紅蓮仙途 【第63話】【第64話】 金霊珠 朝日を受けて 光増す
【第63話】比叡山の手前にて
西方へと延びる街道は、やがて人の気配の薄れた獣道へと変わっていった。高くそびえ立つ杉の木々が空を覆い、薄曇りの朝日すら枝葉の間からわずかに差し込むだけで、足元にはまだ夜の冷気が残っている。風は湿った土と苔の香りを運び、鳥の声もまばらで、森全体が息を潜めているように静まり返っていた。
「比叡山は、この峠を越えた先だ。」
先頭を歩くシュウ廉が低く告げる。その背はゆったりとした歩みながらも揺るぎなく、長年の修行者としての落ち着きを漂わせていた。
蓮弥は肩の荷を直し、深く息をつく。身体の内に渦巻く霊力の流れは、筑基へと進んだ証として確かに力強くなっていた。しかし新たな気脈はまだ荒れ狂う川のように不安定で、意識を少しでも逸らせば身体の制御を失いかねない。その一方で、歩を進めるたびに体内の霊力が少しずつ根を張り、己のものとして馴染んでいく感覚もあった。
――和尚の死で得たもの、魔功の記憶。それらが今の自分を形作っている。
蓮弥の心には、言葉にできない緊張と責任感が重くのしかかっていた。
その時だった。
――ギギィ……ギシャァァ……!
耳をつんざくような異音が森の奥から響き、空気が一気に濁る。腐敗臭を帯びた瘴気が風に乗り、三人の肌を刺した。
「来たな。」シュウ廉が一歩退き、静かに構えを取る。
ルナの狐耳がぴくりと動き、唇がかすかに歪んだ。
「……金霊珠の匂いに惹かれてきたんだ。」
闇を裂いて飛び出したのは、四肢が異様に長く、眼球が膨れ上がった妖怪だった。皮膚は墨のように黒く、背には骨のような棘が何本も突き出ている。長い舌をだらりと垂らし、地面に滴る唾液が土を焦がした。
「ここは……俺がやる。」
蓮弥は一歩前へ出た。シュウ廉もルナも制止しなかった。それが彼の試練であると、二人とも理解していたのだ。
蓮弥は丹田に意識を集中させた。そこに渦巻く霊力の奔流が、燃え盛る炎のような熱を帯びて広がっていく。深呼吸一つ。気脈を辿り、手のひらへと力を導いた。
――ゴウッ。
掌に宿った霊力は赤々と燃え上がり、同時に淡い水のしぶきが霧となって指先を包む。火と水。相反する二つの力が、彼の手のひらの中で渦を巻いていた。
「まだ不安定だが……やってみる!」
蓮弥の目が光を帯び、妖怪の爪が振り下ろされる瞬間、霊力を解き放った。
――ゴオオッ!
炎と水が一つになり、白い霧が音を立てて噴き出す。その霧は剣のように鋭く妖怪の体を切り裂き、同時に瘴気を呑み込み、霧散させた。妖怪は断末魔をあげる暇もなく崩れ落ち、黒い塵となって地に消える。
森に再び静寂が訪れた。だがその静寂は、さっきよりも凛と澄んでいた。
ルナが息を呑むような声をあげた。
「すごい……前より霧が鋭く、濃い。」
彼女の狐耳が興奮気味に揺れる。
シュウ廉も無言で頷いた。
「術が馴染み始めているな。小妖程度なら恐れるに足らん。」
その目にはかすかな笑みすら浮かんでいる。
蓮弥は胸を押さえ、深く息を吐いた。体内の霊力はまだ荒れていたが、和尚の記憶から学んだ制御法が、暴れ狂う力を導き収束させていた。
「……これは、試練だな。俺の力を試されている。」
その言葉にルナがにっこりと微笑む。
「じゃあ、次は比叡山の和尚たちに会わなきゃね。」
三人は再び歩みを進めた。霧深い森を抜けると、視界の先に険しい山並みが姿を現す。山肌には朝の霧が薄く漂い、遠くからでもその山がただの山でないことが伝わってくる。そこには静謐でありながらも重い圧があった。
蓮弥は一瞬足を止め、山を見上げる。
――あの中に、金霊珠をめぐる真実がある。和尚たちの影も。
不安はある。だがそれ以上に胸の奥に芽生えたのは、静かな自信だった。戦いを重ね、血を流し、力を積み上げてきたその結果が、確かに自分の中に宿っている。
「行こう。」
蓮弥の声は静かだが、迷いはない。
