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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第75話】【第76話】 策ひとつ 業を背負いて 夜は更け

【第75話】策


 魂の修練は、未だ道半ばであった。

 山の夜は静かで、深い闇が谷間を覆っている。焚き火の赤い揺らめきが、岩肌に長い影を落とし、二人の顔を照らしては消す。その炎を見つめながら、蓮弥は己の胸中に沈む不安の正体を噛みしめていた。


 ――魂魄が脆い。

 それは彼が誰よりも痛感している事実であった。幾度も死線を越えてきたが、心魂の弱さが致命傷となりかけた場面は一度や二度ではない。戦いの只中で、己の心がわずかでも揺れれば、敵の刃は容赦なく喉元を狙うだろう。


 瘴気の審判――あの門が突きつけてきたのは、まさにその事実であった。蓮弥は今なお、あの幻影たちの嘲笑を耳の奥に感じていた。魂を磨き上げねば、やがて来る大劫に呑まれ、灰燼と化すのは明らかだった。


 だが――。


 今は鍛練の時ではない。迫り来る難局は目前であり、悠長に閉門修行を積む余裕などどこにもなかった。魔仏山の瘴気は増し、日々変化する気配は何か大きな異変の前兆を告げている。このままでは、修行に専念する前に滅ぼされる。


「弱さは承知だ」

 焚き火を見据えたまま、蓮弥は低く呟いた。

「だが克服は後だ。今は生き延びるための道を探らねばならぬ」


 彼は瞼を閉じた。胸中に浮かぶ数多の手段を、一つひとつ捨て去っていく。

 毒を以て毒を制す策、隠遁して時を稼ぐ策、敵を欺くための幻術……それらはすべて、敵の力と瘴気の性質を思えば脆すぎた。最後に残ったのは、己が道理に背く一手――細いが確かな糸であった。


 その策を口にした時、明覚は長い沈黙の後、眉間に深い皺を刻んだ。僧衣の袖に組んだ手が震えている。やがて、僧は低く吐き捨てるように言った。


「……村人を巻き込むことになるぞ。善ならざる道だ。われらは修士、衆生を救うための力を持ったはず。利用すべきではない」


 蓮弥は静かに目を開けた。炎に照らされたその瞳には、揺るがぬ決意と、わずかな影が同居している。

「承知している。だが、この局を切り抜けるには、駒を増やすしかない。終われば得た財を分け与えよう。彼らに負債を残すつもりはない」


 言葉は冷徹でありながら、奥には悔恨の響きがあった。

 己の魂魄が強靭であれば、誰をも巻き込まずに自らの剣のみで道を切り拓けたはず。だが現実は、修行の未熟さを突きつけている。だからこそ、蓮弥は自らを責めながらも、この道を選ばざるを得なかった。


 明覚は黙して蓮弥を見つめた。その眼差しは厳しい。清廉を信条とし、血を流すことさえ必要悪として受け入れてきた彼であったが、衆生を道具として扱うこの策は、己の信念に反していた。


 しかし――彼は知っている。

 蓮弥が冷酷な計略家でもなければ、無用な殺戮を好む者でもないことを。共に歩んだ日々の中で、彼の剣がどれだけの慈悲を秘めていたかを、明覚は理解していた。


 長い沈黙の後、僧は深く息を吐いた。

「……やむを得ぬ、か」

 彼は首を横に振り、険しい表情のまま言葉を続けた。

「だが忘れるな。これはお前の魂に傷を残す。術で覆えぬ業というものもある」


 蓮弥は目を伏せ、わずかに笑った。

「承知の上だ。だが、今は進むしかない」


 二人の視線が交わり、やがて明覚は渋々ながらも頷いた。その仕草には諦念と同時に、共に戦い抜く覚悟が滲んでいた。


 こうして策は定まった。

 それは村人を巻き込み、魔仏山を混乱に陥れる計画。修士としての正道を踏み外す手であった。だが彼らに退路はない。進むか、滅ぶか。その二択しか残されていなかったのだ。


 夜風が山肌を渡り、木々の梢を震わせる。遠くで梵鐘が低く響き、山霊の気が微かに流れるのを、二人の修士は肌で感じ取った。

 蓮弥は静かに拳を握る。己が背負うべき業の重さを確かめるように。

 ――必ず生き延びる。そのためなら、たとえ業を背負おうとも。


 炎がぱちりと弾け、夜闇に火の粉が舞った。

 この夜を境に、彼らの運命は大きくうねりをあげることになる。




【第76話】照魂印


 まずは情報を得ること――。

 それが蓮弥たちの策の第一歩であった。


 夜の帳が山間の村を覆い、木々の梢に月明かりが揺れる。風は冷たく、谷を渡る瘴気の香がわずかに鼻を掠めた。村外れの林は静寂に包まれていたが、その静けさは獣も息を潜める類のもので、夜陰に潜む殺気を知らぬ者は一人もいない。


