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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第55話】【第56話】 魂しずむ 黒炎の嵐 識海の淵

【第55話】和尚


 山の夜は深く、月明かりすら霧に覆われ、足元すらおぼつかない。谷間を渡る風が不気味な唸り声をあげ、どこかで滴る水音が岩壁にこだましていた。


 「これは……ただ事じゃない……」

 ルナの声が低く響く。狐の耳がピクリと動き、黄金の瞳が鋭く光った。

 「蓮弥、私、一度袋に戻るわ!」

 そう言い終えるや否や、彼女の体は小さな光の粒となり、霊獣袋へと吸い込まれた。


 シュウ廉もまた言葉なく頷くと、幽鬼のように静かに宙を舞い、手のひら大の青磁の壺――養魂壺へと姿を沈める。その壺は魂を養い、散逸を防ぐ古代の器。市場での偶然の一幕が、今や命綱となっていた。


 「……さて、行くか」

 蓮弥は息を潜め、ひとりで岩陰の方角へと進む。呻き声が微かに響く。湿り気を帯びた霧が足元を絡め取り、鼻腔を突く鉄臭さが彼の警戒心をさらに高めた。


 霧の向こう、そこには二つの人影が倒れていた。


 一人は黒衣の男。すでに息絶え、鋭い短剣を握りしめたまま血溜まりに沈んでいる。その顔には死してなお消えぬ執念が刻まれ、冷え切った瞳が虚空を睨みつけていた。


 もう一人は僧衣をまとった男だった。胸元を鋭利な刃物で深く裂かれ、衣は赤黒く染まっている。呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。それでもその瞳だけは異様な力を宿し、蓮弥をまっすぐ見据えていた。


 「……わ、私は……比叡山の……僧……」

 掠れた声が唇から漏れる。


 「三人の盗人……金霊珠を奪いに来た……我ら三人で追ったが……私は……この男を……討った……」

 彼の視線は黒衣の死体へと向けられていた。


 「……だが……もう長くは……ない」

 そう言うと、僧は苦しげに息を吐き、蓮弥に手を伸ばした。


 「頼む……胸元に……金霊珠がある。自分では……もう取り出せぬ……代わりに……」


 蓮弥は慎重に一歩近づき、膝をついた。警戒心はあったが、その眼差しには助けを求める真摯さがあるように見えた。

 「わかりました」

 彼は息を整え、僧の胸元にそっと手を差し入れた。衣の奥には確かに固いものの感触があった。


 その瞬間――。


 「……っ!」

 血塗れの両手が突然、蛇のように動いた。鉄の鉤爪のごとき力で蓮弥の腕を掴み、引き寄せる。


 「な、何を――!」

 叫ぶ暇もない。僧の瞳は先ほどまでの弱々しさを一瞬で失い、狂気を帯びた光を放っていた。

 「……お前の体……もらうぞ……!」

 その声は低く、耳を裂くような怨嗟を孕んでいた。


 蓮弥の背筋に氷のような寒気が走った。


 霧が一層濃くなり、風の音すら途絶える。岩陰に張り詰めた沈黙は異様で、周囲の世界すら歪むようだった。僧の顔が歪み、皮膚の下で何かが蠢くように波打つ。もはやその姿は人間ではない。瞳の奥に渦巻くのは、狂気と執念、そして異形の妖気。


 「……やはり……」

 蓮弥の心臓は激しく鼓動し、呼吸が乱れる。

 「この男……本物の比叡の僧ではない……!」


 掴まれた手首に力を込めるが、まるで鋼鉄の枷に囚われたかのように動かない。

 「……お前の魂……私の中に沈め……お前の体を……我が器とする……」


 耳元で低く囁くその声は、仏門の者とは到底思えぬ邪悪さを孕んでいた。


 蓮弥は咄嗟に体内の霊力を動かした。掌に火の気を集め、小さな炎を生じさせる。それを掴まれた腕に沿わせ、相手の腕を焼き切ろうとした。しかし僧の皮膚は不気味な光沢を放ち、炎を受けても焦げるどころか、黒い瘴気が煙のように立ち昇っただけだった。


 「ぬるい……!」

 僧は嗤った。口角が異様に吊り上がり、牙のような歯が覗く。

 「筑基期の修士の体を侮るなよ、小僧!」


 その瞬間、蓮弥の頭蓋の奥で激しい衝撃が弾けた。視界が歪み、体が地面に崩れ落ちる。

 「……くそ……っ!」

 意識が遠のく。何かが脳内に侵入し、魂を揺さぶる感覚が走った。

 ――これは……奪体……!

