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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第69話】【第70話】 月光を 呑みて潜るや 川の口

【第69話】魔仏山の影


 常明京を発って五日。二人が進む山道は、足を踏み入れるたびに不穏な気配を増していった。


 初めのうちは陽光が差し込み、鳥のさえずりもあったが、やがて空は厚い雲に覆われ、森は昼間でも薄暗い影を湛えた。木々の幹はねじれ、枝は鉤爪のように絡み合い、行く手を阻む。かすかな風が吹くだけで、梢から灰色の霧が舞い降り、肌に冷たくまとわりつく。


 「……このあたりからだ」

 先を行く明覚が足を止め、険しい目つきで前方を見据えた。


 蓮弥が視線を辿ると、遠方の山並みの中でひときわ異様な気配を放つ峰があった。まるで黒鉄を打ち固めたかのような色をしており、山肌には常に濃霧が渦を巻いている。その中心から立ち上る陰気な霊気は、ここからでも感じ取れるほどだ。


 ――魔仏山。


 かつて仏門を捨て、修羅道に堕ちた者たちが拠点とし、邪法を研究する魔窟。

 人々は恐れてその名を口にすることも避けたが、実際に目の当たりにすれば、その噂が誇張でないことは一目瞭然だった。


 「……空気が重い」

 蓮弥は自然と呼吸を浅くした。胸の奥に冷たい手を差し込まれたようで、吐く息さえ霜のように白い。丹田の霊力はざわつき、普段は穏やかな気の流れが、ここではまるで針で突かれたかのように乱れる。

 「ここに近づくだけで心が揺らぐのか……」


 明覚は黙って頷いた。

 「魔仏山は結界と瘴気に覆われている。未熟な修士なら、外郭に足を踏み入れた時点で気を狂わされるだろう」


 やがて道は途切れ、古びた石段が姿を現した。苔むした石畳は半ば崩れ落ち、そこからは黒ずんだ霧が立ち上る。霧は足首にまとわりつき、じわじわと体温を奪った。


 「気を緩めるな。ここからは一歩ごとに試される」

 明覚の声は低いが確信に満ちていた。


 二人は身を屈め、尾根の岩陰から魔仏山の外郭を窺った。

 山腹には砦を思わせる巨大な建造物が幾層にも連なり、その周囲には結界の光が網のように張り巡らされていた。淡い紫色の光が時折揺らめき、侵入者を拒む意志を示している。


 巡回しているのは黒衣の修士たち。頭には仏門を思わせる僧帽を被っているが、その額には赤黒い魔仏の印が刻まれていた。彼らの動きには隙がなく、修為も一人一人が結丹期に迫るほどの気配を漂わせている。


 「……厳重すぎるな」

 蓮弥は息を殺しながら呟いた。

 「このまま正面突破は不可能だ」


 「分かっている」

 明覚は岩に手を当て、冷静に状況を見極めていた。

 「古い記録にあった。外郭の南側に、使われなくなった地下水路があるはずだ。魔仏山が砦と化す以前に掘られたもので、今はほとんどの者が忘れているだろう」


 「そこから忍び込む……というわけか」


 明覚は頷いた。

 「危険は大きいが、それが唯一の道だろう」


 蓮弥は視線を山の奥へ向けた。

 ――ルナも、シュウ廉も、この山のどこかに囚われている。

 焦燥が胸を締め付ける。しかし彼は拳を握り、己の肉体を意識した。


 《金鋼経》第一層を成した体は、以前のように震えることはない。呼吸を整えれば、体内を巡る霊力は滔々たる流れとなって彼を支えた。


 その時――山の奥深くから、獣の咆哮が響いた。

 轟音は稲妻のように谷間を駆け抜け、周囲の木々の葉を震わせた。遠くで鳥たちが一斉に飛び立ち、森がしんと静まり返る。


 「魔獣……か」

 明覚の表情がわずかに険しくなった。

 「魔仏山の守りは人だけではない。ここは瘴気に侵された地。強大な魔獣が結界の内外に徘徊しているはずだ」


 蓮弥は無意識に腰の剣に手をかけた。

 あの咆哮だけで、背筋に冷たい汗が流れる。まだ姿も見えないのに、ただ声だけで圧倒される気配。今の自分が勝てる相手ではない――そう直感した。


 「……慎重に行動しなければな」

 「その通りだ。夜を待ち、月明かりの下で動く。巡回の隙を突き、南の水路を探る」

 明覚は冷静に作戦を口にするが、その目には確かな決意が宿っていた。


 蓮弥は深く息を吸い、心の中で誓った。

 ――必ず助ける。どんな困難があろうとも。


 太陽が沈み、山は闇に覆われた。霧はさらに濃さを増し、わずかな月光だけが道を照らす。

 二人の影は、黒衣に包まれた闇の中へと溶け込み、音もなく魔仏山の外郭へと忍び寄っていった。


 霧の中で微かに光る結界の紋様と、時折聞こえる魔獣のうなり声が、侵入者を試すように二人の背後を追ってきた。




【第70話】水路潜入


 常明京を発ち、幾日もの山道を踏みしめた二人は、夜半の帳の下、魔仏山の麓に流れる大河のほとりに立っていた。


 満月は雲間からわずかに顔を出し、冷たく白い光が川面に揺れている。澄んだ水の表層は穏やかだが、流れの奥底には深い気の渦が潜んでいた。静けさは死の沈黙にも似て、鳥や虫の声すら聞こえない。


