紅蓮仙途 【第59話】【第60話】 黒炎に 呑まれし霧や 魂哭す
【第59話】魔影の咆哮
識海に満ちる白霧は、今にも消え入りそうな微光を宿し、かすかな息遣いのように漂っていた。蓮弥は荒れ狂う意識の海の中で必死に気を練り、火と水の相反する力を掌に呼び寄せては霧を繋ぎ止めていた。しかし、彼の前に立ちはだかる和尚の魂影はその必死の抵抗すら愉快そうに嗤っていた。
「――遊びはここまでだ、小僧。」
低く響く声は、雷鳴のごとく識海全体を震わせた。その瞬間、和尚の影から黒炎が噴き出した。それは炎の形をしていながらも一切の熱を持たず、代わりに魂を蝕む冷たい闇の気を放っている。闇の炎は一瞬で広がり、四方の空を黒に染め上げると、霧を押し潰すように覆い尽くした。
「っ……なに、この力……!」
蓮弥は思わず息を呑み、両手を合わせて霧を濃くしようとした。火と水の力を必死に練り直し、再びその調和を呼び寄せようとする。しかし黒炎はまるで意思を持つ獣のように霧の隙間を裂き、噛み砕き、容赦なく飲み込んでいった。
「愚かよな、小僧。」
和尚の影がゆらりと立ち上がり、声を轟かせる。
「火と水を併せる? 未熟な魂魄で何を夢見た? この世界の理は、お前の浅い修練で曲げられるものではない。貴様はただ、我が影に呑まれて終わるだけだ。」
嘲笑混じりの言葉が、蓮弥の胸に重く突き刺さった。視界が霞み、霧の光がひどく弱まっていく。
「……くっ!」
足が重い。膝が砕けそうだ。識海にあるのは肉体ではないはずなのに、魂そのものが押し潰されていくような圧力を感じた。
黒炎はますます勢いを増し、渦を巻きながら巨大な影の龍へと姿を変えた。龍の眼光は赤く爛々と輝き、無数の牙が霧を噛み砕く。
「喰らえ、小僧!」
咆哮と共に黒炎の龍が突進する。識海全体が軋み、天も地も裂けるような衝撃が走った。白霧は一瞬で押し潰され、視界を包む光はほとんど消え失せた。
「だめだ……もう、保てない……!」
蓮弥の心に冷たい絶望が広がった。火の気も水の気も、意識の糸から零れ落ちる砂粒のように消えていく。両手の力は抜け、膝が折れた。頭の中に響くのは自分の荒い息と、和尚の笑い声だけだ。
「終わりだ。」
和尚は影の龍を操りながら低く言い放つ。
「お前の魂はここで潰える。肉体も、記憶も、すべてが我がものとなろう!」
黒炎が再び渦を巻き、蓮弥の意識を完全に覆った。
――暗い。
識海は黒一色に塗り潰され、足元の感覚すらない。まるで虚空に落ちていくような錯覚に襲われ、胸が締め付けられる。霧は完全に消えかけ、光はほとんど残っていない。
――これで終わりなのか。
蓮弥の心に初めて敗北の色が差した。指先は動かず、気を練る力も残されていない。息をするような意識の行為すら、黒炎の中では困難だった。
しかし――。
胸の奥で、かすかな熱を感じた。それは微かな炎。風前の灯火のように消えそうになりながらも、確かにそこにある。
その隣には、一滴の冷たい雫が静かに寄り添っていた。
「……まだ……終わらせない……絶対に……!」
震える声が識海に響く。蓮弥の瞳にわずかに光が戻った。指先を動かすことはできなくても、心の奥底に灯ったその種火と雫の存在が、彼の精神をつなぎ止める。
和尚はその様子を冷ややかに見下ろした。
「足掻くな。貴様の力ではもう抗えぬ。次の一撃で、全てが終わる。」
黒炎の龍が大きく口を開け、咆哮と共に膨大な霊力を集め始める。空間が軋み、識海の外周が砕ける音が聞こえた気がした。
圧倒的な力。逃れる術も、抗う余力もない。
――だが、それでも蓮弥は歯を食いしばる。
心臓の鼓動が重く響く。その音に合わせて、胸の中の種火と雫がわずかに脈動した。まるで二つの力が互いを求めるように寄り添い合っている。
「……これが、俺の……」
彼は息を吸い、ゆっくりと吐いた。瞼を閉じれば、真っ暗な識海の中で、光が一筋だけ揺れているのが見える。
黒炎の龍は咆哮を上げた。圧力がさらに増し、魂の奥底まで響くような衝撃波が襲いかかる。和尚の影は勝利を確信したかのように嗤った。
