紅蓮仙途 【第95話】【第96話】 道は別れ 符が二人を繋ぐ 黄昏の街
【第95話】それぞれの歩み
分厚い扉を押し開けた瞬間、ざらついた熱気が蓮弥の頬を打った。
冒険者ギルドの内部は、昼間でありながら灯された無数のランプが壁を照らし、酒場のようなざわめきと、革の軋む音、鉄のぶつかり合う甲高い響きが入り混じる異質な空間だった。
獣皮のマントを纏った者、槍を背負った傭兵、魔導書を片手にした魔法使い――冒険者と呼ばれる者たちの姿が、広間を埋め尽くしている。彼らは豪快な笑い声を上げ、仲間の肩を叩き、掲示板に群がっては依頼書を争い奪い合っていた。
「……想像以上だな」
修仙界の宗門や世俗の酒場とも異なる、剥き出しの欲望と生存競争の匂い。
その空気を一息で吸い込み、蓮弥は人混みを避けながら、奥のカウンターへと歩み寄った。
「登録かしら?」
顔を上げた受付嬢の声は明るく事務的だ。栗色の髪をきっちり束ね、鋭い観察眼を隠そうともしない。
「そうだ」
蓮弥は短く答え、記帳台に名前を書く。
筆先で綴られた名は――レオン。
この異国で過ごすために選んだ偽名。修仙者としての本名は封じ、己を異世界の一旅人として塗り替える。
「レオンさんね。出身地と得意分野を簡単に教えてもらえる?」
「北の辺境から来た旅人だ。護身の術と薬草の知識が少しばかりある」
素っ気なく、だが不自然にならぬよう抑揚を調整する。質問を投げかけられるたび、蓮弥は思考を巡らせ、余計な情報を漏らさないよう言葉を選んだ。
やがて受付嬢は満足げに頷き、一枚の木札を手渡す。
「今日からあなたは冒険者ギルド所属。階級は銅級。依頼は自由に選べるわ。無理はしないこと、それだけ守ってくれれば大丈夫」
木札の表には古い紋章と銅色の印。裏には彼の新しい名「レオン」と数字が刻まれている。
「……これで、始まったか」
蓮弥は木札を指先で転がしながら、胸の奥で淡い緊張を感じていた。
修仙界で数々の死地を潜り抜けた己が、今はこの世界の「冒険者」として力を試される。金を稼ぐための道とはいえ、その先に待つものは未知数だった。
そのころ、狐のルナは人の姿で街の雑踏を歩いていた。
白い衣に身を包み、長い黒髪を後ろで束ねた彼女の姿は、街人と見分けがつかぬほど自然になっていたが、その金色の瞳には未だ狐の鋭さが宿っている。
「ドラゴンに関する書物を探しているのですが……」
小さな古本屋の店主は首を横に振り、埃の積もった棚を指した。
「竜の話なんてどれもおとぎ話だよ。実際の記録なんて残ってるはずがないさ」
次の店でも同じことを言われた。
「竜? ははっ、そんな夢物語を買う客はうちにはいないね。もっと現実的な本を探しな」
冷ややかな言葉が、ルナの耳に突き刺さる。それでも彼女は歩みを止めなかった。
胸元の懐には、蓮弥から託された一枚の伝音符がある。淡く光る符が、彼女の勇気を支えていた。
――もし危険を感じたら、すぐに放てばいい。彼が駆けつけてくれる。
夕陽が石畳を赤く染めるころ、ルナは人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れた。
そこには一軒の古びた建物があった。煤けた木製の看板にはかろうじて「古書店」の文字。
漂う空気はどの店とも違う。重く、湿り気を帯びた、長年人の手が触れていないような気配。
「……ここか」
小さく息を呑み、扉を押すと、鈴の音が沈んだ空気に響いた。
「いらっしゃい……」
闇の奥から現れた老人の声は、枯れ木が軋むように乾いていた。
棚の上には羊皮紙の巻物や、表紙の剥がれた本が乱雑に積まれている。
店の隅には黒い布に覆われた箱や、見慣れぬ魔法陣が刻まれた板があり、まるで小さな秘術工房のようだ。
「すみません……竜に関する本を探しているのですが」
ルナの声が震える。老人は顔を上げ、その小さな瞳でじっと彼女を見つめた。
――その視線は先ほどのどの店主のものとも違う。ねっとりとした、魂の奥を覗くような眼差し。
狐の本能が危険を告げる。それでもルナは退かず、微笑みを保った。
「竜……か」
老人の口元が、微かに歪む。
「珍しい客だな。そんなものを探す者は滅多に来ぬ。……ついてこい」
彼が指を鳴らすと、棚の一部が音もなく横にずれ、奥へと続く狭い通路が現れた。
ルナの心臓が跳ねた。目の前に広がるのは、まさしく「何か」が眠る場所。
彼女は懐の伝音符にそっと指をかけた――まだ放つべき時ではない、しかし準備だけは。
その瞬間、ギルドの広間で蓮弥の懐が微かに温もりを帯びた。
「……ルナ?」
符が小さく脈打つように光ったが、すぐにその気配は消える。
周囲は変わらぬ喧騒に満ちている。剣を磨く音、酒をあおる声、依頼を取り合う叫び声。
蓮弥は札を握りしめ、眉をひそめた。
――何かが起きている。しかし今の段階では、符を通じて危険の確証は掴めない。
彼は深呼吸を一つし、ギルド内の掲示板に視線を移した。
「今はまず、俺の役目を果たす時だ」
