紅蓮仙途 【第65話】【第66話】 経巻を 胸に抱きて 杉の風
【第65話】金鋼経
比叡山延暦寺の奥深く、古びた石廊を抜けると、仄暗い堂内に導かれた。外の山風の匂いはすでになく、代わりに香炉から立ち上る白煙がゆらりと天井の梁まで昇り、堂内の空気を震わせていた。
光と影が交錯する空間には、荘厳な仏像が金色の光を受け、まるで静かに呼吸するかのように存在感を放っている。その重厚さに、蓮弥の胸中に自然と畏敬が生まれた。
堂内の正面には、長老と呼ばれる老僧が座していた。白髪混じりの眉が額に沿い、深い湖のように澄んだ眼差しは、すべてを見透かすかの厳しさを宿す。座る姿勢は崩れず、体の中心から発せられる気配は、若き修行者である蓮弥の霊力を微かに揺さぶるほどの圧力を帯びていた。
「若き修行者よ、汝が持つものを示せ」
その低く響く声は、堂内の空気を振動させ、蓮弥の背筋に一瞬の緊張を走らせた。
蓮弥は深く頭を下げ、懐から金霊珠を取り出す。掌に収まるその珠は、金色の光を放ち、霊気の波動を微かに揺らす。光が仏像の影に反射し、堂内の闇を淡く押し返すと、僧たちの間に低いざわめきが走った。
「間違いない……金霊珠だ」
「幾代にも渡って守られてきた宝が……」
長老はゆっくりと立ち上がり、蓮弥の前まで歩みを進める。その姿は老齢ながらも確固たる存在感を放ち、両の手で珠を受け取った瞬間、光が一瞬強く弾けるかのように揺れた。
「よくぞ返してくれた。道中、多くの困難があったであろう。その心根、仏法に照らしても疑う余地はない」
「……盗まれたものを届けただけです」
蓮弥の声は控えめながらも、胸奥には長く背負ってきた重荷を降ろした安堵が広がっていた。肩の力が抜け、微かに笑みを浮かべる自分に気づく。
長老は静かに目を細め、何か決意したかのようにうなずく。
「ならば、我らも汝に報いねばならぬ。受け取れ、これは比叡山の秘典――《金鋼経》である」
差し出された経巻は、黄ばんだ紙に墨の文字がびっしりと刻まれ、触れるだけで熱を帯びるような力を感じさせる。手に取ると、微かに霊気が波打ち、蓮弥の体内に新たな振動を伝える。
「金鋼経……?」
「鍛体の功法だ。修めることで肉体は鋼と化す。やがて大成すれば、金鋼不敗の身となり、剣も刀も受け付けぬ無敵の肉体を得られるであろう」
その言葉に、蓮弥の心臓は早鐘を打つ。筑基期に踏み出したばかりの身体に、新たな道が差し出されたのだ。霊術だけでなく、肉体そのものを武器に変えることができる。
だが同時に、迷いも胸をよぎる。和尚から受け継いだ魔功の断片がまだ手元にあり、さらに新たな功法を取り込めば、自分が本当に歩むべき道を見失う危険もある。霊力は増すが、心の迷いは力の暴走を招きかねない。
長老はそれを見透かしたかのように、柔らかい声で語った。
「選ぶか否かは汝次第だ。ただし覚えておけ。力は手段に過ぎぬ。道を定めるのは己の心だ。魔功を修めようとも、仏法を学ぼうとも、邪か正かを決めるのは汝自身の在り様である」
蓮弥は深く頭を垂れた。
「……ありがとうございます。この恩、決して無駄にはいたしません」
経巻を胸に抱いたその瞬間、堂内の仏像の視線が柔らかく変わったように思えた。金色の光の中で、静かに、しかし確かに彼の選んだ歩みを見守る者がいる気配がした。
蓮弥の意識は堂内の空気と共鳴し、霊力が緩やかに全身を巡る。魔功の断片と金鋼経の振動が互いに干渉し、微かに熱と冷気が交錯する。心中には決意と慎重さ、そして新たな力への期待が渦巻く。
こうして、蓮弥は金鋼経を手に、新たな修練の始まりを感じながら、静かに山門を後にする準備を整えた。外に出ると、朝日の光が杉林を黄金色に染め、山風が吹き抜ける。胸に秘めた霊力と決意が、新たな旅路への鼓動となって、彼の全身に広がっていった。
【第66話】連れ去る
比叡山の堂を後にしようと、蓮弥は朝の光を浴びながら静かに石段を下りていた。その静寂は突如として断ち切られた。
――ドタドタ、ドタドタ!