「終わりだ、小僧!」
――だが、その刹那。
蓮弥の胸の奥で、小さな炎と雫が一つになろうとしていた。
【第60話】突破
識海を覆う闇は、もはや夜を超えた深淵だった。黒炎が獰猛な獣のようにうねり、あらゆる光を飲み込んでいく。炎でありながら熱を持たず、むしろ心の奥底まで冷え込ませるような死の気配を纏っていた。蓮弥の霧は薄れ、彼を守る最後の防壁は、今にも崩れ去りそうだった。
「……これで終わりだ、小僧。」
和尚の魂影が笑った。その声は雷鳴のごとく轟き、識海全体を震わせる。かつて人であったはずの影は、今や邪念と殺意が凝り固まった魔の存在。人の形を保ってはいるが、その目には血のような紅が燃え、口元は蛇のように歪んでいる。
「貴様の魂は脆い。火と水を操るだと? 未熟な者が無理に融合を試みれば、こうして自滅するのが関の山よ。」
闇の中で和尚の影は腕を広げた。その動きに呼応するように、黒炎が激しく渦を巻き、巨大な龍の形を成す。龍の目は血よりも濃い紅色で輝き、牙は世界そのものを噛み砕くかのように鋭い。その咆哮一つで霧が震え、蓮弥の魂が軋む音が響いた。
「……っぐ……!」
膝が崩れそうになる。意識は遠のき、体は自分のものでなくなっていく感覚に囚われる。鼓動すらも弱まり、心の灯火が今にも吹き消されそうだ。
――絶望の淵。
闇は冷たく、孤独は容赦なく心を削っていく。もはや戦う理由さえも霞み、手を伸ばす力も残されていないように思えた。
だが――。
胸の奥で、わずかな炎が揺らめいた。あまりに小さく頼りない火種。しかし、その周りには冷たい雫が寄り添い、決して消させまいと包み込んでいる。その感覚が、蓮弥の心を呼び覚ました。
彼の脳裏に浮かぶのは、共に旅をしてきた仲間たちの笑顔だ。
霊獣袋から顔を出し、悪戯っぽく笑うルナ。
厳しくも温かい眼差しで彼を導いてくれたシュウ廉。
笑い合い、戦い、命を懸けて共に歩んできた者たち。
――そうだ。俺はまだ、立ち止まれない。
「……俺は……負けない。」
その声は弱々しかったが、確かな決意を宿していた。
黒炎の龍が咆哮し、最後の一撃を放つべく突進してくる。天地が裂けるような衝撃波が押し寄せ、蓮弥の識海全体が揺れ動いた。
その瞬間、蓮弥の全身を白光が包んだ。
火と水――本来ならば相克する二つの力が、奇跡のように調和し、一つの円環を描く。その調和の波動が霧を蒸気へ、蒸気をさらに凝縮した光へと変えていく。白光は黒炎を貫き、その龍の体を焼き裂いた。
「なっ……なに……っ!?」
和尚の魂影が狼狽の声を上げる。
白光はまるで夜明けのようだった。炎は燃え盛り、水は流れ、二つの相反する力が螺旋を描いて渾然一体となり、圧倒的な霊力を生み出していく。
「これが……俺の力だ!」
蓮弥は叫び、両手を突き出す。白光の奔流が黒炎の龍を貫いた。龍は苦悶の咆哮をあげながら崩れ落ち、その残骸は黒い霧となって散り、やがて光に呑まれて消滅していく。
和尚の魂影は必死に抗ったが、その身もまた裂け、塵となる運命を逃れられなかった。
「ぐ……ありえぬ……! 小僧ごときが……!」
その絶叫は闇の奥に吸い込まれ、ついには跡形もなく消えた。
識海には静寂が戻った。だが、その静けさは死の気配ではない。むしろ、温かな光に包まれた安らぎだった。
蓮弥は膝をつき、大きく息を吐いた。額には汗がにじみ、体中を巡る霊力はこれまでとは比べ物にならないほど澄み渡っている。魂が一皮むけたような感覚があった。
「……俺は……突破したんだ。」
呟いた声は震えていたが、そこには確かな誇りがあった。
――筑基期。
修仙の第一の壁を越え、仙道の基盤を完成させた者だけが到達できる境地。
その証として、蓮弥の体を包む光は穏やかに脈打ち、彼の存在そのものを強化していく。破れかぶれの抵抗だったはずが、彼は己の限界を突破し、和尚の魂影を打ち倒す力を得たのだ。
静かな識海に、蓮弥はそっと目を閉じる。
「……次は、俺が守る番だ。」
闇を打ち払い、光を宿したその魂は、もはや一人の凡人ではなかった。




