紅蓮仙途 【第97話】【第98話】 符光りて 狐の身守る 夜の影
【第97話】伝音符の呼び声
森での討伐を終えた蓮弥――冒険者「レオン」として登録した彼は、巨大猪の血に濡れた牙を麻袋に詰め、ギルドの重厚な扉を押し開けた。
木の床を踏みしめて受付まで歩くと、香油の匂いの漂うカウンターの向こうで、金髪の受付嬢が目を見張る。
「……これを、もう? たった今、依頼を受けたばかりですよね?」
「ええ。問題ありません。」
蓮弥は淡い笑みを浮かべ、麻袋を軽く放る。袋の中で硬質な牙がごろりと音を立てた。
「怪我もないなんて……吟唱付きの上級魔術でも使われたんですか?」
彼女の問いに、蓮弥はただ杖を軽く掲げて答える。
「まあ、訓練した成果ですよ。」
事実を語る必要はない。ただ「吟唱を添えて戦った魔術師」と信じ込ませれば十分だ。
報酬の入った小袋が手渡された瞬間――胸元に忍ばせていた伝音符が、まるで心臓の鼓動のように淡く脈打った。
――異常だ。
蓮弥の表情が一変した。符はただ震えるだけではない。
内側から軋むような気配を放ち、今にも裂けて霧散しそうなほど激しく波打っている。
「ルナ……!」
呟くや否や、蓮弥は踵を返して駆け出した。
ざわつく酒場のようなギルドの喧騒が遠ざかり、石畳を蹴る音だけが夜の街路に響く。
符が指し示す方向は裏路地の方角――湿った空気と煤けた煉瓦壁が迫る、陽の差さぬ古い商区。
そのころ、古本屋の奥の奥。
蝋燭の光が細く揺れ、棚に積まれた巻物と羊皮紙がかび臭い空気を漂わせていた。
ルナは壁際に押し付けられていた。人の姿のままだが、背筋が凍りつくほどの恐怖が全身を覆っている。
「狐の娘……」
老人の声は、乾いた枯葉が擦れ合う音のように掠れていた。
痩せ細った指先が彼女の肩に触れる。そこからじわりと黒い瘴気が染み込み、力が奪われていく。
「力を差し出せば、竜の知を授けよう。だが拒めば……ここで骨になるぞ。」
「……っ」
ルナは震える手で伝音符を握り締めた。
瘴気が皮膚を侵し、頭の中で鐘が鳴るように意識が霞む。
逃げなければ、でも――蓮弥を巻き込むわけにはいかない。
老人は嗤った。
「どうした? 選べ。知識か、命か……いや、どちらも手放すのも面白い。」
彼の言葉と同時に、背後の影が蠢いた。
人影のような、獣のような、形容し難い闇の塊がにじり寄ってくる。
ルナは視界が滲む中で、ぎゅっと目を閉じ、符を解き放った。
――チィィィン!
耳をつんざく鋭い音とともに、符が破裂するように輝きを放つ。
その光が薄暗い書庫を裂き、棚の影が蜘蛛の足のように長く伸びた。
次の瞬間、ルナの身体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、白目を剥いたまま意識を失った。
「ほう……呼んだか。」
老人は薄い唇を歪め、肩を震わせて笑った。
「ならばその男も共に血の供物としてやろう。」
蓮弥がたどり着いたのは、看板も崩れ落ちた古本屋。
硝子の割れた窓からは、禍々しい瘴気が漏れ出している。
彼は呼吸を整えず、そのまま扉を蹴り破った。
轟音が闇を裂き、火花のような気の奔流が部屋の空気を震わせる。
「――ルナから離れろ。」
彼の声は低く、抑えた怒気が滲んでいた。
夜の街での「冒険者レオン」の穏やかな仮面は剥がれ、そこに立つのは修仙の道で幾度も死地を潜った仙術師・蓮弥その人。
老人は驚いた様子も見せず、くっくっと笑う。
「番犬か。面白い。ならばまずは……噛み砕いてやろう。」
痩せた手が空を掴むように印を結ぶ。
床の影がぶくりと盛り上がり、そこから黒い獣影が姿を現した。
四肢の輪郭は曖昧で、形を定めぬまま闇の牙と爪だけが光を帯びている。
「瘴獣……!」
蓮弥は杖を強く握り、全身に気を巡らせた。
「――風よ、吹き払え!」
その言葉とともに、杖先から奔流のような風圧が放たれる。
嵐が部屋を薙ぎ払い、瘴獣の黒い影を一瞬で引き裂いた。
だが獣の残骸は煙となり、すぐに形を取り戻そうと蠢いている。
老人は薄笑いを崩さない。
「ほう……ただの小僧ではないようだな。」
「黙れ。」
蓮弥は視線をルナに向けた。
棚の陰で倒れている。呼吸は浅いがまだ生きている――それだけで胸を締めつける焦りがわいた。
「……お前だけは、ここで逃がさない。」
瞳の奥に燃える怒りが、周囲の空気を震わせた。
蓮弥の周囲で目に見えぬ圧が膨らみ、瘴気を押し返していく。
