紅蓮仙途 【第85話】【第86話】 雪山に 蒼光消えて 狐眠る
【第85話】退去の決断
庭園の夜空を、炎と水の光が乱舞していた。
魔法使いの杖先から放たれた火焔は赤黒く渦を巻き、蛇のようにしなりながら蓮弥を追う。迫る熱気は皮膚を焼くかのようで、その後を追うようにして、滝のような水柱が轟音と共に落下し、石畳を粉砕して飛沫を散らした。炎と水が交互に襲い来るたび、空気は激しく震え、庭園はたちまち白い蒸気の霧に覆われた。
「くっ……!」
熱気と冷気の入り混じる空間で、蓮弥は歯を食いしばる。視界は霧に閉ざされ、上下の感覚すら曖昧になりそうな中、彼は一息で気を練り上げ、蒼光を纏った刃を呼び出した。
淡い光が周囲を照らし、迫り来る炎を裂き、水柱を切り払う。そのたびに爆ぜるような衝撃が身体に響くが、彼は退かない。むしろその衝撃を利用し、身体を翻しながら戦場を駆け抜けていく。
蒼い残光が霧を裂き、蓮弥の姿は稲妻のように動く。一瞬前まで彼が立っていた場所に炎が炸裂し、石畳が黒く焦げる。直後には水柱が打ち下ろされ、地面に深い亀裂を走らせた。
対する魔法使いは、まるで舞を舞うように悠然と立ち、杖をわずかに振るうだけで攻撃を繰り出す。その動きはゆったりとしているのに、放たれる術は雷霆のごとく速く、重く、正確だった。速度では蓮弥に及ばないが、一撃一撃が必殺の重みを持ち、追い詰められるたびに息を呑む。
「……くそっ……押し返すだけでは終わらぬ」
蓮弥は心中で呟き、荒い息を整えた。闘志を燃やしていた心は、徐々に冷静さを取り戻していく。怒りの熱は確かに力を増幅させるが、それに溺れれば命を落とすだけだ。
――ここは知らぬ大地。
――敵の術も知らぬ。
――シュウ廉も、ルナも今は傍にいない。
ここで戦い続けて何を得るのか。得られるのは勝利でも誇りでもない。ただ、命を削るだけだ。
蒸気の帳の向こうに見える魔法使いの瞳は氷のように冷たく、その奥底には測り知れぬ思惑が潜んでいるのを感じ取れた。力のぶつかり合いは均衡している。だが、相手はこの土地を知り尽くしている。戦えば戦うほど不利になる。
「……退くべき時か」
蓮弥の瞳が、氷のように冷たく澄んだ。
次の瞬間、彼の身体が閃光のように弾けた。蒼光を纏った足取りは、風を切るように軽やかでありながら、雷のごとき速さで庭の端から端へと駆け抜ける。その残像を追いきれず、魔法使いの術は虚空を斬り裂き、後には焦げた石畳と砕けた噴水だけが残る。
「ふん……逃げるか」
魔法使いは低く呟き、杖を軽く振り下ろしかけたが、その手を止めた。
彼は追わなかった。追えるはずだ。蓮弥の動きを正確に捕捉し、次の術を放てば仕留めることもできただろう。それでも魔法使いは動かない。まるで獲物を追うことよりも、逃げる獲物を観察することを楽しんでいるかのように。
蒸気が風に流れ、夜空が再び姿を見せる。破壊され尽くした庭園の中央で、魔法使いはひとり静かに立っていた。杖を地に突き、空気を揺らすような圧力を静め、まるで何事もなかったかのように力を収める。
「なるほど……異界の者か。面白い」
低く呟かれたその言葉は、誰にも届かず夜風に溶けていく。口元に浮かぶのは冷たく計算された笑みだった。
その頃、蓮弥は庭園の外壁を飛び越え、闇の森の中へと身を滑り込ませていた。冷たい夜気が汗を冷やし、荒い呼吸を整えようとしても胸の鼓動は収まらない。
――逃げ切れたか?
