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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第89話】【第90話】 雪山越え 魂映す光 夜風に立つ

【第89話】雪山を降りて


 五十年の時が過ぎた。


 結界に閉ざされた雪山の庵には四季の移ろいもなく、ただ白き雪が降り積もり、吹雪が岩肌を削る音が響くばかりであった。しかし、その静謐の時の中で蓮弥は己を磨き、魂を鍛え、肉体を極めた。


 今や彼の霊脈は山脈のように太く、全身を流れる霊力は濁り一つなく澄み渡り、骨と筋肉は「金鋼経」第三層によって鋼鉄のような強靭さを得ていた。魂は「幽獄魔篇」の試練を幾度も越え、心は「清心法華経」によって研ぎ澄まされ、天地の理を映す鏡のようになっている。


 そして、その結界も役目を終えた。

 蓮弥は静かに印を結び、山を覆っていた結界をゆるやかに解き放った。五十年、外界と隔てられていた霊の気配が、一気に押し寄せる。風は鋭く、雪は眩しく、しかしその刺激すら心地よい。


 白衣を翻し、彼は山を降り始めた。

 足取りは静かでありながら、ひとつひとつの歩みに大地が応えるようだった。彼の背には五十年の修行の重みが宿り、その瞳はもはや凡俗の枠に収まらぬ光を放っている。


 「まずは、情報を得ねばならぬ」

 蓮弥は独り言のように呟いた。


 ここは故郷の山河ではない。大地の気脈は歪み、空気の中には未知の力の匂いが漂う。世界そのものが異質なのだ。帰還の道を探すためには、この地の理を知らねばならない。そして、最初に遭遇したあの魔法使いの庭こそが手掛かりとなるはずだった。


 ――思い出す。

 空間の裂け目から落ちて間もなく、無言のまま降り注いだ炎と氷の魔法。あの時の自分は疲弊し、無力だった。ただ耐え、退くしかなかった。しかし今は違う。


 雪山を抜け、谷を越え、石畳の街路へと踏み入る。五十年ぶりの文明の香り。

 尖塔をもつ教会や赤煉瓦の邸宅、空を駆ける飛竜の影。西方の建築様式と霊脈が交錯するこの異国の景色も、今の彼には脅威とはならなかった。

 そして――かつての庭園へとたどり着く。


 庭は変わらぬ賑わいを見せていた。鮮やかなドレスを纏った貴婦人、葡萄酒を傾ける紳士たち。楽師が奏でるリュートの音が風に溶ける。しかし、その奥に潜む魔力の気配は、かつて戦った時と同じ。鋭く、揺るぎなく、そして挑発的であった。


 「戻ってきたか、異邦の者よ。」

 低い声が庭のざわめきを切り裂いた。

 深紅の外套を纏った魔法使いがゆっくりと立ち上がる。杖の先に集う魔力は赤黒く輝き、炎と氷の二重の渦が唸りを上げる。その構えは五十年前と変わらない――いや、より洗練され、殺意を帯びていた。


 「今度こそ、終わらせる。」

 魔法使いは低く呟き、杖を振り下ろした。


 轟音と共に、炎槍と氷刃が空を裂き、庭園の石畳を抉る。観客たちの悲鳴が響く中、蓮弥は一歩踏み出した。


 「終わらせるのはこちらだ。」


 その声と同時に、彼の姿は掻き消えた。

 金鋼経で鍛えられた肉体は疾風のごとき速さを持ち、彼が踏み込むたびに空気が爆ぜる。掌には符が刻まれ、指先が動くたびに符光が瞬き、魔法の流れを縫い止めた。


 炎槍が迫る――が、蓮弥は右掌で受け止めるように弾き、霊力で軌道を逸らした。爆炎が背後で炸裂するより早く、彼の身体は魔法使いの背後へと回り込む。


 一閃。

 掌底が結界を叩きつけ、衝撃波が空間を揺らす。


 二閃。

 符の光が絡みつき、氷刃の魔法を封じ込める。


 三閃。

 拳が魔法使いの胸前の護りを粉砕し、その体を後方へ吹き飛ばした。


 「な……!?」

 魔法使いの瞳に初めて驚愕の色が浮かぶ。


 五十年前、かろうじて退却した相手。だが今や状況は逆転していた。蓮弥の攻撃は止まらず、魔法使いが次の詠唱を始める暇すら与えない。


 杖は手から弾かれ、外套は裂け、石畳の上を転がった。庭園に響いていた音楽は止み、歓声は悲鳴へと変わる。


 蓮弥はゆっくりと歩み寄り、荒い息一つなく魔法使いを見下ろした。

 「今回は逃げるためではない。お前の知ることを聞かせてもらう。」


 魔法使いは呻きながらも、まだ敵意を宿した瞳で蓮弥を睨みつけていた。しかし、その視線にはもはや圧倒的な力を前にした恐れが混じっている。


 五十年という歳月。

 結界に閉じこもり、世界から隔絶され、ひたすら己を磨いた時は無駄ではなかった。

 今、蓮弥はこの異世界で初めて、自らの力を示したのだ。




【第90話】捜魂


 戦いは終わっていた。


 庭を吹き抜ける風が、血の匂いを運ぶ。踏み荒らされた草木の葉が夜気に揺れ、月明かりを浴びて鈍く光っていた。崩れ落ちた石壁の向こうでは、倒れた魔法使いの呻き声がかすかに響き、恐怖と疲労に支配されて動けずにいる。


