紅蓮仙途 【第73話】【第74話】 瘴気問う 心の闇に 影ざわめく
【第73話】魔影の潜入
南側の水路は、まるで天地から切り離された異界の入口のように、夜闇の底で息を潜めていた。水面には星の光ひとつ映らず、葦の茂みさえ影を潜めている。風もなく、波紋もなく、ただ重く淀む瘴気だけが、じわじわと肌を刺すように漂っていた。
蓮弥は足元の水を踏みしめるように進む。全身にまとった漆黒の鱗は水面をわずかに揺らすたび、不気味な光沢を放ち、彼の体を魚鬼そのものに見せかけていた。その背には鰭が生え、瞳孔は細く縦に割れ、声を発すれば水底で響く泡のような音にしか聞こえない。
その隣を歩むのは、巨大な甲殻を背負った蠍獣の姿へと変じた明覚であった。背の甲羅には闇色の符文が浮かび、六本の脚が湿った石畳を無音で進む。その姿はもはや人ではない。
「……これで、奴らの目は欺ける」
蓮弥は低く囁く。水中から響くようなその声は、自分自身でさえぞっとするほど異様であった。
二人の身体を覆うのは、数日の修行で身に刻んだ魔功の気息である。丹田に流し込んだ闇気を無理やり循環させ、血肉の隅々まで魔の理で染め上げることで、気配を魔物に偽装していた。だがそれは、刃を呑むに等しい行為だ。理を逆らう気を取り込むたびに経脈は悲鳴を上げ、精神は少しずつ摩耗してゆく。
その危うさを悟りつつも、二人は結界前に立った。
前回は近づくだけで光の壁が炸裂し、皮膚を焼かれるほどの拒絶を受けた。だが今は――。
「……反応がない」
明覚の声が蠍の喉から響く。
結界は、彼らを魔物と認識したかのように静まり返り、まるで沼の水面をすり抜けるように、彼らの体を通した。息を殺し、互いの目を見合わせた瞬間、緊張が緩む。
「成功だ……」
蓮弥は小さく呟いた。
通路を抜けた先は、常世の底に沈む巨大な洞窟であった。天井は果てなく高く、光源はどこにもないはずなのに、壁一面に生えた緑黒の苔が不気味な燐光を放ち、陰鬱な緑色の明かりで空間を照らしている。中央には広大な黒水の池があり、まるで深淵そのものが地上に現れたかのようだ。
池の周囲には異形の魔物がひしめいていた。鱗に覆われた六足の獣、翼を持つ蛇、三つの瞳を持つ人型の怪異――それらが群れをなし、低い唸りを響かせている。魔物たちの目には人の理がなく、ただ瘴気と飢餓の衝動だけが漂っていた。
二人は魔功を研ぎ澄ませ、魔物の群れの中に紛れるように進む。
魚鬼と蠍獣の姿は確かに彼らを欺き、近くの魔物が鼻をひくつかせても、怪しむ様子は見せなかった。
――しかし。
「……待て、蓮弥」
明覚が低く唸る。
池の中央から立ち昇る黒い瘴気が、まるで意思を持つ蛇のようにうねり、二人の周囲を取り巻いた。生ぬるい霧のようなそれは、肌を越えて骨髄にまで染み込み、内側を探るような圧力を伴っていた。
「チッ……魂を照らす検分の瘴気か」
蓮弥は奥歯を噛み締める。
これは外見だけの幻影では欺けない。魂魄に刻まれた本質すら読み取る瘴気だ。魔功で外形を偽っても、心の揺らぎや正道の痕跡を見破られれば、一瞬で周囲の群れが襲いかかるだろう。
「……心まで偽れ。自分を魔と信じ込め」
明覚の声は硬い。
蓮弥は深く息を吐き、意識を闇の底へと沈めた。魔功修練で流し込んだ闇気をさらに濃く循環させ、己の思考すら侵すように受け入れる。丹田の中で正道の霊気は弱まり、代わりに冷たく粘ついた魔の息が全身を満たした。
――俺は人ではない。俺は深淵の魔。
意識をねじ曲げ、心を偽り、魂の輪郭すら曖昧に塗りつぶす。
蓮弥の目は赤黒く染まり、呼吸は獣のような低音を帯びた。
隣の明覚も同じく己を捨て、蠍獣の咆哮を内に抱いた。
瘴気は二人の魂をなぞるように蠢き、何度も何度も覗き込む。それはまるで天秤にかけられるような感覚で、心が少しでも揺らげば、たちまち均衡が崩れてしまう。
「……異なる波があるな」
池の奥から低い声が響いた。
その声は洞窟の壁に反響し、無数の囁きとなって耳を打つ。
黒水の中から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。長い首に鎧のような鱗をまとい、瞳孔は縦に裂け、二人の姿を見下ろしている。
「侵入者か……否。だが匂いは……異界の者」
群れの魔物たちが一斉にざわめき、瘴気はさらに濃さを増す。
蓮弥の背筋を冷たい汗が伝った。
――ここで悟られれば終わりだ。
黒水の怪異の目がぎらりと光った瞬間、足元の水面に幾筋もの波紋が広がり、池の瘴気が渦を巻いた。二人は互いに目を合わせ、一歩も動かず心を鎮める。
その沈黙は永遠にも似ていた。
【第74話】瘴気の審判
黒き水路を抜けた先にあったのは、底知れぬ闇が渦巻く広間であった。洞窟の天井は見えず、壁一面に生えた緑黒の苔が淡く光を放つのみで、その光さえ瘴気に呑まれて濁り、視界はひどく暗い。
