紅蓮仙途 【第119話】【第120話】 焚火の夜 冷風骨まで 算つく歩み
【第119話】血の予言と聖山の奥へ
戦いの終焉を告げるように、聖山の斜面を冷たい風が吹き抜けた。倒れ伏した古物商の老人の体は、もう動かない。焦げ付いた大地と血の匂いが鼻を刺し、激闘の痕跡を無言で物語っていた。仲間たちの荒い息遣いだけが、静寂に支配された山中で響いている。
蓮弥は慎重に老人の傍らに歩み寄った。焼け焦げた外套の下から、古びた布袋が転がり落ちているのを見つけ、手を伸ばす。その指先には、まだ僅かに残る霊力の残滓がざらつくような感触で絡みついた。
「……妙だな。この袋自体が、護符のような結界を纏っている」
低く呟くと、セリナが杖を握りしめて近寄った。
袋の口を解くと、乾いた音を立てて何かが広がる。そこには、血に似た暗赤の染みがまだ生々しく滲む、古い布が収められていた。布地はただの羊皮紙よりも厚みがあり、触れると微かに冷たい。蓮弥は慎重に広げ、その表面に刻まれた複雑な文様を目にした。
「これは……術式陣だな。ただの地図じゃない」
セリナが小さく息を呑む。その瞳は、布に描かれた異形の文様を追っていた。
その布には不気味な文字がいくつも走り、中央には人の心をざわつかせるような図形――血の円環と、複数の印を組み合わせた複雑な魔術陣が描かれていた。
「……ここに記されているのは……“白狐の血を用い、眠りし獣を蘇らせる”……」
蓮弥が呟くと、背後で白い毛並みが震えた。ルナが静かに鳴き、蓮弥の足元に身を寄せる。その尾が彼の足首を巻くように絡み、微かな不安を訴えているかのようだった。
「まさか……この老人たちの狙いは最初から……ルナ?」
ミリアの声は震え、唇の色は血の気を失っている。
「恐らく間違いないな。ルナの霊力はただの妖狐の域を超えている。奴らはそれを知っていた」
ジョルンの低い声には怒りが滲んでいた。握りしめた拳の甲に血管が浮き上がる。
さらに布の隅には粗雑な線で描かれた図があった。それはこの聖山の地形を表すものだった。尖った峰をいくつも越え、深い霧に包まれた谷を抜けた先――“獣の眠る地”と震える筆致で記されている。
「……眠りし獣、か。どれほどの存在なんだ」
カイルが険しい表情で布を睨む。戦士らしい直感が、この地図が単なる脅しや虚構ではないことを告げていた。
「少なくとも、この老人たちが命を懸けて追い求めた存在だ。凡百の魔獣ではないだろうな」
セリナの声は低く冷たい。彼女の瞳に宿る理性の光は、恐怖を押し隠すためのものだった。
戦いの疲れと、胸を圧迫する不穏な予感。静寂の中に、緊張の糸が張り詰める。
蓮弥は布を畳み、ゆっくりと顔を上げた。
「選択肢は二つだ。このまま山を下り、ギルドや王都に報告して援軍を呼ぶか……あるいは、このまま奥に進んで、この計画を止める」
ジョルンが短剣の柄を握りしめた。
「援軍を待つ? その間に、もしこの魔獣が蘇ったらどうなる? どれだけの犠牲が出る?」
その言葉には、仲間を失った過去の記憶が滲んでいた。
「……進むべきだわ」
セリナが静かに頷く。その目には確固たる決意が宿っていた。
「恐ろしい相手だとしても、計画を止められるのは今しかない。今なら、私たちがまだ動けるうちに……」
ミリアは弓を握る手を震わせながらも、小さく息を吐いた。
「怖い……でも、みんなと一緒なら……」
カイルは肩を竦めて深く息を吐く。
「結局こうなると思ってたさ。お前らの目、もう覚悟してる目だ。……ただし、無策で突っ込むのは御免だぞ。蓮弥、お前の“計算”にまた頼らせてもらう」
蓮弥は小さく笑い、力強く頷いた。
「任せてくれ。俺たちは、ただの無謀な冒険者じゃない。戦う理由も、信じ合える力もある」
その言葉にルナが「きゅぅ」と鳴き、白い尾を高く掲げた。光を帯びた毛並みが一瞬だけ輝き、まるで一行の決意に応えるかのようだった。
彼らの目には疲労が色濃く刻まれていたが、その奥には不屈の光が宿っていた。
布に描かれた道のりは険しい。霧の谷は視界を奪い、魔物の巣食う山道は死地となるだろう。それでも、誰一人として退く者はいなかった。
蓮弥は風にたなびく布を握り締め、山の奥へと視線を向ける。
――そこに待つのは、伝承の化け物か、それとも世界の均衡を揺るがす脅威か。
一行は互いの顔を見交わし、無言のうちに頷き合った。足音が再び山道に響き始める。
冷たい風が吹き抜け、霧が流れ、聖山の影が彼らを飲み込んでいった。
【第120話】闇に囁く誘惑
戦いで受けた傷は深かった。
