紅蓮仙途 【第77話】【第78話】 毒撒けど 医師と讃えられ 秋の月
【第77話】疫毒の策
月は薄雲の向こうにかすみ、夜気は冷たく湿っていた。
明覚は村外れの古びた塀の陰に立ち、静かに息を潜める。背の高い藁屋根の家々が闇に沈む中、犬の吠え声が遠くで響き、稲穂の香りが夜風に乗って流れてくる。
その掌には、小さな陶製の瓶が握られていた。中には淡い薄紅色の粉末が詰められており、揺らすたびにかすかに光を反射する。それは、彼自身が丹念に調合した疫毒――致命ではないが、数日間は体を蝕む苦しみを与える毒薬だった。
明覚は瓶の栓を指先でなぞり、しばし目を閉じる。
「……これは試練だ。業を背負うことも、道を求む者の宿命」
低く呟く声が、夜の静寂に溶けた。
心を決めると、彼は衣の袖を翻し、瓶の中身を一息に風へと解き放った。細かな粉末が闇の中を漂い、街道沿いの野菜畑や家々の戸口へと静かに舞い降りていく。その動きは肉眼では捉えきれないほど繊細で、まるで夜霧が一層濃くなったかのようであった。
――これは破壊ではない。
明覚は胸中で言い聞かせた。
これは策だ。敵を欺き、仲間のために突破口を開く一手。犠牲は最小限であり、己の心を削る代償こそが、この計略を成立させる。
その夜、彼は闇の中で一度だけ天を仰ぎ、消え入りそうな月影を見上げた。
「仏よ……いや、天地よ。我を裁くならば、この策の果てであれ」
そう言い終えると、彼は闇に溶けるように村を離れた。
翌朝――。
村は早くも異変に包まれていた。
戸を開けた家々から、呻き声や咳き込みが聞こえる。畑で働くはずの老人たちは腹を抱え、井戸端には列ができている。子どもたちは泣き叫び、若者でさえ顔色を失っていた。
病はあっという間に広がった。
村の井戸は山間の清水を引いているが、昨夜の微細な毒粉はその水脈にまで混ざり、飲む者全てを弱らせていく。命を奪うほどの猛毒ではないが、腹痛と吐き気に襲われた村人たちは皆、動けぬまま家の床に伏せった。
さらに不吉なことに、この病は村を超えて山中にまで及んだ。魔仏山の修士たちも、次々と病に倒れていく。普段は鉄のような体を持つ修行者ですら、毒の前では疲労困憊し、警戒態勢は大きく崩れていた。
そんな中、一人の白衣の医師が村に姿を現した。
白布の仮面で顔を隠し、落ち着き払った足取りで病人の家を訪ね歩く姿は、どこか異様な気配を纏っている。
「熱は三日以内に下がるはずだ。この薬湯を朝夕に飲めばよい」
「痛みはこの膏薬で和らぐだろう。心配するな」
冷静でありながらも優しさを含む声色に、村人たちは次々とすがりついた。誰も、この医師こそが毒を撒いた張本人だとは夢にも思わない。
明覚は手際よく薬草を刻み、井戸水で煎じ、患者の口元に運ぶ。
その手の動きには迷いがない。毒の調合も、解毒薬の作成も、彼にとっては呼吸のように自然なことだった。自ら撒いた毒の効果も副作用も、全て熟知している。
効き目は即座に現れた。数口の薬湯を飲むだけで、患者たちの顔色がわずかに戻る。
「先生のお薬は神の妙手だ!」
「これで助かる……!」
安堵の声と感謝の涙があふれ、村中の信頼が一人の医師に集中していった。
やがて、この噂は魔仏山の修士たちの耳にも届く。
「村の者たちを救った医師がいる」と。
山中の修行者の中には既に高熱で倒れた者も多く、村人たちは口を揃えて「彼ならば治せる」と懇願した。
こうして、明覚は山門へと招かれることとなる。
山の門を越えると、そこは俗世とは異なる霊気の世界だった。
濃密な霊気が漂い、修士たちが暮らす堂塔は雲を突くほどの高さでそびえ立つ。木々は一層青々と繁り、石畳には薄い霞が漂っている。まるで仙境に足を踏み入れたかのような光景だ。
「患者を救うには、特別な薬草が必要です」
明覚は静かに告げた。その声音には一点の曇りもなく、招き入れた修士たちを納得させる力があった。
彼は霊草園へと案内される。
そこには、凡俗の世界では見られぬ珍しい霊草が整然と育てられていた。翡翠のように光る霊芝、夜になると白銀の花を咲かせる銀蓮、風がなくとも葉を震わせる青竹。どれも修士にとっては宝物であり、代々の門弟たちが命を懸けて守る存在だ。
案内役の修士が少し離れた瞬間、明覚は袖を広げた。
その指先には小さな符が貼られている。それをそっとかざすと、霊草の発する霊気は一時的に封じられ、ただの雑草のように姿を変えた。
明覚は数株を掌に収め、懐に忍ばせる。動きはまるで水が流れるように自然で、一切の違和感を残さなかった。
しかし、その心中には苦みが渦巻いていた。
――救うために毒を撒き、奪うために医を施す。
この策は己の心を蝕む刃でもある。だが、仲間のため、道を求めるため、彼は迷わぬ覚悟を選んだのだ。
蓮弥が宝物庫を探り、別の策を進めている今、明覚もまた霊草を抱え、次の混乱を仕掛けるための一手を打った。
その足取りは静かで、夜霧に消える影のように誰の目にも留まらなかった。
【第78話】宝物庫の影