 禁忌の術だ。他人の魂を殺し、その肉体を奪う最も忌まわしい技。


 「……眠れ……」

 僧の声が、まるで鐘の音のように響いた。だがその響きは魂を侵す魔音で、抵抗する間もなく蓮弥の視界は暗闇に飲まれていく。


 「いや……まだ……!」


 最後の抵抗の声は、喉の奥で掠れた音に変わり、意識は深い闇に沈んでいった。




【第56話】奪体


 意識がふっと暗転した瞬間、蓮弥は自分の足裏に水のようなものを感じて目を見開いた。そこは現実ではない――直感でそう悟った。


 無辺の世界が広がっていた。空は深い蒼でありながら、どこまでも暗い闇を孕み、足元には果てのない大海が広がっている。波は音を立てず、鏡のように静かでありながら、どこか底知れぬ不気味さを漂わせていた。ここは識海――魂魄の奥底、人の根源が宿る精神世界だ。


 だが、静寂は存在しなかった。


 蓮弥の前には二つの影が立っていた。一つは自分自身――蓮弥の魂そのもの。そして、もう一つは血に濡れ瀕死のはずだった僧の影。だが、そこに横たわる弱者の姿はなく、全身が黒炎を纏った恐ろしい存在へと変貌していた。魂の力は、肉体にあった時よりもはるかに膨れ上がり、巨人のような威圧感を漂わせている。


 「ふふ……ここが貴様の識海か」

 僧――いや、魔仏山の悪僧の声は、雷鳴のように響いた。その声は水面を揺らし、空の色をさらに深い闇に染めていく。


 「貴様、比叡の門弟だと思ったか? 違う。俺は魔仏山の僧……珠を奪い、封印を破る者よ」

 その目は妖しく光り、蓮弥を射抜く。「あの場で死んだ修士の衣を奪い、愚か者どもを欺いた。それだけだ」

 黒炎を纏ったその影は、笑いながら言葉を続けた。「だがこの器はもう限界。肉体は朽ち、魂もすり減った。だから……貴様の体をいただく」


 「奪体だ」


 低く囁かれたその言葉に、蓮弥は背筋が凍った。奪体――禁忌中の禁忌。魂を完全に押し潰し、肉体を奪い取る術。耳にしたことはあったが、まさか自分が標的になるとは夢にも思わなかった。


 悪僧の影が一歩前に出た。その瞬間、識海全体が揺らいだ。空は黒雲に覆われ、稲光が走る。穏やかだった海は荒れ狂い、巨大な波が幾度も打ち寄せる。圧倒的な魂力――筑基期に至った者の重圧が、錬気期の蓮弥の魂を押し潰していく。


 「ぐっ……!」

 重圧に耐えきれず、膝が勝手に沈んだ。息が詰まり、魂の身体でありながら胸が締め付けられる。心臓の鼓動が耳を打ち、視界が滲む。


 「貴様の識海は清らかだ。若く濁りも少ない……器としては理想的だな」

 悪僧の声は愉悦を含み、まるで獲物を弄ぶ猛獣のようだった。


 蓮弥は必死に抵抗しようとした。手を前にかざし、霊力を練る。しかし、この内なる世界で力を形にするのは容易ではない。指先にともした小さな火の玉は、悪僧の視線一つで掻き消された。


 「ちっ……!」

 「無駄だ」悪僧の声は雷鳴のように識海を震わせた。

 「俺は筑基期に至った魂。お前のような錬気期の魂力など、幼子が木の枝を振り回すのと変わらぬ」


 その言葉は真実だった。力の差は絶望的。足元の大海が裂け、深淵が口を開く。そこに呑まれれば、魂は二度と戻れないだろう。


 「さあ、終わりだ」

 悪僧の手がゆっくりと伸び、蓮弥の胸元を掴もうと迫る。魂を捕まれれば、それで終わりだ。


 「くそっ……!」

 蓮弥は必死に後退するが、識海は逃げ場を与えない。足を踏み出すたびに海は裂け、深淵が道を塞ぐ。


 ――まだ終わりたくない。

 ――何か……何か術はないのか。


 必死に意識を集中させ、心の奥を探る。しかし答えは見つからない。悪僧の影がさらに巨大化し、覆い被さるように迫ってくる。


 「お前の魂は……ここで消える!」


 叫びと同時に嵐が吹き荒れた。暗雲の裂け目から稲光が奔り、海は逆巻き、世界そのものが崩壊しようとしている。


 悪僧の手が目前に迫る。その手には黒炎が渦巻き、触れられれば魂ごと燃やされると本能が告げていた。


 蓮弥は歯を食いしばり、残された力をすべて振り絞った。意識を一点に集中し、己の魂魄の中心――丹田に相当する精神の核を必死に探る。


 ――何か……何かあるはずだ。


 その瞬間、遠くで鈴の音のような微かな響きが聞こえた。霧の向こうで光が瞬き、深淵の闇をかすかに裂いた。


 だが悪僧は迫る。「無駄だ!」と叫び、その声で光が一瞬かき消える。


 識海は完全な嵐と化し、蓮弥の意識は破滅の縁に追い詰められていった――。


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