慌ただしい足音が石畳を響き渡る。額に汗を滲ませた門前の僧が駆け込んできた。手を大きく振り、声を張り上げる。
「長老! 門前に怪しき者どもが現れました! 狐の半霊と、小さき壺に宿る精霊――あの若者の仲間を名指し、連れ去って行きました!」
蓮弥の胸に冷たい衝撃が走る。ルナとシュウ廉――間違いなく自分の仲間だ。目の前の光景が、まるで時間を止めたかのように静止したように感じられた。
「……なんだと!」長老の声が堂内に響き渡る。石柱に反響して、空気が震える。額に汗を浮かべた僧は、息を整えながら続ける。
「黒衣をまとい、額に魔仏の印を戴いておりました。あれは……魔仏山の者に違いありません」
蓮弥の血が沸騰する。魔仏山――和尚の背後にいた山。あの禍々しい力の源。やはり繋がっていたのか。拳を握りしめ、身体が熱くなる。
「俺が行きます! 二人を助けなければ!」
思考よりも先に口をついて出た言葉だった。胸奥の霊力が疼き、手のひらが自然と熱を帯びる。しかし、その瞬間、長老が厳しい声を放った。
「待て、無謀は許さぬ。汝は突破したばかり、力もまだ安定しておらぬのだぞ」
蓮弥の声は震える。「でも、俺の仲間が……!」怒りと焦燥が混ざり、拳が白く光るほど強く握られる。胸の奥で火と水の気が交錯し、体中に電流のような熱が走った。
長老はしばし沈黙し、深く息を吸うと奥に控えていた一人の若き僧を呼び寄せた。
「明覚、汝が行け」
呼ばれた青年は二十代半ばほど、痩せた体ながら瞳は澄み切り、静かな炎を宿している。
「承知いたしました」青年は堂内を一歩前に進み、蓮弥に一礼する。「私は明覚。筑基期中期に至り、比叡山で鍛えを積んできました。未熟ながら、共に戦いましょう」
蓮弥は息を呑む。自分はまだ筑基初期。力の差は歴然だ。しかし、胸に湧く安心感は何物にも代え難い。
「忘れるな、若き修行者よ。仲間を思う心は尊い。しかし、それに囚われては力は乱れる。明覚と共に行き、己の力を確かめるのだ」長老は穏やかだが揺るぎない声で告げる。
「……はい!」蓮弥は深く頭を垂れ、拳を握り直す。
堂を出ると、山の空気は冷たく澄み、遠くで鳥が鳴いている。しかしその静けさの裏に、仲間を奪った者たちの影が潜んでいるのを、彼は敏感に感じ取った。
「急ぎましょう」明覚が先に立ち、軽やかに山道を駆け下りていく。彼の足取りは軽く、しかし一歩一歩に力の重みが宿っている。
蓮弥もすぐに続く。胸の奥で火と水の気が調和し、霊力が体内を駆け巡る。目の前に広がる山道――林の奥に、仲間を攫った黒衣の影が待ち受けていることを感じる。
「待ってろ、ルナ、シュウ廉……必ず助ける!」
胸の奥で誓いを立てると、霊力が自然に彼の体を押し上げる。足取りは軽快でありながらも、全神経が周囲に張り巡らされる。枝が風で揺れ、落ち葉が舞う音さえ、襲いかかる敵の足音の前触れのように聞こえた。
林の影の中、黒衣の者たちの気配が微かに光る。額に魔仏の印を光らせ、闇を背に仲間を連れ去った影が確かに存在する。
「ここから先は……試練だ」蓮弥は無言で自らに言い聞かせる。火と水の霊力が指先でざわめき、丹田から流れ出る力が心地よくも緊張を孕んで震える。
山道に二人の足音が響き渡り、比叡山を背に闇の中へ消えていった。その背中に、強い決意と覚悟が光る。仲間を取り戻す戦いが、今まさに始まろうとしていた。




