紅蓮仙途 【第87話】【第88話】 焚火照らす 魔と仏交わり 雪眠る
【第87話】魔典と佛経
吹雪は絶えることなく山々を覆い、月すらも霞むほどの暗黒の空を背景に、雪山の庵は静かに眠っていた。結界の外では荒れ狂う風が岩壁を削り、凍てついた枝を叩き折る音が響いている。
しかしその内側は、別世界のような静謐に包まれていた。焚火の赤い揺らめきと、霊石の仄かな青光が洞窟の中を照らし、冷えた空気をわずかに和らげている。
蓮弥は膝を正し、前に置かれた小さな袋を静かに開いた。その中には、彼の修仙の歩みと血戦の記憶を象徴する三冊の古書が眠っていた。
一つは――魔仏山の地下奥深くから奪い出した、漆黒の革表紙に赤い血文字が浮かぶ禁書。
『幽獄魔篇』。
装丁からして既に尋常ならぬ妖気を纏い、開けば頁の一枚ごとに瘴気が薄霧のように漂い出す。記された文字はただ読むだけで魂を焼き付け、心を掻き乱し、読む者を狂気へと誘う。だが同時に、この魔典には魂を削り、己を死地へ追い込みながらも――試練を乗り越えた者に確固たる魂魄の力を授けるという異能が秘されていた。
もう一つは、比叡山で出会った高僧・明覚から託された経典。
『清心法華経』。
そこには功法も秘術も記されていない。記述はただ仏理を説き、心を清め、煩悩を制御するための教えのみ。だが、その平凡さこそが力であり、読む者に静謐な心を与え、魔を祓う光となる。
最後に、袋の底から慎重に取り出したのは、比叡山の秘蔵とされる修体の宝典――
『金鋼経』。
既に第一層を修め、蓮弥の肉体は凡骨を脱していた。しかし第二層の修練は、その比ではない。霊力を骨に浸し、血脈に染み渡らせ、体そのものを鋼鉄のように鍛え上げる――過酷極まる修行である。
「魂、心、そして肉体。この三位を一つにせねば、次は乗り越えられぬだろう」
蓮弥は独りごち、三冊を焚火の前に並べた。氷のような冷気に包まれた洞窟の中で、彼はまず『幽獄魔篇』を開く。
――その瞬間、冷気とは別の悪寒が走った。
頁から滲む赤黒い文字が脳裏を灼き、意識に直接突き刺さるように流れ込む。
「……っ!」
視界が歪む。洞窟の岩壁は血潮に染まり、地面には骸が転がっている。耳を劈く叫喚、かつて倒した敵の怨嗟、村人たちの悲鳴――すべて幻影であると知りつつも、魂が軋む音が聞こえそうだった。指先から霊力が抜け落ち、胸の奥で闇が渦を巻く。
「ここで……折れるものか」
蓮弥は歯を食いしばり、もう一冊の経典を手に取った。『清心法華経』の頁を開き、低く経を唱える。
「……一切は空なり。心は水鏡のごとし……」
淡々とした読経が洞窟に響く。経文の一節ごとに、幻影の色彩が薄れ、耳を塞ぐ怨嗟が遠ざかっていく。心を静め、煩悩を鎮める経の力が、魔典の呪縛を少しずつ浄化していく。
やがて幻影は霧散し、再び焚火の赤い光と雪明かりだけが洞窟を照らす。胸に残ったのは深い疲労と、魂の奥底にわずかながら積み重なった強靭さ。蓮弥は経典を閉じ、呼吸を整えた。
「なるほど……毒と薬の両輪か」
この方法こそが、彼にとって最も効率的な修行だった。『幽獄魔篇』が魂を切り刻むなら、『清心法華経』がそれを癒やす。心と魂を何度も破壊し、修復し、鍛え上げることで、彼の精神は鋼を超えるものへと変貌していく。
そして次は――肉体の修練である。
蓮弥は『金鋼経』を開き、呼吸を整えて瞼を閉じた。
第二層「金鋼護体」の章には、肉体を血肉から骨格へと強化するための詳細な経絡図と霊力循環法が記されていた。その一字一句を暗記し、彼は体内の霊力を骨へと流し込む。
――瞬間、骨が軋む音が内側から響いた。
血が煮えたぎるように熱を帯び、筋肉の繊維が一本一本裂かれ、再生される感覚が走る。痛みは焼けるように鋭く、全身を釘で打たれているようだった。
「ぐっ……ぬぅ……っ!」
それでも彼は呼吸を乱さず、丹田に霊力を集め、経絡を通して骨格へ流す。体内に張り巡らされた無数の霊脈を、意識でひとつひとつ開き、血肉の奥まで霊力を浸透させる。痛みはやがて熱に変わり、熱は重圧に変わり、蓮弥の肉体は少しずつ鋼の如き堅牢さを得ていった。
こうして――魂を魔典で鍛え、心を経典で鎮め、肉体を秘経で磨く。
それは孤独な雪山の庵で、誰にも知られることのない過酷な修行であった。しかし蓮弥の眼差しには、一片の迷いもない。ただ次なる戦いのために、己を極限まで高めるという決意が、揺るぎない光となっていた。