 「……ここからだな」

 明覚が低く呟いた。その声すら川面に吸い込まれるように小さい。


 彼は衣の裾をたくし上げると、手のひらを水面に滑らせる。指先から淡い蒼光が生まれ、水面は小さく波紋を広げた。符を組み合わせた術法が発動し、水を肺で呼吸できるよう霊気を変換する息法が二人を包む。


 「修仙者の身ならば、水底を歩むも容易い。蓮弥、準備は整ったか?」

 「はい……」


 蓮弥は深く頷いた。鼓動は速い。胸の奥には焦燥が渦巻く。囚われた仲間、ルナとシュウ廉の姿が脳裏をよぎった。彼らを救うためなら、自らがどれほど危険に晒されようと構わない――だが、明覚の存在がその心を落ち着ける。


 二人は互いに目を合わせ、一息で川面に身を沈めた。


 水は凍てつくような冷たさで全身を包んだ。しかし霊法の加護があれば息苦しさはない。むしろ肺に流れ込む水は空気のように軽やかで、視界も青い光の中に鮮やかに広がっていた。


 底に沈むほど、水は不気味な静寂を増す。流れの中で耳鳴りのような低い振動が蓮弥の鼓膜を打った。それは自然の音ではない。霊脈の流れに干渉する何者かの意志の痕跡――この川がただの水脈ではないことを告げている。


 やがて、岩壁の裂け目に人工の石組みが現れた。長い年月に侵食されながらも、均整の取れた造形は人の手で築かれたものに違いない。魔仏山の地下水脈へと続く導水口だ。苔と黒い藻に覆われた入口は獣の咢のように口を開け、侵入者を飲み込もうとしていた。


 「……これが魔仏山の水の入口」

 蓮弥は声を抑え、泡となる言葉を飲み込みながら明覚に視線を送った。


 明覚は無言で頷き、指先の符を組み替える。青光が再び灯り、彼は先導するように導水口へと身体を滑り込ませた。


 その瞬間、蓮弥の心臓が強く脈打った。暗黒の水路は無音のまま続き、背後の世界を断ち切ったかのようだ。水の流れは次第に速さを増し、身体は洞窟の奥深くへと引き込まれていく。


 ――ビリリッ!


 突如、皮膚を焼くような衝撃が走った。蓮弥は反射的に身を捻った。視界に血のような赤い光が走り、水流の中で網の目のような術陣が展開されている。


 「結界……!」

 明覚の声が水を震わせて響く。


 赤い光は蜘蛛の巣のように広がり、二人を捕らえんと絡み付いてくる。霊脈を縛られる感覚に蓮弥は息を呑んだ。体内の気が乱れ、呼吸が途切れる。


 「動くな! 無理に突破すれば即座に感知される!」

 明覚は印を結び、目を閉じた。


 指先から放たれた光が網の一点を探り、結界の流れを読み取る。時間が止まったような緊張の中、蓮弥は歯を食いしばり耐えるしかなかった。


 数息の後、結界の光が一瞬だけ揺らいだ。

 「今だ――退くぞ!」


 二人は一気に身を翻し、強まった水流に乗って後退した。導水口を抜け、川の外へと押し戻される。


 水面を割って顔を出した蓮弥は、肺いっぱいに夜気を吸い込むと、荒い呼吸のまま岸へ這い上がった。胸の奥が焼け付くように痛む。


 「……危なかった……」

 吐き出した声は震えていた。


 明覚は静かに濡れた袖を振り払い、表情を崩さない。

 「焦るな、蓮弥。魔仏山は外郭だけでもこの防御だ。中枢に潜むのは筑基、あるいはそれ以上の修士ばかり。お前が命を落とせば、誰も仲間を救えぬ」


 蓮弥は悔しさを噛みしめた。仲間の顔が浮かぶ。救わなければ――しかし焦燥が己を殺すことも分かっていた。

 「……次は必ず突破します」


 その言葉に、明覚は短く沈黙したのち微笑を浮かべた。

 「ならば策を授けよう。結界の“呼吸”を読む術をお前に教える。急けば破滅する。だが執念はお前の力になる」


 川面には再び月が映り、風が波紋を揺らす。

 二人は濡れた衣を乾かす間も惜しみ、山影の下で結界の解析に取りかかった。静かな夜は、次なる死地への準備のために流れていく。


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