紅蓮仙途 【第9話】【第10話】
【第9話】暴走
源十の最後の絶叫が、湿地の奥まで響いた。
宗次はその声の意味をすぐに悟る。眉間に皺を寄せ、背後に立つ二人に視線を送った。
「沙江、巳蔵――行くぞ」
女剣士・沙江は唇の端を上げ、痩せた弓使い・巳蔵は無言で頷く。三人は音もなくぬかるみを踏み、弥太郎の逃げた方向へと進む。
血の匂いが沼の湿気に混じり漂っていた。赤い雫が泥に点々と残り、まるで導き手のように奥へ奥へと続いている。宗次は冷たい声で命じた。
「逃がすな。遊びながらで構わん」
弥太郎は息を切らし、振り返った。黒い影が三つ、距離を保ちながらついてくる。殺す気があるのに、なぜ追いつかない――そう思った瞬間、足元がぬかるみに沈み込み、動きが鈍った。
その隙に、前方の茂みから沙江が現れる。剣先が頬を掠め、冷たい血が一筋流れた。彼女はあえて急所を外し、薄く笑う。
「まだ遊べるでしょう?」
弥太郎が反対側へ逃げようとすると、今度は巳蔵の矢が泥のすぐ脇に突き刺さった。わざと外された矢は、脅しとして充分だった。
宗次の声が背後から響く。
「走れ、もっとだ……その方が楽しい」
何度も方向を変えるが、三人は常に先回りして道を塞ぐ。沙江の剣が袖を裂き、巳蔵の矢が膝元をかすめる。傷は浅いが、確実に体力を奪っていく。
弥太郎は沼の湿った空気を必死に吸い込み、心臓が爆ぜそうなほど打ち続ける。
やがて足がもつれ、膝を泥に沈めた。すかさず宗次の影が覆いかぶさる。胸倉を掴まれ、乱暴に引き起こされる。
「どうした、もう終わりか?」
拳が顔面を打ち抜き、視界が白く弾けた。次いで沙江の蹴りが脇腹に入り、肺の空気が抜ける。巳蔵は背後から弓の弦で首を締め、わざと寸前で緩めた。
立ち上がろうとしても、三人の影が交互に叩き伏せてくる。まるで猫が獲物を弄ぶように。
泥水が口に入り、息ができない。
――もう、逃げられない。ここで終わるのか。
その瞬間、胸の奥で何かが裂けた。焼けるような熱が全身を駆け巡る。耳元で低く囁く声が響いた。
〈……起きろ、我が器よ〉
弥太郎の口から白い霧が漏れ出し、金色の光が瞳に宿った。狐の影が背に重なり、三人の気配が一瞬怯む。
そして、泥に沈んでいた獣がついに牙を剥いた――。
【第10話】仙人
泥と血が飛び散る。
沙江の悲鳴は、鋭い爪が胸を貫いた瞬間に途切れた。巳蔵が矢を放つも、それは弥太郎の手に掴まれ、次の瞬間、首筋に深々と突き立てられた。宗次が叫びながら短剣を突き出すが、獣のような咆哮とともに腕ごとへし折られる。
狐の魂が宿った弥太郎は、もはや人の形をした猛獣だった。泥を蹴り、影のように跳び、肉を裂き、骨を砕く。
三人が地に沈む頃には、周囲の湿地は血に染まり、風すら息を潜めていた。
しかし、暴走は止まらない。
倒木が砕け、泥が跳ね、残る生き物すら容赦なく踏み潰される。
その目は金色に輝き、理性は欠片もなかった。
その時――。
霧を裂くように、一筋の白が近づいてきた。
光の中から一人の女が歩み出てくる。雪のように白い衣は、月光を吸ってなお淡く輝き、風に裾が静かに揺れる。髪は夜の闇より深く、艶やかに背まで流れ、額には小さな銀の飾りが淡く光る。
肌は翡翠を薄く透かしたように滑らかで、瞳は深い湖のように澄んでいた。その視線が弥太郎をまっすぐ射抜くと、不思議なほどの冷たさと安らぎが同時に流れ込むようだった。
女は一言も発さない。ただ、袖の中の指先を細かく動かす。
すると、周囲の空気が凍りつくように静まり、微かな鈴の音がどこからともなく響く。その音は耳で聞くのではなく、頭の奥に直接染み込むようで、弥太郎の胸の奥の狂気を締めつけていった。
地面の上に淡い金色の紋が浮かび、狐の尾のような形を描く。その光が弥太郎の足元から絡みつき、じわじわと体を覆っていく。暴れるたびに鎖のような光が強く締まり、怒りと殺意が薄れていった。
やがて、弥太郎の瞳の赤がゆっくりと薄れ、元の黒に戻る。牙は短くなり、血の匂いを求めていた呼吸も静かに整っていった。
弥太郎の中で燃え狂っていた炎が、ゆっくりと水に沈められていくようだった。
呼吸は乱れたままだが、瞳の金色は次第に薄れ、やがて人の色に戻っていく。
女は糸を引き戻し、そのまま弥太郎の前に立った。
白い静寂が沼を覆い、ただ湿った風の音だけが残った――。