雪嵐はなおも続き、夜は深まるばかりだった。だがその小さな庵の中では、一人の修仙者が静かに、自らの限界を越えんとする修行を続けていた――。
【第88話】五十年の変化
雪山の庵に、時の流れはなかった。
結界に守られたその場所では、外界の喧騒も戦乱も遠い夢のように消え、ただ白雪が降り積もり、風が山脈を吹き抜ける音が響くだけであった。
季節は巡り、雪は春の陽に溶けてはまた舞い戻る。しかしこの静寂の地に住む者にとって、季節の変化は意味を持たない。修行を積む者に必要なのは、ただ心を澄ませ、気を巡らせ、己を磨き続ける時間だけだ。
蓮弥は、石を削り出したような簡素な床に座し、深い呼吸を繰り返していた。
その身は長い修行の果てに筑基中期へと進み、霊脈はかつてよりもはるかに太く、力強く流れている。体は「金鋼経」の第三層を修め、まるで鋼鉄のように鍛え抜かれ、骨は宝石のように霊光を帯びていた。
彼の傍らには、二冊の書物がいつも置かれていた。
一つは心を鍛えるための『清心法華経』。静かに経文を唱えれば、どんな怒りも悲しみも、深い湖の底へ沈むように静まる。
もう一つは魂を苛み、極限まで研ぎ澄ませる魔典『幽獄魔篇』。読むたびに幻影が現れ、心を試す。蓮弥は五十年、この二つを交互に開き、魂と心を鍛え抜いてきた。
修行の成果は明らかだった。彼の瞳はまるで深山の泉のように澄み、動作には無駄がなく、ただ座しているだけで圧のような気配を放つようになっていた。
だが、変わったのは蓮弥だけではない。
庵の片隅で丸まっていた小狐――ルナもまた、かつての無邪気な子狐ではなくなっていた。
彼女が変わるきっかけとなったのは、一冊の古びた巻物だった。
それは、ある日偶然に彼女が蓮弥の蓄物袋の底から見つけたものであった。
巻物は黄ばんだ羊皮紙でできており、狐の爪で刻んだような独特の文字で満たされていた。その名は――『九尾妖法録』。
出所は不明。魔仏山の古寺から流れたものとも、南方の妖族が秘匿していたものとも言われる。だがそこには狐の妖気を操るための奥義が詳細に記されていた。
「これは……わたしのために書かれたみたい」
巻物を前に、ルナの瞳は輝いていた。
彼女は小さな体を丸め、妖気を巡らせる修練を始めた。最初は失敗ばかりで、力の流れを誤れば身体は痺れ、時に気を失うこともあった。
しかし諦めることなく、何百回、何千回と妖気の流れを繰り返し体得した。やがて彼女の毛並みは徐々に白銀に変じ、尾の一本一本が霊気を帯び、ふわりと輝くようになった。
ある日、修練の合間に彼女は立ち上がり、妖法を使って姿を変えた。
白銀の髪を揺らし、琥珀の瞳を持つ少女の姿。その耳は完全には隠し切れず、狐耳が髪の間からぴょこんと覗いていた。
「蓮弥、どう? 私、ちゃんと人間みたいに見える?」
恥ずかしそうに微笑むルナに、蓮弥は静かに頷いた。
「……見える。だが、狐らしさは隠しきれん」
彼女はむっとした表情を浮かべ、再び尻尾を揺らした。その仕草は、五十年前と変わらぬ愛らしさを残していた。
時間の感覚は、この庵には存在しなかった。
一日が十日となり、一年が十年となり、雪は降り積もり、風は山を削り、それでも彼らはひたすらに修行を積み重ねた。
そして気づけば、五十年という歳月が過ぎ去っていた。
蓮弥の背は伸び、体は鋼のごとく鍛えられ、霊力の流れは天地と共鳴するほどに整っていた。筑基中期――その境地は、かつての彼からは想像もできないほど遠い場所だった。
ルナもまた、ただの狐ではなく、幻術や妖法を自在に使いこなし、短時間なら人の姿で街を歩くことすら可能になっていた。
ある夜、二人は庵の外に出た。
満天の星々が静かな雪原を照らし、風が衣を揺らす。
「五十年……長いようで、一瞬だったね」
ルナが呟く。
「そうだな」
蓮弥は空を仰ぎ、目を細めた。星の光の向こうに、遥かな旅路が見えるようだった。
「そろそろ、行くか」
彼の声は低く、だが確固としていた。
この五十年、庵の結界に閉じこもり、修行だけに費やした。外の世界がどう変わったかは知らない。だが一つだけ確かなことがある――
もはや彼らは、かつての弱き旅人ではないということだ。
雪山に別れを告げ、二人は静かに歩みを進めた。
世界は変わり果てているだろう。しかし、変わったのは世界だけではない。
この五十年の修行が、彼らを修羅にも仙にも届く存在へと変えたのだ。