セリナの治癒魔法と薬草の処置により命の危険こそ避けられたが、仲間たちの体力と精神力は限界に近かった。洞窟を抜けて見上げた聖山の空は曇天に覆われ、風は骨まで冷えるように冷たかった。蓮弥たちは無理をせず、聖山の外縁にある岩壁の裂け目を拠点とし、二日間の休息を取ることに決めた。
夜、焚き火の炎が小さく揺れ、湿った空気を乾かしていく。焚き木をくべるたびにぱちりと音が響き、闇の奥に潜む魔物の気配をかき消すようだった。
簡素な干し肉と乾パンを口にしながら、セリナはジョルンの腕に巻かれた包帯を確かめていた。
「……これでだいぶマシになったはず。骨は折れていなかったわ。良かった」
安堵の声を漏らしつつも、彼女の表情には張り詰めた影が差している。
「だが油断はできん。山の奥には、もっと強い魔物が潜んでいるだろう」
ジョルンの低い声が夜気を震わせた。焚き火を囲む全員の顔に、言葉にできない緊張が走る。
蓮弥は無言で火を見つめながら、頭の中で計算を組み立てていた。
――二日で負傷者の回復率はおよそ七割。行軍の速度を落とせば奥地までは三日以内に到達可能。備蓄は五日分、薬草は三日分……。
彼の思考は冷徹な数字の羅列でありながら、その緻密さが仲間たちの不安を押しとどめていた。
ルナは焚き火のそばに丸まり、耳をぴくりと動かしながら周囲の気配を探っていた。
二日後、霧雨に包まれた朝、彼らは再び出発した。山肌は岩と苔に覆われ、足を踏み外せば一瞬で谷底に吸い込まれそうな険しい道だ。霧が視界を奪い、遠くの木々や岩壁はぼんやりとした影にしか見えない。
「この辺りから先が……地図に描かれていた“霧の谷”か」
カイルが剣の柄を握りしめ、警戒の眼差しを巡らせる。
その時、ルナの耳がぴんと立ち、低く唸り声を上げた。
「待て、何かいる」
カイルが前に出て剣を構える。霧の中からゆらりと影が現れた。
現れたのは、痩せ細った男だった。ぼろ布のような黒い外套をまとい、頬はこけ、血走った目が異様な光を宿している。その足取りはふらついていたが、手にした短剣は鋭く光っていた。
「お前たちも……“力”を求めに来たのか……」
掠れた声が霧の中に響く。その声には理性の欠片もなく、何かに取り憑かれた狂気が漂っていた。
ルナが甲高い警告の鳴き声を上げた瞬間、カイルとジョルンが素早く動き、男を押し倒して取り押さえる。男はほとんど抵抗らしい抵抗を見せず、荒い息を吐くだけだった。
「何者だ。何を知っている?」
蓮弥の声は低く冷たい。
男は肩で笑い、歯の隙間から濁った声を漏らす。
「……聖山の奥に眠る“魔物”……それを目覚めさせた者には……絶大な力が授けられる……。それを知った冒険者や修行者が……次々に山に入っていった……」
「魔物の力を……求めて?」
ミリアの声が震える。彼女の指先は弓を握るも力が入らない。
「方法はひとつじゃない……血、儀式、供物……命を賭けた代償の果てに……人を超える力が手に入る……」
男の目は焦点が合わず、まるで別の何かに語りかけているようだった。その瞳に宿る狂気が一行の背筋を冷たく撫でる。
セリナは男を見据え、声を低くした。
「あなたも……その力を求めてここまで来たのね」
男は何も答えず、嗤った。喉から絞り出される笑い声は、風の音と混じり、耳に不快な残響を残す。
蓮弥は黙したまま男を見下ろし、思考を巡らせる。
――老人たちの計画が潰えても、別の手段で復活を試みる者がいる。儀式は一つではない……つまり、時間との勝負ということか。
やがてジョルンが低く唸り、男の肩を掴んだ。
「こんな狂人を連れて行ける余裕はない。だが、このまま放置するわけにもいかん」
相談の末、一行は男の武器や荷物を没収し、山を下りる道の入口に縄で縛り付けて放つことにした。命までは奪わず、しかしこれ以上の危険を冒す理由もなかった。
最後に蓮弥は男を一瞥し、冷たく言い放った。
「……この山に何が眠ろうと、俺たちが止める。お前のように“力”に飲まれるつもりはない」
男は虚ろな目で何かを呟き、霧の中へと消えるように視界から遠ざかっていった。
蓮弥は仲間の方へ振り返る。
「確信したな。俺たち以外にも動いている者がいる。そして皆、魔物の力に取り憑かれている。儀式は必ず行われる……時間がない」
セリナが強い瞳で頷く。
「だからこそ、私たちが阻止しなきゃならない」
五人と一匹は互いの視線を交わし、決意を新たにした。霧はますます濃く、道はまるで意思を持つかのように彼らの進行を阻む。
しかし誰一人として足を止めることはなかった。
その先に待つものが、力の誘惑か、破滅か――まだ誰にも分からない。




