紅蓮仙途 【第121話】【第122話】 紅光走る 欲に狂う影 血の祭壇
【第121話】封印の地の均衡
濃霧を抜けた瞬間、蓮弥の肌にまとわりつく空気が変わった。
ただ湿っているだけではない――何か目に見えぬ圧が、霊脈そのものから滲み出すように漂っている。呼吸を一つするごとに胸の奥へと重さが積もり、足取りさえ鈍る錯覚を覚えた。
聖山の奥地。
ようやく辿り着いた封印の地は、蓮弥の予想していた地獄絵図の戦場ではなかった。だが、ここはそれ以上に異様だった。
視界に広がったのは、広大な石畳の広場だった。
岩壁に囲まれたその空間は、まるで古の神殿のように整然としている。中央には、黒曜石のように艶めく巨大な魔物の像が立っていた。牙を剥き天を睨むその表情には生気すら宿っており、十数メートルの巨体からは像とは思えぬ気迫が滲み出ていた。ほんの少しでも意識を向ければ、喉を締め付けられるような圧力が襲う。
セリナが小さく息を呑む。
「……あれが……封印されし魔物……?」
その声は恐怖と畏怖にかすれた。
蓮弥も目を細めた。像の足元には淡い光が幾重にも重なり、符陣が地を覆っている。古代の修仙者が築いた封印陣――だが、光の一部は薄れ、微かな亀裂のような揺らぎが見えた。まるで何者かの手で封が緩められているかのようだ。
だが、最も異様なのは像そのものではなかった。
石畳の上に広がるのは、数十――いや百を超える冒険者たちの群れ。
彼らはそれぞれが五、六人の小隊を組み、封印の像を囲むように円陣を描いていた。剣士、魔術師、僧侶、盗賊……それぞれが己の特性を生かした陣形を整え、背を仲間に預けて一歩も動かない。
空気は重苦しい沈黙に包まれていた。
焚き火ひとつなく、声を上げる者もいない。
だが、戦意は確かにそこにあった。息をひそめた無数の獣が、一つの獲物を狙って牙を研いでいる。そんな錯覚を抱かせる。
蓮弥は足元に視線を落とした。
石畳の隙間には、乾いた血が黒くこびりついている。その近くには鎧を裂かれた死体が無造作に転がっていた。干からびた表情のまま、瞳孔は開ききっている。
――動けば死ぬ。
その屍が、無言でそう告げていた。
「多すぎる……」
セリナが呟き、ミリアは緊張の面持ちで弓を握りしめた。
「動く気配もないね……まるで、誰も最初の一手を打ちたがらないみたい」
ジョルンが低い声で答える。
「そうだろうな。誰かが仕掛けた瞬間、周囲の群れが一斉に襲いかかる。最初に動く者は、ほぼ確実に死ぬ」
カイルが唇を噛んだ。
「……じゃあ、こいつら全員、互いに殺気だけぶつけ合ってるってわけか」
蓮弥は無言で頷く。
彼の眼差しは冷徹だった。修仙者として霊気の流れを読み取れば、この広場には見えない刃が幾重にも交差しているのが分かる。
一歩踏み出せば、無数の矢と魔法が飛び交い、瞬く間に命を散らすだろう。
だからこそ、均衡は成り立っていた。恐怖と警戒が張り詰めた、この危うい均衡。
ルナが低く鳴き、像を睨んだ。
蓮弥は彼女の耳の動きから、封印陣から漏れる魔気の流れを感じ取る。
「封印が完全じゃない。ここにいる全員、気づいているだろう」
「だからこそ……誰も動けないのね」セリナが険しい顔をした。「一歩間違えば、全員ここで死ぬ」
蓮弥は周囲を見渡した。
冒険者の中には高位の魔術師も混じっている。筑基の気を持つ者の気配もある。
彼らもまた封印の奥に眠る力を求めているのだろう。
――だが、誰も勝算を持てない。だからこの場は凍り付いたままなのだ。
霧が流れ、冷たい風が広場を吹き抜ける。
その瞬間、一人の冒険者がわずかに足を動かした。
そのわずかな動作に、数十の視線が一斉に突き刺さる。
矢が弓にかかり、魔法陣が一瞬だけ光を帯びた。
だが冒険者は動かない。ただ膝の上で握った短剣を握り直しただけだった。
緊張の糸は再び張り詰める。
「……異常だな」カイルが呟く。「まるで全員、殺し合いのきっかけを探してる」
「きっかけは必ず訪れる」
蓮弥は低く言った。
「封印を解こうとする者が現れた瞬間、均衡は崩れる。血の雨が降るのは、その時だ」
ミリアは表情を強張らせた。
「でも……その時まで私たちは何もできないの?」
セリナは首を横に振った。
「動けば確実に狙われるわ。今は息を潜め、観察するしかない」
ジョルンも同意するように腕を組んだ。
その場に立ち尽くす彼らの耳に、微かな石の軋む音が届いた。
封印の像――その足元に刻まれた古代の紋様が、淡い光を帯びて脈動している。
その脈動は、まるで心臓の鼓動のように徐々に強くなっていた。
「封印が……弱まってる」蓮弥が囁いた。
彼の背筋を冷たい汗が伝う。
このまま何もせずとも、いずれ像の奥に眠る魔物は目覚めるだろう。
その時、この場の均衡など一瞬で消し飛ぶ。
セリナもまた唇を噛み、仲間たちを見回した。
「……ここからどう動くか、慎重に決めないと」
ルナの尾がしなるように揺れた。