 蓮弥と明覚は、その林の奥で一人の男を捕らえていた。

 男は魔仏山へと物資を運ぶ「買物係」。村から魔仏山の拠点へと物資を運ぶ、ただの下働き――表向きはそう見えるが、山の内部事情を多少なりとも知る者だ。


 男は両腕をねじり上げられ、背を木に押し付けられている。必死に暴れてはいるが、修仙者の力を前に抗う術はない。


 明覚は低く呪を唱え、紙符を一枚取り出して男の口に貼り付けた。淡い光が走り、符が男の口を封じる。叫び声は途絶え、彼の目は恐怖に見開かれた。


 蓮弥が一歩前に進み出る。夜風が衣を揺らし、焚き火もない闇の中で、その瞳は剣のような冷光を帯びていた。

「静かにしろ。お前を殺す気はない。ただ、必要なことを話してもらうだけだ」


 男の肩が小刻みに震えた。だがその震えが収まる間もなく、蓮弥は右手を上げ、二本の指を男の眉間へと押し当てる。


 ――瞬間、夜闇を裂くような青白い光が指先から放たれた。


 符文のような紋章が虚空に浮かび、淡い光を帯びながら旋回し、やがて男の魂魄へと沈み込む。光は淡いが、その輝きは魂を震わせ、心の奥底にまで直接届くような威圧感を放っていた。


「――照魂印」

 蓮弥の声は低く、しかし耳をつんざくような響きを持っていた。


 青光は一度、男の体を走り抜ける。その瞬間、彼の背筋が硬直し、喉から押し殺した悲鳴が漏れる。


「虚を吐けば魂は裂ける。真を語れば静まる」

 その一言で、男の顔色は血の気を失った。魂魄を直接縛られる恐怖は、命を握られるよりも深い。彼の視線は蓮弥の瞳に釘付けとなり、息をすることすら忘れたようだった。


「言え。魔仏山の構えを――」

 蓮弥の声は刃のように鋭く、逃げ場を与えぬ威圧がこもっている。


 男の喉がかすかに鳴り、震える声が零れ落ちた。

「……村の中央に……井戸がひとつ……倉庫は西のはずれに……見張りは……夜半には半数が眠りにつく……」


 言葉を吐くたび、照魂印の光が脈動する。真実を語るときは穏やかな光が灯り、嘘を混ぜようとした瞬間には刃のような痛みが魂を裂きかける。その威圧に、男は虚言を挟む勇気すら奪われていた。


 やがて、地形、倉庫の位置、物資の種類、見張りの交代時刻――必要な情報はすべて吐き尽くされた。


 明覚は沈痛な面持ちでその様子を見守っていた。

「……強引な術だな」

 僧は腕を組み、微かに眉をひそめた。「確かにこれで道は開けた。だが、魂を縛る術は、使う者にも影を落とす」


 蓮弥は指先を離し、照魂印を解いた。青光が消え、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。呼吸は浅く、怯え切った瞳でただ虚空を見つめている。


「済まない」

 蓮弥は淡々と言ったが、その瞳にはわずかな憐憫が滲んでいた。

「だが、お前の言葉は多くを救うために必要だった。恨むならば、俺を恨め」


 男をそっと木陰に寝かせると、蓮弥は懐から別の符を取り出した。それは青い炎を宿した符で、指先に印を結ぶと同時にふわりと光を放ち、術者の体を包み込む。


 空気が揺らぎ、蓮弥の輪郭が水面のように歪む。

 数息の後、そこに立っていたのは――先ほどの買物係その人の姿だった。衣の皺、腰の曲がり、声色に至るまで、完全に一致している。


「これで魔仏山に潜り込める」

 蓮弥の声は変わらぬ冷静さを保っていたが、その内心は緊張の糸が張り詰めていた。


 明覚はじっと彼を見つめ、やがて小さくうなずいた。

「……行け。お前の役割は中から混乱を生むこと。私は別の道を探る」


 二人は視線を交わしたが、それ以上の言葉は必要なかった。修士同士の信頼が、言葉の隙間を埋めていた。


 その時、夜空を覆っていた雲が月を隠した。光の消えた林の中で、冷気が一層濃くなり、風が木々の葉をざわめかせる。


 蓮弥は変化の術姿のまま、足音も立てずに林を後にした。その背に漂う気配は、先ほどまでの剣士ではなく、ただの荷運びの男のそれであった。


 ――魔仏山の影は濃く、近い。

 その足取りには迷いがなく、冷たい覚悟が宿っていた。



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