耳を澄ますが、追撃の気配はない。しかし、あの魔法使いがわざと見逃したのだという直感が胸を締め付けた。狩人はわざと獲物を逃がす。もっと面白い狩りを楽しむために。
「まずは……身を隠す」
蓮弥は自らの霊力を抑え込み、気配を消すと、近くの木立の中に身を沈めた。周囲の自然の気を利用し、存在を溶かすように静かに息を潜める。霊獣袋の中にいるルナの気配も丁寧に覆い隠した。
蒸気と炎の匂いは遠ざかっていく。戦場の喧騒はすでに森の彼方に消え、残るのは虫の声と夜風の音だけだ。だが、張り詰めた緊張は解けない。いつ、どこで、あの魔法使いが姿を現すのか――そう考えただけで背筋に冷たい汗が流れた。
「この地は……俺の知る世界じゃない」
呟きながら夜空を見上げる。星の並びが微妙に違う。空気の匂いも、霊気の流れも、何もかもが異質だった。
ここは裂け目の向こうの世界。未知の大地であり、彼は完全に孤立している。
ルナを守り抜くためにも、無謀な戦いは避けるべきだ。情報を集め、この世界の仕組みを理解しなければならない。そして何より――シュウ廉を含む仲間たちの安否も気がかりだ。
庭園での死闘を思い返しながら、蓮弥は静かに決意を固めた。
――まずは生き延びる。生き抜いて、この異界を知り尽くし、必ず仲間の元へ帰る。
遠くでふたたび鐘の音が鳴った。夜風に乗り、どこか不吉な響きを帯びて森の中に広がる。
蓮弥は息を潜め、闇の奥へと歩を進めた。その背後で、あの魔法使いの薄ら笑いが、今も庭園に残っていることを知らぬままに。
【第86話】雪山の隠れ家
蒼白の月光が、果てしなく連なる雪山の稜線を照らしていた。夜の帳はすでに深く、風雪は止むことなく吹き荒れ、凍てついた木々が悲鳴をあげるように軋む。吹き下ろす烈風は刃のように鋭く、肌を刺し、骨にまで沁み込む冷気は呼吸すら奪おうとしていた。
蓮弥は、吐く息が瞬く間に白い霧となる中、険しい岩場を黙々と登っていた。足跡は吹雪に呑まれて瞬時に消え、己が歩んできた道筋さえもすぐに見えなくなる。
幾度も山の稜線を越え、わざと迂回し、あらゆる気配を消し去りながら進む。彼の背にあるのは、魔法使いとの激闘と異界の裂け目を越えた死地の記憶であり、それらは今もなお全身の筋肉を張り詰めさせていた。
「……ここならば追っ手も辿り着けまい」
月明かりに照らされた崖の影で立ち止まり、蓮弥は周囲を警戒する。雪山の静寂は、不気味なまでに深かった。風音のほかには生き物の気配すらない。彼は片手を掲げ、指先で印を結ぶと、足元の雪面に淡い光が広がり始めた。
複雑な符文が雪の上に浮かび上がり、霊気を帯びた光が蜘蛛の巣のように周囲へと広がっていく。やがて符文は雪山の岩肌へと吸い込まれ、周囲の景色そのものが揺らぎ、幻のように変化していった。
雪壁の一部が薄氷のように透き通り、奥には小さな岩窟が現れる。そこは外から見ればただの岩壁にしか見えぬ、結界に守られた隠れ家であった。
蓮弥は深呼吸をひとつして岩窟の中へと足を踏み入れ、符をひと撫でして結界を閉じた。外の吹雪の音が途端に遠ざかり、静寂が戻る。洞窟の内部は広くはないが、地脈の霊気がわずかに流れ込むおかげで完全な寒さはなく、彼は持参した霊石を用いて小さな焚火を灯した。
ぱちり、と小さな火花が散り、揺らぐ炎が岩壁に暖かな光を投げかける。その淡い光の中で、蓮弥は霊獣袋を解き放った。
「ルナ、もう少し休むといい」
白銀の毛並みをもつ小さな狐――ルナは、袋の中から姿を現すと、ひと声鳴いて彼の膝元に寄り添った。その体はまだ疲労に覆われ、尾を丸めて眠りに落ちる。蓮弥はその柔らかな毛を撫でながら、深い吐息を漏らした。
彼の脳裏に蘇るのは、仲間を失ったあの瞬間。異界での激闘、そしてシュウ廉を奪われたあの痛みだった。怒りは今も胸に渦巻いていたが、その奥底には自責の念がひっそりと根を下ろしていた。
「……振り返れば、我が道は常に急ぎすぎていたな」
炎の揺らめきに視線を落とし、彼は独りごちる。初めて剣を握った日のこと、師から魂魄の弱さを指摘された日、そして己が選んだ修羅の道――。魔仏山での策謀を思い出すたび、胸の奥にひやりとした後悔が忍び寄った。
毒を流し、村人を犠牲にし、己の目的を最優先したあの日。力を求めるあまり、魂の修練を後回しにし続けてきた日々。すべての決断は生き残るためだったはずだが、その代償が今こうして己を追い詰めているのではないか――そんな考えが、冷たい刃のように胸を突いた。
「魂の修練を怠った報いが、影となって迫っている……」
吐き出した息は白く、薄い煙のように天井に溶けて消えた。洞窟の中は静かだった。外の吹雪がどれほど荒れ狂おうとも、この結界に守られた空間には一片の雪も入らない。彼は膝を正し、焚火の前で静かに座を組んだ。
己の心を見つめ、怒りと後悔を手放し、ただ呼吸を整える。瞼を閉じれば、雪山の静寂が彼の魂へと沁み渡り、凍えるような冷たさの中に逆に澄んだ静謐を感じた。修仙の道は、結局は己との戦いである――その言葉の意味が、今ようやく理解できる気がした。
「必ず、魂を鍛え直す。次に立ち向かうとき、もう迷いはせぬ」
静かな誓いが吹雪を越えて響くようだった。ルナが耳をぴくりと動かし、眠りながらも安堵したように小さく鳴いた。蓮弥は小さく微笑み、再び瞑想に入る。
雪山の闇は深く、月光さえ霞む。しかしその静けさは、彼にとって何よりの修練の場となるだろう。復讐も怒りも一時忘れ、ただ魂を磨き、己の根を強くするために――。
雪嵐の夜は長い。だがこの隠れ家の中で、蓮弥は久方ぶりに心の底から穏やかな時間を迎えていた。