魔仏山は、すでに沈黙の霊山ではなかった。
夕闇に包まれた参道は不気味な呻きで満ち、山門前には吐血した修士や痩せこけた村人たちが地に伏している。腹を抱えて転げ回る者、痙攣しながら息を荒げる者――皆、目に映る景色よりも己の苦痛に心を奪われ、周囲の異変を気に留める余裕すらない。山の威容を誇った防衛陣も形ばかりとなり、要の結界はわずかに霊光を保っているだけだった。
その混乱をすり抜けるように、一人の青年が山門を堂々とくぐる。
蓮弥。
粗末な麻衣を纏い、背には仕入れの荷を負ったただの買物係――そう見せかけた姿。
だが彼の瞳には、冷ややかな光が宿っていた。歩を進めるたびに周囲を冷徹に測り、霊脈の流れや修士たちの気配を正確に読み取る。
――倉庫は西。守りは薄い。
照魂印で得た情報が、脳裏に鮮明に刻まれている。
山門を抜けると、堂塔が連なる道を進んだ。かつては経典を読む声が響いていた修行堂も今や閑散とし、門弟らは吐血しながら壁際に倒れ込んでいる。彼らの視線は虚ろで、蓮弥の姿を疑うことすらできない。
足音は静かに、だが確実に宝物庫へと近づく。
やがて辿り着いたのは、岩窟を掘り抜いたような宝物庫の前。
黒鉄の扉は分厚く、龍蛇を模した封印符が何重にも張り巡らされている。封印の光はわずかに鈍り、病に侵された山の霊脈の乱れを反映していた。
しかし、今の彼は買物係の姿をしている。鍵の術符を懐から取り出し、迷いなく差し込むと、扉の符は淡い青白い光を放ち、音もなく消えた。
――侵入は完了だ。
扉の向こうには、眩いほどの霊気が満ちていた。
黄金や白銀の延べ板が山のように積まれ、漆塗りの箱に収められた宝玉や霊薬が棚に並ぶ。法器の類は整然と掛けられ、その一つ一つから淡い光がこぼれている。紫水晶の珠は心を鎮める霊気を発し、青銅の剣は鋭利な気を纏っていた。
「……なるほど、魔仏山が栄えるわけだ」
蓮弥は息を整え、袖の内に隠した術袋を広げる。袋は異空間へと繋がる宝具であり、彼が印を結ぶと口が風を吸うように広がり、宝物庫の財宝を次々と飲み込んでいく。
その瞳に欲の色はない。ただ冷ややかな使命感のみが彼の表情を支配していた。敵の富を奪い尽くすことが、この計画の重要な一手なのだ。
やがて棚も箱も空になり、光り輝く財宝の山は虚無の闇に変わった。
蓮弥は静かに袋を閉じ、身を翻す。
次の目的地は霊獣舎。
堂の奥に設けられた広大な檻の中には、山を守護するために飼われた異形の霊獣たちが潜んでいた。
蓮弥が足を踏み入れると、獣たちは一斉にその気配を察し、鎖の奥から低い唸りを漏らす。
黄金の毛並みを持つ火虎は鼻先から火花を散らし、漆黒の鷲は翼に雷光を帯び、蛇身の怪は霊気を吸い込み舌を揺らす。その威圧感は、凡俗の兵が一歩近づくだけで腰を抜かすほどだった。
しかし蓮弥は怯まなかった。
懐から小瓶を取り出し、鎖や餌桶の周りに淡紅色の粉を振り撒く。粉末が霊気に触れると一瞬、妖しい光を放ち、獣たちの瞳がゆっくりと赤く染まっていった。
「――吠えろ」
低く呟くと同時に、虎が怒り狂ったように鎖を噛み千切り、炎を撒き散らす。鷲が甲高い鳴き声を上げ、翼を広げて雷鳴を落とす。蛇は鉄柵を押し曲げ、霊気の奔流を吐き散らした。
霊獣舎はたちまち地獄の様相を呈し、鎖を引き千切った獣たちが次々と山内へ飛び出していく。
悲鳴が山にこだまする。
病に苦しむ修士たちは慌てて飛び起き、必死に霊獣を抑えようとするが、疲弊した体でその力を制御できるはずもない。炎が堂を焼き、雷鳴が石畳を割り、修士たちの悲鳴と獣の咆哮が夜空を裂く。
山の防衛は完全に崩壊した。
蓮弥はその混乱を背に、最後の目的地――牢獄へと足を向けた。
石の階段を下り、地下深くに築かれた暗牢の前に立つ。
ここには、魔仏山に背いた修士や外敵の捕虜、あるいは道を誤った者たちが閉じ込められているという。彼らの目には絶望の色が宿り、もはや希望を信じる力すら失われていた。
蓮弥は掌に青い霊光を凝らし、鎖に絡まる封印符を断ち切る。
「解き放たれよ」
彼の声とともに、鎖はまるで氷が砕けるような音を立てて崩れ落ちた。
「……自由だ?」
「出られるのか、本当に……?」
驚きと疑念の声が牢中から漏れるが、次の瞬間、囚人たちは歓声を上げて雪崩のように飛び出した。
自由を得た者たちの叫びは怒号へと変わり、彼らは武器を奪い、積年の恨みを晴らすかのように山内を駆け回る。
こうして、魔仏山は霊獣の暴走と囚人の解放によって完全な混乱の渦に沈んだ。
堂塔の屋根が崩れ、火柱が夜空を焦がし、雷鳴と咆哮が交錯する光景は、まるで修羅界の戦場であった。
蓮弥は混乱の中心から少し離れた高台に立ち、月明かりを仰ぐ。
彼の表情は変わらず冷徹で、ただ遠くの山火事の光を瞳に映すのみ。
「明覚……後はお前と合流するだけだ」
低い声が夜風に流れ、すぐに炎と雷鳴の音にかき消された。
だがその一言には、計画の成功を確信する冷ややかな響きがあった。




