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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第71話】【第72話】 魔の息を 呑みて心は 闇に舞う

【第71話】結界に再挑戦


 夜明けの淡い光が魔仏山の峰々を包んでいた。霧は冷たい風に流され、黒々とした山肌を隠したり見せたりしている。前夜、蓮弥と明覚は水路の奥で結界に阻まれ、無念のまま退いた。だが、その目には諦めの色は一切なかった。むしろ、あの結界の奥にこそ仲間が囚われ、秘術や禁物が眠るのだと確信を深めていた。


 明覚は岩場に腰を下ろし、川面に映る自身の影を見つめながら指先で水を弾く。その一滴が広がる波紋に、微細な霊紋が浮かび上がった。まるで水面そのものが霊脈の流れを映す鏡となっているようだった。


 「……昨夜の結界はただの封印ではありませんな。侵入者を迷わせ、霊力を吸い取り、動きを封じる……極めて手の込んだ術式です」


 低く響く声に、蓮弥は目を細めて頷いた。

 「俺もそう感じた。けれど、完全無欠じゃない。水脈の南端、岩盤の裂け目だ。あそこだけ、微かに気の流れが乱れていた。突破口になるかもしれん」


 その言葉に、明覚はわずかに笑みを浮かべた。

 「ならば試す価値はありますな」


 二人は再び衣を整え、川辺に立つ。水面は夜の残り香を湛えたように冷たく、霧が薄く漂っている。蓮弥は静かに呼吸を整え、心の内で経文を唱えた。霊力が経絡を巡り、筋骨の一つひとつを清めていく。第一層を突破した金鋼の肉体は、寒気をものともせず鋭い感覚を保っていた。


 「行きましょう」

 明覚の合図に頷き、二人は川面へ身を沈めた。


 冷水が肌を打つが、霊法の加護で息苦しさはない。肺に流れ込む水がまるで清涼な空気のように感じられる。青白い光が彼らの身体を淡く照らし、深い水底の道を照らし出していた。


 やがて、前夜立ちはだかった光の壁が視界に現れた。闇の中に浮かぶそれは無色透明でありながら、見る者の霊を圧迫し、触れただけで力を奪うと直感させる。


 「……来たな」

 蓮弥は小声で呟き、手印を結ぶ。指先に宿った青い光は魚のように泳ぎ、結界の表面に触れた。


 波紋が広がり、結界の層が顕れる。何重にも積み重なった符文は、古代の仏教符と道家の術式が混ざり合った奇妙な構造をしていた。


 「三重どころではない……七層、いやもっと奥深いな」

 明覚が唸る。その眼には畏怖と同時に高揚が宿っていた。


 蓮弥は岩盤の裂け目へと近づき、掌を当てる。そこは確かに僅かだが力の流れが薄い。

 「ここだ。けれど力任せに押し切れば、内側の警鐘を鳴らすだろう。……明覚殿、梵音で波を作れるか?」


 明覚は深く頷き、目を閉じた。胸の奥から低い声が発せられ、水底に共鳴が広がる。清浄な梵音は波となり、結界の層をわずかに軋ませた。


 その瞬間を逃さず、蓮弥は掌に霊力を集中させ、細い刃のような気を裂け目に滑り込ませた。


 ――轟ッ!


 結界が突然、凄まじい光を放つ。稲妻のような衝撃が水流を裂き、二人を大きく弾き飛ばした。


 「ぐっ……!」

 蓮弥は痛みに顔を歪め、必死に体勢を整えた。霊力が体内を逆流し、腕の感覚がしびれる。


 結界は瞬く間に自己修復を終え、裂け目は再び鉄壁のごとく閉ざされていた。


 明覚は泡を吐きつつも静かに笑った。

 「……やはり恐ろしい仕掛けですな。侵入の試みをそのまま糧にし、さらに結界を強める。道家と仏教、陰陽術が融合した高位の術式……この地の主、只者ではない」


 蓮弥は悔しさを胸に息を整える。だが心の中の炎は消えない。

 「なら、なおさら突破しなければならない。……策を練り直しましょう」


 二人は水面へと浮上し、夜明けの空を仰いだ。東雲の光が山の峰を淡く照らす。身体は疲弊していたが、瞳は決意に燃えている。


 岸へ上がり、明覚は掌に符を描いた。淡い金光が符に宿り、風に揺れる。

 「この結界は呼吸をしている。わずかな“間”を掴めば、突破口は必ず開けるはず。今夜は符陣を組み、相手の脈動を読み切る」


 蓮弥は無言で頷き、剣を膝に置いて座した。刀身に映る己の顔は疲れを隠せないが、その瞳には烈火のような意志が宿っている。


 「待っていろ、ルナ、シュウ廉……必ず、助けに行く」


 山の奥から、かすかな咆哮が響いた。まるで結界そのものが彼らの決意を嘲笑うかのようだった。


 だがその声に怯む者はここにはいない。

 二人は刻一刻と変化する山の霊気を読み、符を描き続けた。夜はまだ浅く、魔仏山の影はさらに深みを増していく。



【第72話】魔の理を借りる


 谷を渡る風が夜の冷たさを運んでいた。黒雲の隙間から覗く月は細く鋭く、まるで刀の刃で大地を切り裂くかのように冷光を投げかけている。魔仏山の麓に沿う南の水路は、深夜でもわずかな霧を立ち上らせ、そこに張られた結界は肉眼では見えぬまま、確かに世界の流れを歪めていた。