ルナは街の陰で真実を探り、蓮弥は冒険者としての第一歩を踏み出す。
二人の道は別れても、互いを繋ぐ一枚の符が、確かに鼓動を刻んでいた。
【第96話】最初の試練と古伝の囁き
冒険者ギルドの掲示板は、壁一面にびっしりと依頼書が貼られた情報の海だった。羊皮紙の端は指でめくられ、文字は何度も書き換えられ、まるでこの街の人々の欲望と恐怖の履歴そのものが刻まれているかのようだった。
蓮弥――いや、この地では「レオン」と名乗る青年は、その前に立ち、淡い光を放つ魔力の気配を押し殺しながら視線を走らせていた。
「怪物討伐」「護衛」「採取」「探索」……掲げられた文字列はどれも現実の危険を孕んだものばかりだ。
やがて、彼の指が一枚の紙で止まる。
「……これだな」
それは郊外の森で暴れ回る巨大猪の討伐依頼。銅級冒険者向けに回される類の仕事だが、詳細には「厚い毛皮と鋼の牙を持ち、複数の冒険者が負傷」と書かれていた。
――この世界の力量基準を測るには、これ以上ない。
蓮弥は紙を剥がし、受付に提出した。
「初仕事にしては勇気があるわね」
受付嬢は驚いたように目を細めたが、それ以上は何も言わず、討伐許可証を手渡してくる。
「怪我には気をつけて。森は夜が早いわ」
日が西に傾くころ、蓮弥は城門を抜け、森を目指して石畳を歩いていた。
夕陽を浴びて赤く染まる街道は、人影もまばらだ。だが一歩森へ踏み入れると、昼の喧騒は一瞬で消え、木々のざわめきと虫の羽音だけが耳に残った。
「気を隠し、杖を振り、吟唱を添える……」
蓮弥は小さく呟き、精神を集中させる。修仙者としての術は、ここでは「魔術」と偽る必要がある。だが、基礎は同じ。呼吸を整え、気の流れを操れば、魔術師を装うことなど造作もない。
森の奥に進むにつれ、空気は生臭く重くなった。枯葉を踏むたびに、血の臭いが鼻を突く。やがて、低く地を震わせるような唸り声が森の静寂を切り裂いた。
茂みを割って姿を現したのは、岩のように分厚い毛皮に覆われた猪――いや、もはや獣を超えた怪物だった。
鋭い牙は鉄をも断ちそうな光を放ち、瞳には狂気の赤が宿る。
突進。地響き。瞬きする間もなく迫る巨体。
蓮弥は表情一つ変えず、杖を掲げた。
「――炎よ、形を成せ」
囁くような声とともに、足元の符が淡く輝いた瞬間、猪の進路に炎の壁が立ち上がった。
獣の咆哮と共に火柱が揺らぎ、熱風が木々を焦がす。
「グオォォッ!」
目を焼かれた猪は暴れ狂い、しかし動きは鈍った。その隙を逃さず、蓮弥の瞳が冷たく細められる。
――水刃。
指先の印に従い、空気中の水気が集まり、刃となって閃く。
炎の残滓を裂き、蒼い一閃が巨獣の首筋を断った。
鈍い音と共に巨体が地面を揺らし、血の匂いが一気に広がる。
「……終わりだ」
炎に照らされた猪の死骸を見下ろしながら、蓮弥は杖を握り締めた。
誰もこの瞬間を見ていない。ただギルドに戻れば、「新人魔術師レオンの鮮やかな討伐」と評されるだろう。
彼の正体が修仙者であることを知る者は、誰もいない。
一方そのころ、ルナは裏路地の古びた本屋の奥で、不気味な気配を放つ老人と向かい合っていた。
「竜の知を求めるか……娘よ、それは命を削る道だぞ」
枯れ木のような声が薄暗い部屋に響く。蝋燭の炎は細く揺れ、影は歪に伸びる。
ルナは金色の瞳を逸らさず、毅然と答えた。
「知ることが必要です」
老人はにたりと笑い、埃まみれの巻物を机に置いた。
「〈竜契の古伝〉。人が竜を従える唯一の術だ。だが代償は重い」
巻物の縁は黒く焦げ、どこか生臭い匂いが漂っている。呪詛が染み付いたかのような、ぞっとする気配だ。
「竜を御するには血が要る。時に己の命、あるいはもっと大切な者の命すらも……」
ルナの指が微かに震えた。老人はその様子を見て、愉快そうに目を細める。
「知識が欲しければ貸してやろう。ただし対価を払え。銀貨百枚……いや、娘よ、お前の“狐の力”を少しばかりいただこうか」
その言葉に、ルナの心臓が跳ねる。
――この老人、どうして自分の正体を知っている?
ぞくり、と背筋を寒気が走った。
無意識に懐の伝音符へ指が伸びる。
蓮弥を呼ぶべきか。しかし今、符を放てば彼を危険な場所へ呼び込むことになる。
唇を噛むルナの前で、老人の目がぎらりと光った。
「どうする? 竜の知を取るか、安全を取るか」
その囁きは、まるで魂を試す悪魔の声のようだった。
森の中、蓮弥は血に濡れた杖を下ろし、死骸を確認していた。
その胸元で、伝音符がかすかに熱を帯びる。
「……ルナ?」
符の光は瞬き、すぐに消える。
森の静寂の中、風の音すら遠のくような感覚に、蓮弥は眉をひそめた。
――彼女の身に、何かが起きている。
だが今はまだ、符は警告を発するほどの危機を示していない。
蓮弥は短く息を吐き、猪の牙を折り、証拠品として腰袋に収めた。
「急いだ方がいいな」
静かな決意を胸に刻み、彼は森を後にした。
その背後では、沈む夕陽の中で猪の死骸が影を伸ばし、まるでこの地に潜む何かの前触れのように冷たく横たわっていた――。