広場全体の空気が張り詰め、冒険者たちの呼吸音すら鮮明に響く。
死者の冷たい眼差しが、未来の彼らを映すかのように暗い。
――誰も勝利を確信できない。
だが確実に、何かが動く時は迫っていた。
均衡の刃は、ほんの一押しで崩れるだろう。
その一手を誰が放つのか――それすら分からぬまま、夜が静かに広がっていく。
【第122話】紅晶石の狂乱
封印の地に、不意に赤い閃光が迸った。
瞬きの間に広がったその光は、周囲の空気さえ赤く染め、霧に包まれた岩場を妖しく照らす。重苦しい沈黙に包まれていた石造りの祭壇が、まるで生き物のように蠢いた。
光の源は――石像の胸部に走る巨大な亀裂。そこから、まるで噴き出す血潮のように無数の紅晶石が溢れ出していた。
漆黒の岩肌から零れ落ちるそれらの結晶は、焔のような光を宿し、床の上を転がるたびに赤黒い残光を引く。その眩さは、まるで人の心を直接かき乱す邪悪な輝きのようであった。
「……紅晶石……」
最初に呟いたのは、若い冒険者だった。その声は驚愕と歓喜に震え、瞬く間に周囲へ伝播した。
「信じられない……これだけの量、王国の財宝庫でも見たことがない!」
次の瞬間、緊張に張り詰めていた静寂が弾け飛ぶ。
冒険者たちは歓声をあげ、一斉に結晶へと手を伸ばした。最初は仲間と声を掛け合い、袋やポーチに石を押し込んでいた。だが、理性の薄皮は脆くも崩れ去る。
「よこせ、それは俺のだ!」
「裏切ったな……お前もか!」
怒号と悲鳴が入り乱れ、剣が抜かれ、魔法の閃光が視界を切り裂いた。
共に命を預けてきた仲間でさえ、いまは敵。互いの命を顧みず、ただ紅晶石を掴むためだけに刃を向ける。
この結晶はただの宝石ではない。その紅い光には心を狂わせる呪いが宿っていた。
理性は焼かれ、欲望のみが鋭利に研ぎ澄まされる。ひとたび手にした者はさらなる石を求め、持たぬ者は奪わずにいられない。
戦場は瞬く間に修羅の巷へと変貌した。
剣が肉を裂き、鮮血が宙に舞う。その血は自然に流れることなく、すべて祭壇の中心、魔物像の足元に吸い込まれていった。
地面を染めた赤が、まるで生きた生物のように脈打ちながら石像の亀裂を走る。
――ゴウン。
大地が低く唸る。
封印の象徴であったはずの石像が、血と紅晶石の力を糧に息づき始めていた。
「……まずい。」
蓮弥の喉が自然に音を漏らす。
全身に悪寒が走り、心の奥底まで何か赤黒いものが侵食してくる。視界が揺らぎ、紅晶石の光が網膜を焼くように沁みて離れない。
「……俺は……まだ……戦える……もっと……」
隣でカイルが低く唸った。剣を握る彼の瞳には狂気が宿り、かつての冷静な剣士の面影はどこにもなかった。
セリナの唇からも呪文が途切れがちに洩れる。
魔法使いとしての理性を必死に保とうとするが、指は震え、声はかすれ、赤い輝きに心を絡め取られていく。
ジョルンは自らの頬を殴りつけ、理性を呼び戻そうともがいていたが――次の瞬間、彼の手は勝手に動き、地に転がる紅晶石を掴み取ってしまった。
その瞬間、彼の瞳は深紅に染まり、静かな狂気の光を放った。
温和なミリアも同じだった。彼女は血濡れの槍を構え、周囲を獣のような目つきで睨み回している。
その美しい顔には、もはや人間らしい柔らかさは微塵も残っていなかった。
――奪え。
――すべての紅晶石を手に入れろ。それが力だ。
蓮弥の頭の中で、誰とも知れぬ声が何度も囁く。
脳裏に焼き付くその誘惑は、長年積み重ねた修行と理性の壁を易々と侵食していった。
彼は腰の符を握りしめたが、手は痺れ、術式を組み立てる計算すら霧散していく。
気づけば足が勝手に動き、血と紅い輝きの渦の中へと踏み込んでいた。
「……キュゥゥン!」
ルナの悲鳴にも似た鳴き声が耳を打った。
白狐の声は遠雷のようにかすかに響いたが、それすら蓮弥の心を繋ぎ止めるには弱すぎる。視界は赤黒く染まり、現実が遠のいていく。
冒険者たちの悲鳴、断末魔、刃と刃がぶつかる甲高い音が混然となり、地獄絵図が広がっていた。
吸い上げられた血が石像の瞳に流れ込み、両の眼窩が深紅に輝く。
その光に照らされる者すべての影が、床に貼り付くように黒々と揺らめいた。
蓮弥たち五人も例外ではない。
仲間のはずの顔が次々と敵のように見え始め、誰もが武器を構え、互いを殺す衝動に駆られていく。
紅晶石の呪いは彼らの魂に牙を立て、絆を易々と引き裂いた。
カイルと蓮弥の視線が交わる。
もう言葉は不要だった――そこにあったのは、殺意と欲望のみ。
剣を構えたカイルが一歩踏み出す。蓮弥もまた、反射的に符を取り出して対峙した。
魔物像の脈動はさらに激しさを増す。地面がうねり、封印の地そのものが呻いているかのようだった。
石像の背後、闇の裂け目から吹き出した赤黒い風が髪を乱し、衣をはためかせる。
紅晶石の嵐の中、理性も絆も失われ、蓮弥たちは崖っぷちへと追い詰められていく。
いまやこの地は、狂気に支配された奈落そのものだった。