ルナが軽やかに笑い、しっぽを揺らす。シュウ廉は無言でうなずき、先へと歩みを進める。
比叡山の影は少しずつ大きくなり、霧の中で輪郭を浮かび上がらせていた。
【第64話】比叡山の門前
西の山並みを越え、杉林の間を抜けると、ついに比叡山の山門が朝日を受けて荘厳に姿を現した。石畳の参道は遥か下まで続き、その両脇には巨像の仁王が立ち、力強くも威厳に満ちた眼差しで来訪者を見据えている。朝の光が像の顔を斜めに照らし、影が深く刻まれる。風に揺れる杉の葉がざわめくたび、門前には神聖でありながらも畏怖を誘う気配が漂った。
蓮弥は一歩踏み出す前に、深く息を吸い込んだ。胸の奥で、筑基期に踏み出したばかりの霊力が静かに脈打つ。だが新しい力はまだ荒々しく、軽い緊張ですぐに暴れそうだった。指先に微かに感じる霊気の揺らぎを抑えながら、蓮弥はゆっくりと前に進む。
その時、背後でルナが尻尾を小さく丸め、肩を震わせた。
「やっぱり……無理。仏像の目が怖い。あたし、半霊の狐だもの。あの眼差しに睨まれると、魂まで削られる気がする……」
普段の快活な声は震え、耳も垂れ下がっていた。蓮弥は一瞬言葉を失った。
シュウ廉も腕を組み、少し顔を背ける。
「俺も行かん。人が仏を拝むのは勝手だが、比叡山の説法や戒律は肌に合わん。僧どもは力と戒律を笠に着て偉ぶる。虫唾が走る」
その眼光には明らかな嫌悪が宿り、蓮弥をじっと見据えた。
「お前が返すと決めたのだろう。なら一人で行け。我々はここで待つ」
蓮弥は深くうなずき、金霊珠を胸に抱きしめた。新たな霊力が体内で微かに熱を帯びるのを感じながら、石段を一歩ずつ踏みしめていく。背後には二人の気配が温かく、しかしそれを頼りにはせず、彼自身の意志だけで足を進める。
杉林を抜け、山門の影に足を踏み入れた瞬間、冷たく澄んだ風が襟元を吹き抜けた。清浄な霊気に満ちているが、どこか胸を圧する重さがある。その重さに蓮弥は自然と姿勢を正し、丹田の霊力を整える。新たな力は未熟ながらも鋭く、山門の空気と微かに共鳴しているのを感じた。
そのとき、山門の奥から二人の僧が姿を現した。頭を丸め、墨染めの衣を纏い、眼光は鋭く澄んでいる。静かに歩を進めるその足取りには、長年の修行者としての落ち着きと圧が宿っていた。
「止まれ。ここより先は比叡山延暦寺の境内。何者だ」
低く響く声が山門の空気を振動させ、蓮弥の足が一瞬止まる。
蓮弥は深く一礼し、声を落ち着けて答えた。
「蓮弥と申します。道中、ある僧と出会いました。命を落とされたその方から、この霊珠を託されました。比叡山にお返しするため、ここに参りました」
懐から取り出された金霊珠は、朝日に反射して淡く光を放つ。その輝きはまるで小さな太陽のように周囲の影を押し返し、僧たちの目がわずかに大きく見開かれた。
「……金霊珠。まさか、失われたはずの宝が……」
「若者よ、ここへ来たのは本当か。誰に託された」
蓮弥は迷うことなく正直に答える。僧たちは互いに目を合わせ、沈黙が数秒続いた。やがて重々しくうなずき、口を開く。
「分かった。金霊珠を受け取ろう。しかし、宝を奪い返そうとする魔の者も必ず動いている。ここでの話は慎重にせねばならぬ」
一人の僧が静かに手を振り、蓮弥を山門の内側へと導いた。
「長老方がお待ちだ。詳しい話は堂内にて伺おう」
蓮弥は胸に金霊珠を抱え、深く息を吸い込む。霊力が全身を巡り、胸中の決意をさらに固める。石段を一歩一歩踏みしめ、荘厳な門をくぐる瞬間、風に乗る杉の香と朝日の光が全身を包んだ。背後には二人の仲間の気配が温かく残り、しかし責任は完全に自分のものだ。
――ここから先、試練はさらに厳しくなるだろう。だが、俺はもう恐れない。
蓮弥の心にそう決意が芽生えた瞬間、金霊珠の光が一層強く揺れ、周囲の霊気と共鳴するかのように波紋を描いた。比叡山の門前は静謐の中に緊張が漂い、これから待ち受ける神域の試練を予感させた。