蓮弥と明覚は魔物の姿を纏ったまま足音を忍ばせ、魔物の群れの間を縫うように進んだ。甲殻を背負う蠍獣と魚鬼――二人の姿は、完全にこの地の魔の理へと染め上げられているはずだった。しかし、目指す奥の通路を塞ぐ瘴気の壁に近づいた瞬間、空気の質そのものが変わった。
「……ここから先だ」
明覚が呟く声は低く掠れ、闇の中で霧散する。
彼らの目の前には、ただの瘴気とは明らかに異なる「壁」があった。黒く濃い霧が絡み合い、渦を巻き、まるで生き物のように脈動している。嗅ぎ慣れた魔の臭気とは異なり、その中には人の心を抉るような不快な気配が潜んでいた。
「瘴気そのものが……意志を持っている」
蓮弥は直感で悟った。これは単なる毒霧でも防壁でもない。魂を見透かし、侵入者を選別する「審判の門」だ。
二人がさらに一歩踏み出した瞬間、瘴気がまるで深海の潮流のように押し寄せ、視界を飲み込んだ。
世界は闇に閉ざされ、耳の奥で無数の囁きが響く。
――「裏切り者」
――「欲に囚われた愚か者」
――「お前の道は虚しい」
低く湿った声が心の奥へと染み込み、胸の中の古傷を抉るようだ。
蓮弥の前には、幼き日々に彼を嘲り、虐げた人々の幻影が立ち現れた。かつての村人たち、彼を恐れ、疎み、石を投げた者たち。彼らは笑いながら指を差し、罵声を浴びせる。
「弱者は這いつくばって死ぬべきだ」
「修行などしても、何も変わらん」
その声は蓮弥の胸奥に眠る復讐心を呼び覚まし、修仙の道を歩む理由を突きつける。剣を執った動機は本当に己のためか、それとも怒りと憎しみに囚われた結果ではなかったのか。幻影の一言一句が、彼の心を揺さぶる。
「……俺は……」
蓮弥の声は掠れ、足元がふらつく。胸の奥に燃える火は、憎悪と悔恨の混じった業火だった。
一方、明覚の周囲にも幻影が溢れた。
そこには、彼がこれまで討ち倒してきた魔物たちの姿があった。大口を開け、血に濡れた牙を剥き、呻き声を上げながら迫り来る。その群れは明覚の足跡をなぞるかのように現れ、無数の瞳で彼を見つめる。
「……僧でありながら、命を屠ることを選んだか」
「戒を破り、血を浴びた者が、何を救える」
幻影の言葉は、彼の胸に積み重なった矛盾と罪を突きつけた。
彼は確かに衆生を救うために剣を執った。だが、目の前の幻影はその理由すらも否定するかのように蠢き、精神を絡め取ろうとしている。
二人は同時に理解した。
これはただの結界ではない。侵入者の魂そのものを裁く審判。己の心の奥底と向き合い、過去を克服しなければ、瘴気は彼らを拒むだろう。
「……違う!」
蓮弥は歯を食いしばり、声を振り絞った。
「俺は復讐のためだけに剣を執ったのではない。己の弱さを乗り越え、この道で強くなるために……!」
その言葉を吐いた瞬間、幻影の嘲笑はさらに強まり、瘴気は彼の体を締め上げた。胸を押し潰されるような圧迫感、耳を裂くざわめき。彼の言葉は自らを鼓舞するには足りなかった。
明覚もまた合掌し、声を張った。
「我は衆生を救うと誓った。屠らねばならぬ命があったとしても――その罪を背負い、なお進む!」
しかし、祈りの声すら幻影の咆哮にかき消される。瘴気は容赦なく二人の精神を削り取り、魂を裂くような痛みを与えた。視界の端が赤黒く滲み、呼吸すらままならない。
「くっ……まだ今の俺たちでは……!」
蓮弥の喉から苦悶の声が漏れる。
「蓮弥、退くぞ!」
明覚が鋭く言った。その声は冷静で、だが焦りが滲んでいた。
「ここで進めば、魂そのものを奪われる」
蓮弥は唇を噛み、無念を抱えながらも頷く。
二人はゆっくりと後退した。足を一歩引くたびに瘴気の重圧は薄れ、幻影も霞のように消えていく。闇が霧散し、視界に洞窟の灯りが戻った時、二人の額には冷たい汗が滴っていた。
岩壁に背を預け、蓮弥は荒い息を吐く。拳を強く握り、悔しさに歯を食いしばった。
「……俺はまだ、心を揺らしてしまうのか……」
「焦るな」
明覚はゆっくりと目を閉じ、静かに言った。
「瘴気の審判は、修為だけでは通れぬ。魂を試す門だ。修行を積み、心を鍛え、策を練らねばならぬ」
蓮弥は深く息を吸い込み、頷いた。悔しさの奥に、決意の炎が芽生えている。
二人は再び洞窟を後にし、慎重に魔物の群れを避けながら水路を抜けた。
瘴気の門は突破できなかった。だが、それは敗北ではない。
むしろ魂の弱さを突きつけられたことで、彼らはこれまで以上に強くなる道を見つけたのだ。
――心を鍛え、魂を磨く。
この先の戦いは、剣と術だけでは足りない。己の内なる魔を克服せねば、あの門は越えられぬ。
二人の胸に重くその言葉が刻まれたまま、魔の巣窟からの退却は静かに進んでいった。