 蓮弥と明覚はその前で立ち尽くしていた。静寂が重い。水面はただの水のようでいて、足を踏み入れた者の気を吸い尽くす底なしの沼にも似た気配を漂わせていた。


 「……やはり、正道の術では歯が立たぬか」

 低い声で蓮弥が呟いた。額には汗が滲んでいる。結界に向かって霊力を放ち探ったものの、まるで深海の底に沈んだ巨獣の気配に触れたようで、術は虚空に飲み込まれ、反応は何も返ってこなかった。


 明覚は焚き火を起こし、手の中の符を燃やす。灰は風に舞い、夜の闇に消えた。

 「この結界は魔の理で編まれている。清浄な霊気を持つ修士を拒む。魔物ならば通すが、正道の我らには牙を剥く。……敵の根城らしい造りだ」


 その言葉に、蓮弥は深く息を吐き、黙って頷いた。心の奥底で既に悟っていたことだった。

 「つまり、我らも魔物の理を纏わねば通れぬ、ということか」


 明覚の眼差しは焚き火の揺らめきに照らされ、赤銅色の光を宿した。

 「魔功の修練……禁じられた道だ。だが、道を閉ざされたままでは仲間を救えぬ」

 彼の声は穏やかだったが、そこには僧としての葛藤も滲んでいた。


 蓮弥は拳を握った。魔功――それは修仙者が踏み入れるべきでない邪の道であり、正気を蝕み、心を魔に堕とす危険がある。幼い頃から師に教わってきた掟に反する行為だった。それでも今、囚われた仲間たちの姿が脳裏に浮かび、胸を刺す。


 「一度きり……この一度だけなら」

 自らにそう言い聞かせ、彼は膝を正した。


 ――谷奥の岩陰に仮の庵を設け、二人は魔功の修練に籠った。


 まず明覚は、旅の途中で討った魔物の屍から抽出した瘴気を壺に封じ、夜毎にその蓋を開けた。

 「恐れるな。魔は世界の理の一部に過ぎぬ。ただ、我らが拒むから牙を剥くのだ」


 明覚の言葉を頼りに、蓮弥はその気配を胸いっぱいに吸い込み、丹田に落とす。初めは喉が焼け、胃がひっくり返るほどの吐き気に襲われた。


 「ぐっ……!」

 背筋を走る冷気に耐えながら、彼は霊脈を通して瘴気を体内に巡らせた。正道の霊力と相容れぬ気の流れは、血の中で衝突し、体内の経絡を叩き割るかのような痛みを伴った。


 明覚もまた無言で座し、掌を合わせて印を結ぶ。僧衣の袖口からは薄墨のような霧が立ち昇り、その背に影が濃く伸びる。彼の眼差しには僧としての静けさと、修行者としての覚悟が混じっていた。


 日が昇ると谷に白い霧が立ち込め、二人はその中で呼吸法を変えた。清浄な空気を吸わず、敢えて瘴気を吐き吸いする。その呼吸は世界の理を逆転させるかのようで、体内の霊力は黒く濁り始める。


 夜には魔物の死骸を前に、筋や骨の並びを観察し、その気の流れを読み取った。明覚の指先が一筋の瘴気を掬い上げ、彼は静かに言う。

 「魔物は怒りや渇望の気で動くが、それもまた天地の循環に沿う。理解すれば恐れるに足らぬ」


 数日が過ぎると、二人の姿はわずかに変わり始めた。蓮弥の眼は夜闇の中で淡く紅に光を帯び、声の響きは低く震えた。明覚の腕には黒い鱗が浮かび、爪は鋭く伸びている。彼らの気配は森の獣たちを怯えさせ、谷に近づく鳥の影さえ消えた。


 「これで……結界も我らを魔と見なすはずだ」

 明覚の言葉に、蓮弥は鏡代わりの水面を覗き込む。そこに映ったのは、眉間に薄く浮かぶ魔紋を持つ己の顔だった。その異形を見つめ、胸に重い影が落ちる。


 ――本当に戻れるのか。このまま正道の修士に戻れるのか。


 心の奥で囁く声を、蓮弥は拳を握り潰すようにして黙らせた。

 「迷っている時間はない。彼らを救うためなら、何にでもなろう」

 その言葉に、明覚は小さく頷き、炎の残り火を払った。


 「ならば、行こう。結界の目を欺くのは一瞬だ。その瞬間を逃せば、命はない」


 谷を吹き抜ける風が二人の衣を翻す。夜はさらに深まり、月は雲に隠れてその光を失った。まるで世界そのものが彼らを闇に溶かそうとしているかのようだった。


 二人は影と化し、水路の方向へと歩みを進める。魔の理を身に纏った修仙者の姿は、もはや人のものではなかった。


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