、地獄の息吹を思わせる。生温かく、鼻腔を焼くような鉄錆の匂い。空気は重く、まるで見えぬ鎖が全身を縛りつけているかのようだった。
陣の中央に鎮座する魔物像――漆黒の巨獣を象ったそれは、すでにただの石像ではなかった。石肌の隙間から脈動する紅晶石の光が漏れ、心臓の鼓動と同調するかのように明滅している。像全体が血肉を得て生き物のように動き出す気配を放ち、周囲の冒険者たちの心を狂気へと染め上げていく。
仲間だったはずの者たちが次々に剣を振りかざし、互いを斬り伏せた。
瞳孔は異様に開き、血の涙を流しながら叫び声を上げる者。武器を持つ手を震わせ、意味もなく壁に頭を打ち付ける者。
理性は一瞬で溶かされ、ただ紅晶石の妖光に操られる傀儡となり果てていった。
蓮弥もまた、その渦中にあった。
気脈の流れは乱れ、胸の丹田は灼熱に焼かれるような痛みを訴える。
視界の端は赤黒く染まり、天地の気すら濁流のように暴れて制御できない。
耳鳴りが激しく、仲間の悲鳴も、剣戟の音も、水底で遠く響く音のようにしか聞こえなかった。
――奪え。
――血を。
――力を。
頭の奥で、呪詛のような声が絶えず囁く。
意識が霞み、膝が折れそうになる。蓮弥は必死に歯を食いしばり、自らの頬を爪で掻き、痛みで辛うじて正気を保とうとした。
そのとき――白い影が飛び込んできた。
「……ルナ?」
蓮弥の目の前に立ったのは、一匹の白狐だった。
三つの尾が逆立ち、まるで雷鳴を孕んだように淡く揺らめいている。
その小さな身体から放たれる霊圧は、妖気の奔流にも負けぬほど凛として清らかだった。
狐の瞳は真紅に輝き、魔物像を鋭く睨み据える。
赤黒い光の奔流が押し寄せるたび、ルナは小さな体を張り、蓮弥を庇うように前へ立ちはだかった。
その姿は「お前を護る」と言わんばかりの強い意志を示していた。
そして――
天が裂けた。
轟音と共に、天地を貫く稲光が夜空を白く塗り潰す。
幾筋もの雷が封印の地を覆い、魔物像の頭上へと叩きつけられた。
眩い光と爆音に一瞬視界を奪われた冒険者たちは皆、恐怖に竦み、動きを止める。
雷鳴に続き、空から一人の影が舞い降りた。
――白衣の少女。
純白の長衣は雪のように透き通り、稲妻の光を纏って神々しい輝きを放っている。
黒髪は嵐の風に踊り、双眸は雷そのものの輝きを宿していた。
その姿は人の身でありながら仙人の風格を纏い、誰もが息を呑むしかなかった。
少女は宙に浮かぶような軽やかさで降り立つと、細い指先をゆっくりと掲げる。
その一挙一動に天地の気が呼応し、周囲の空気は張り詰めた。
「――降れ」
その声は囁きに近い。それでも天地を揺るがすには十分だった。
稲妻が幾重にも空を裂き、魔物像を直撃した。
轟音が山を揺らし、封印の陣が一斉に輝きを取り戻す。
像の中に潜む邪気は悲鳴のような振動を放ち、赤黒い光は一瞬で掻き消された。
魔物像の石肌がひび割れ、黒煙を噴き出す。
やがて爆ぜるような音と共に粉々に砕け散り、その邪悪な鼓動も完全に途絶えた。
地を覆っていた狂気の気配が、まるで霧が晴れるように消え去っていく。
呪いから解き放たれた冒険者たちは力尽き、次々にその場へ崩れ落ちた。
蓮弥も膝をつきそうになったが、背後から柔らかな体温が支える。
振り返ると、そこにいたのはルナだった。
彼女の小さな身体は震えていたが、瞳には確かな意志の炎が宿っている。
紅晶石の力に染まらず、最後まで蓮弥を護り抜いたのだ。
「ルナ……お前……」
その名を呼ぶ声は、感謝と安堵で掠れていた。
少女は雷光を収め、静かに二人の前へと歩み寄る。
近くで見る彼女は、あまりにも美しかった。
肌は雪よりも白く、瞳は雷を閉じ込めたような鋭さと慈しみを兼ね備えている。
彼女はルナを一瞥し、穏やかな微笑を浮かべた。
「やはり……あなたはただの狐ではないのね」
ルナは答えず、じっと少女を見返す。その間には言葉を超えた意思が交わされているかのようだった。
少女は紅晶石を蓮弥に差し出した。
それは砕けた魔物像の中に眠っていた真赤の紅晶石。邪気を祓われ、いまは清浄な光を放っている。
「これは魔物像から生まれた核。……あなたたちに預けるわ」
そう言って、彼女は結晶を蓮弥に差し出す。
その微笑みは、天女のように美しく、どこか儚げだった。
蓮弥は思わず言葉を失い、その瞳を見つめ返す。
少女は何も言わず、風に舞うように身を翻す。
次の瞬間、稲妻が再び空を裂き、その中に彼女の姿は消えた。
静寂だけが残る。
二度目の邂逅。
彼女が微笑んだ瞬間から、蓮弥の胸には抗えぬ感情が芽生えていた。
――恋に落ちたのだ。
砕け散った魔物像と、血に倒れた冒険者たち、そして白狐ルナ。
封印の地は静けさを取り戻したが、蓮弥の心臓だけが戦場のように鼓動を打ち続けていた。
【第124話】託された紅晶石と地図
封印の地には、深淵の底のような静寂が広がっていた。
つい先ほどまで狂気と殺意の嵐が吹き荒れ、天地を裂く雷鳴すら轟いたその場所は、まるで全てが夢だったかのように静まり返っている。