 その静寂の中心に、黒衣の少年――蓮弥が立っていた。


 彼の足元には、深紅法衣をまとった魔法使いが横たわっている。胸の起伏は浅く、呼吸は今にも止まりそうなほど弱々しい。それでもなお、指先にはわずかな魔力の残滓が漂い、戦士としての誇りを示すかのようだった。


 周囲の人々は誰一人として近づこうとしない。彼らにとって、黒髪黒眼の異邦人は、勝者であろうと恐るべき存在でしかなかった。


 ――ここは「アルディア」。


 遥か西方、魔法文明の発祥といわれる大陸の中央に位置している土地。

 金色の髪と碧眼を持つ人々が支配者として君臨し、千年を超えて魔術と知識を積み重ねてきた。

 一方で黒髪黒眼の民は「東方の異教徒」と呼ばれ、蔑まれ、迫害されてきたという。


 蓮弥は、その世界で異質の存在として立っている。

 ――いや、ただ異質であるだけでなく、罪深い存在として。


 彼は、記憶の片隅に残る古の伝承を思い出す。東の果てより流れ来た影の民、禁忌を背負いし異端者。ここではそれが現実の視線となって彼に降り注いでいた。


 しかし今、恐れて退く民衆よりも、彼の目はただ一人、倒れ伏す魔法使いに注がれている。

 この地の言葉はまだ耳慣れず、意思疎通は困難だ。言葉の壁は剣よりも鋭い。ならば――


 蓮弥は膝をつき、ゆっくりと指先を組んだ。

 「……捜魂術。」

 その声は夜気に溶け、周囲の者たちには理解できぬ響きとして耳に届いた。


 彼の指先から淡い光がほとばしる。光はやがて影と化し、墨のような糸となって魔法使いの胸元へと流れ込む。術式の陣は目に見えずとも確かにそこにあり、天地の気を媒介に魂魄へと触れる。


 ――瞬間、蓮弥の意識は激しい奔流に呑まれた。


 「……っ!」

 心を叩きつけるような記憶の断片が、次々と脳裏を駆け抜ける。


 石畳の街路。塔の影に沈む広場。聳え立つ尖塔の城塞。

 黄金の髪を靡かせ、青い瞳を誇り高く輝かせる貴族たちの笑顔。


 そして――その影で追われ、罵声を浴び、斬り伏せられる黒髪の者たち。泣き叫ぶ子供、炎に包まれる家。


 魂の奥底に刻まれた記憶は、鮮烈でありながらも無秩序だ。蓮弥はそれらを必死に掬い上げ、ひとつひとつ意味を繋ぎ合わせる。

 目を閉じ、丹田の気を静かに巡らせる。


 ――精神が散乱すれば魂魄を巻き込まれる。

 それは修仙者として幾度も積み重ねてきた修練があるからこそ耐えられる技であった。


 やがて奔流の奥で、ひとつの真実が形を結ぶ。

 この世界で彼のような黒髪黒眼の者は、「罪」とされている。

 生まれ持った容姿そのものが、忌むべき異端の証。

 彼は、知らず知らずのうちに敵意の只中に足を踏み入れていたのだ。


 胸の奥に苦い思いが広がる。

 だが同時に、流れ込む言葉の響きが、彼の舌に馴染んでいくのを感じた。

 「……なるほど。」

 その一言は、この地の言葉で自然に紡がれた。


 やがて蓮弥はゆっくりと指を解き、術を収めた。

 魔法使いの体が微かに痙攣し、恐怖に震えながら意識を失う。魂を覗かれるという行為は、肉体の痛みよりも深く心を抉る。


 蓮弥は黙してその姿を見下ろした。

 ――ここは異郷だ。

 今や言葉を得たとはいえ、この土地の理も掟も、彼にはまだ未知でしかない。


 夜風が頬を撫で、遠くで鐘の音が響く。

 このアルディアにおいて、彼はただの旅人ではない。狩られる存在、追われる者、そして……修仙者。


 だがそれでも構わない。

 蓮弥は、静かに立ち上がった。

 その背に夜の闇を纏い、瞳には新たな決意が宿っていた。


 ――この異世界で、己の道を切り開くためならば。

 たとえ魂の奥底に手を伸ばす禁忌を犯そうとも、彼は歩みを止めぬだろう。



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