老人はその圧力を感じ取り、にたりと笑った。
「久々に骨のある獲物だ。面白い……!」
古本屋の薄闇の中、修仙者と瘴気を纏う老人の戦いの幕が、静かに上がった――。
【第98話】転移陣の洞窟
老人の枯れ枝のような指が虚空をなぞった瞬間、古本屋の床板がうなりを上げるように震えた。
板の隙間から赤黒い光が滲み出し、まるで生き物のように這い回る。細い線は絡まり合い、古代文字に似た文様を浮かべていった。
それはやがて円形の魔陣を描き、じわじわと瘴気を放ち始める。
――転移陣。
蓮弥の瞳が細められた時には、すでに老人はルナの体を抱き上げ、その中心に立っていた。
赤黒い光が強く脈動し、古びた木の床から黒煙が立ち上る。
「待て――!」
疾風のような気の流れとともに蓮弥が踏み込む。
しかし一歩遅い。
老人は不気味な笑みを浮かべたまま、光に呑まれて霧散した。
残されたのは、魔陣の焦げ跡と、漂う霊力の残滓だけ。
「……逃がすものか。」
蓮弥は即座に符を一枚取り出し、陣に残る瘴気を封じ込めるように貼り付けた。
次いで、その符を指先で裂き、自らの気を流し込む。
陣の痕跡が脈打ち、視界が歪む。
重力が一瞬で失われ、世界が裏返ったかのような浮遊感が襲った。
目を開けると、そこはもう本屋ではなかった。
頭上には天井知らずの闇が広がり、無数の鍾乳石が凶器のように突き出している。
冷たい滴が石柱を伝い、洞窟全体に水音がこだました。
空気は湿り、瘴気が漂うたび、舌の上に鉄の味が広がる。
足元には水たまりが散在し、粗い岩肌は苔に覆われ、僅かな光を反射して鈍く光っていた。
洞窟全体がまるで生きているかのように脈打ち、奥底から低い唸り声のような風が吹き抜けている。
中央には、転移陣の残光を纏った老人が立っていた。
その足元には、意識を失ったルナの小さな身体が横たわっている。
先ほどの古物商の面影は消え失せ、瘦せ細った体躯は異様に膨れ上がり、背筋が曲がっていたはずの姿も今はまっすぐに伸びている。
白髪は瘴気で黒く染まり、眼は妖しく爛々と輝いていた。
「……やはり、ただの商人ではなかったか。」
蓮弥の声は冷ややかに響き、洞窟の天井に反響した。
老人は低く笑う。
「この地で幾百年も影に潜んでいた。愚かな魔術師どもを欺くなど造作もない。
だが……同じ道を歩む者には誤魔化せぬか。」
その言葉に、蓮弥の胸がざわめく。
――修仙者。
ここは異国、いや、異世界ですらある。
それでも、修仙の道を追い求めた者が存在する。
しかも、その修行が闇に堕ちた姿で。
だが、それは蓮弥にとって情けをかける理由にはならなかった。
ルナを囚え、邪悪な力を隠して民を欺いた時点で、彼は敵だ。
「ならば、こちらも隠す理由はない。」
蓮弥は静かに杖を手放す。杖が岩肌に落ちる乾いた音が、洞窟の静寂を破った。
その瞬間、押さえ込んでいた気が全身から噴き出す。
青白い光が身体を包み、瞳の奥の黒が研ぎ澄まされた刃のように輝きを取り戻す。
染めていた栗色の髪も元の黒へと戻り、彼の姿はもう「魔術師」ではなく、「修仙者」のそれだった。
洞窟の空気が一気に張り詰め、岩壁から砂粒がぱらぱらと落ちる。
「ほう……」
老人は目を細め、乾いた声で感嘆の吐息を漏らす。
「若いが、その気……並の修士ではないな。久しぶりに骨のある者と出会えた。」
老人の身体から黒雲のような瘴気が渦を巻き、天井近くまで広がる。
洞窟の中の温度が一気に下がり、冷気が肺を刺す。
圧迫感が肌を這い、呼吸すら重くなる。
普通の魔術師であれば、一目見ただけで恐怖に膝を折るだろう。
しかし蓮弥は退かなかった。
彼の掌には朱色の炎が宿り、指先には雷光が走る。
その力は洞窟全体を照らし出し、瘴気を押し返すかのように波打った。
「――ルナを返せ。」
蓮弥の声は、洞窟全体を震わせるほどの威圧を帯びていた。
「そのうえで何を企むかを話せ。」
老人は唇を吊り上げ、嗤った。
「弱き者に語る言葉などない。強者にはすべてを見せてやろう。」
次の瞬間、洞窟全体が唸りを上げた。
老人の足元から瘴気が爆発的に膨れ上がり、まるで闇が実体を持ったかのように広がる。
鍾乳石が砕け、岩壁がひび割れた。
蓮弥もまた気を巡らせ、炎と雷を纏う。
その圧力が空間を押し合い、視界が歪むほどの衝撃が洞窟を包み込んだ。
修仙者同士の戦い――その幕が、ついに上がろうとしていた。