赤黒く染まった大地は、崩れ落ちた魔物像の破片で覆われ、そこかしこに血の池が広がり、倒れ伏す冒険者たちの体を赤く染めていた。風は冷たく、血と焦げた石の匂いを運ぶ。
蓮弥は一歩一歩、慎重に足を進めながら戦場の中心へと歩いた。
靴裏に付着した血と泥がねっとりとした音を立て、周囲には呻き声すら響かない。命を残したものの、意識を失ったままだ。
ほんの数刻前、理性を失った仲間たちが互いを斬り合った惨状が、まだ鮮やかに脳裏に焼き付いていた。
彼は振り返り、砕け散った魔物像を見上げた。
あれほど圧倒的な妖気を放っていた存在は、今はただの石屑と化している。残滓すら微かで、恐怖よりも虚しさが胸を満たした。
――紅晶石。
蓮弥は瞼を細め、周囲に視線を巡らせた。
あの狂気の源となった結晶は、どこにも見当たらない。あれほど無数に吹き出し、冒険者たちを狂わせた赤い結晶は、跡形もなく消え去っていた。
「……やはり、幻か」
吐息混じりに呟く。
手を開けば、そこにあるのは白衣の少女が去り際に託してくれた五枚の紅晶石。
手の中の結晶は、妖気を帯びた赤ではなく、静謐な朱色の光を放っている。触れると心の奥が温められ、丹田に澄んだ気が満ちていくのを感じる。その力は攻撃的ではなく、命を守り癒すような穏やかさを持っていた。
蓮弥はその石を懐に収め、次に古びた羊皮紙を広げた。
線は褪せ、ところどころ破れているが、確かにアルディア大陸全土が描かれている。大陸の北端――常冬の氷雪地帯、その果てに赤い印が刻まれていた。
そこには古代文字でこう記されていた。
――ドラコンのマック。
添えられた小さな文字には、「竜の息吹宿る地」とある。
古代伝承に語られる竜族の棲み処。人々が恐れて足を踏み入れぬ秘境。
蓮弥は無意識に拳を握りしめた。
少女がなぜこれを自分に託したのか、その意図は分からない。だが彼女の瞳の奥に宿っていた覚悟が、胸の奥に強く残っていた。これは偶然ではない――新たな運命の導きだ。
◆◆◆
半日後。
封印の地に横たわっていた冒険者たちが、次第に呻き声をあげ始めた。
虚ろな目で見渡す者、己の傷を確かめる者、失われた仲間の名を呼ぶ者……。血と汗に塗れた彼らの顔には深い疲労が刻まれ、互いを見ても刃を向け合おうとはしなかった。狂気の記憶は霧がかったように曖昧で、ただ生きていることへの安堵があった。
蓮弥は仲間たちを呼び集め、他の誰の目も届かぬところの焚き火の傍で低く語りかけた。
「……これ以上、この地に留まるのは危険だ。それぞれの道に戻るべきだと思う」
言葉に反論はなかった。
あれほど大勢で押し寄せた冒険者の群れも、今や残った者は半数に満たない。血に濡れた地面がこの地が墓場になりかけたことを雄弁に物語っている。
蓮弥は懐から紅晶石を取り出した。
少女が渡した五枚の紅晶石を掌に乗せ、仲間たちの前に差し出す。
「これは……俺が預かったものだ。一人一つずつ、持ってくれ。最後の一つは俺に残させてほしい」
仲間たちは息を呑んだ。あの狂気をもたらした結晶と同じ名を持つ石を差し出されたのだ。しかし、恐る恐る受け取った瞬間、胸に静かな温もりが広がり、心のざわめきが鎮まっていくのを感じた。
ルナは無言で蓮弥にすり寄り、小さな身体でそっと足元に寄り添った。
セリナも結晶を受け取りながら微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、蓮弥。あなたがいたから、私たちは生き延びられたの」
他の仲間たちも静かに頷き合う。言葉は少ないが、その沈黙には互いを信じる強い絆が込められていた。死線を共に越えた者だけが抱く理解――それが今、彼らを繋いでいた。
蓮弥は皆の顔を順に見渡し、深く息を吸った。
「ここで俺は、みんなと別れる。行き先は……今は言えない。ただ、故郷に帰るつもりだと思ってくれ」
仲間たちの表情に、一瞬の驚きと寂しさが浮かんだ。
だが、彼の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。誰も止めはしなかった。命を懸けて戦った後だからこそ、互いの選んだ道を尊重することしかできない。
握手を交わし、抱擁を交わし、涙をこらえてそれぞれが道を歩み出す。
焚き火の赤い炎が血塗られた大地を照らし、戦友たちの背を静かに見送った。
◆◆◆
やがて蓮弥は一人残り、北の空を仰いだ。
懐に収めた紅晶石は、心臓の鼓動と同調するように温かく脈動している。
羊皮紙の地図には、北方の氷雪地帯に刻まれた赤い印。
――そこには伝説の竜が待つ。
冷たい風が吹き抜け、封印の地にこびり付いた血の匂いを少しずつ薄めていった。その風の向こうには、新たな試練と未知の旅路が待っている。
蓮弥は静かに目を閉じ、気脈を整える。丹田の奥で真気が静かに循環し、己の決意を支えるように力強く流れた。
――雷光を纏った少女の微笑みが瞼に浮かぶ。
その記憶が、彼の背を押した。
「行くぞ、ルナ」
白狐は小さく鳴き、三本の尾を揺らした。
蓮弥はその背を一瞥し、地図を握り締めたまま歩き出す。
北へ――竜の息吹が眠る地へ。
彼の旅は、新たな章を迎えようとしていた。




