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紅蓮仙途 ―少年と龍狐と星の誓い―  作者: 紅連山


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紅蓮仙途 【第53話】逃げた黒影 【第54話】再び西へ

【第53話】逃げた黒影


 夜の比叡山は、いつにも増して静かだった。

 霧が谷を這い、杉木立の葉先を濡らしている。虫の声も風の囁きも遠く、ただ清冽な霊気だけが山中を満たしていた。


 ――だが、その静寂が一瞬、乱れた。


 風が逆巻き、燈明が揺れる。結界の気流が微かに歪んだ。それを感じ取ったのは、山の護法を司る一人の僧――栄真だった。


 彼は経を読む手を止め、閉じた瞼を開く。

 「……結界が、裂けた?」


 その刹那、遠くの堂宇の屋根の上で黒い影が走った。夜霧の中を音もなく駆ける影。人の形――だが、常の速さではない。霊気を纏い、風を裂いていた。


 栄真はすぐに悟る。盗まれたのだ。そして――逃げているのは、修仙の徒。


 彼は掌に一筋の光を生じさせた。霊印が結ばれるや否や、足元の苔が淡く輝く。風を蹴って宙に浮かび、衣を翻しながら山道の上空を追った。


 谷間に霧が流れ、黒影の背がちらりと見え隠れる。

 「止まれ!」

 栄真の声が夜霧を震わせた。


 逃げる者は振り向かない。黒衣の裾が風に裂かれ、肩に巻かれた布包みの中から、淡い金光が漏れた。秘宝――金霊珠。その輝きだけが、闇の中の目印だった。


 霊気の奔流がぶつかる。山が鳴動し、杉の葉がざわめく。互いの力は拮抗していた。


 黒影は印を結び、護符を一枚、空へ放つ。符は蒼く燃え上がり、霧が瞬く間に光の壁へと変わる。栄真は躊躇せず、指先から金の矢を放つ。光矢が霧を裂き、衝突の閃光が夜を照らした。


 衝撃が山を渡り、谷にこだまする。霊気の波が互いを押し返し、火花が散る。二人の力は、まさに拮抗していた。


 「……おぬし、ただの盗人ではないな。」

 栄真の声が静かに響く。


 黒衣の男は口元を歪めた。

 「盗んだのではない。……奪い返しただけだ。」


 その言葉に栄真の目が細くなる。山風が渦を巻き、二人の周囲の霊気が形を持ち始めた。金光と蒼炎がぶつかり合い、夜空に龍の影がうごめく。


 「理を掲げるなら、ここで止まれ。」

 「理があるなら――止まれぬこともある。」


 瞬間、二人は同時に動いた。光と炎が交差し、轟音が夜を裂く。霊気が爆ぜ、霧が千切れ、岩が砕けた。山中の結界が悲鳴を上げ、天に向かって光の筋が立ち昇る。そして――二つの影が、ほとばしる光の流れの中に消えた。


 彼らは上昇し、夜空を翔けた。追って、逃げて――どちらも止まらず。金と蒼の尾を引きながら、遠く、遠くへと飛び去っていった。


 谷間には、ただ風の余韻だけが残った。揺れる霧の中、月が静かに照らしている。比叡山は再び静寂を取り戻したが、霊気の底には未だ微かな波が揺れていた。


 その夜、二人の修仙者が山を越え、空の果てへと消えたことを、誰も知らない。ただ、その飛光だけが、暁まで空を照らしていた。




【第54話】再び西へ


 再び西へと進む旅路は、険しさの中に懐かしさを含んでいた。


 朝霧が山肌を這い、道を覆う石畳は夜露を吸い込んで鈍い光を放つ。蓮弥はその湿った石の感触を足裏に感じながら、胸の奥で小さな苛立ちを押し殺していた。

 ――進まない。


 修練が停滞しているのだ。己の内に渦巻く霊気は満ちているはずなのに、それが一つにまとまらず、突破の気配は霧のように遠い。


 「……今の自分じゃ、まだ足りない」

 自然と声が漏れる。誰に聞かせるでもない吐露だったが、その呟きを拾った耳は早かった。


 「また考え込んでるねぇ、蓮弥っち」

 ルナが振り返る。金色の狐耳がぴんと立ち、尾がふわりと揺れる。その目は楽しげで、心の奥の迷いすら嗅ぎ取ったかのように輝いていた。


 「どうせ『筑基期に行けない』とか、その辺でしょ?」

 図星を突かれた蓮弥は、苦笑しながら肩をすくめた。


 確かに彼はいま、錬気期の修練を極め、あと一歩で筑基期へ踏み出せるところまで来ている。しかし、その一歩が恐ろしく遠い。


 南方の古い山岳で手に入れた稀少な霊草――「紫魂花」。その名は伝説にも残る筑基期突破の助けとなる霊薬だった。


 蓮弥はその霊草を手に入れるために危険な沼地に入って、命を懸けた。その努力の果てに得た霊草を丹薬に練り上げ、心血を注いで服用したのだ。

 だが――


 「ぷはははっ! 何それ、拍子抜けじゃん!」

 ルナは腹を抱え、石段の上で笑い転げる。月の光を受けた尾がふわふわと舞い、霧の中に金色の波を描いた。


 「せっかく苦労して手に入れたのに、なんの変化もなし? 蓮弥っちらしいわぁ!」

 「……笑い事ではない」


 低い声で制したのはシュウ廉だった。彼は背の高い体をゆったりと揺らし、長杖を握りしめて歩いている。黒衣の裾が風に揺れ、その目は静かに蓮弥を見つめた。軽蔑ではなく、弟子を案じる師のような憂いが宿る瞳だった。


 「焦っても進階はできぬ。天と地と己の呼吸がひとつに重なるときでなければ、突破は訪れない。丹薬はきっかけにすぎんのだ」


 その言葉が胸に沁み、蓮弥は唇を噛んだ。――己に欠けているものは何なのか。霊気の総量か、精神の統一か、それとも……運命。


 三人はそのまま言葉少なに歩を進めた。

 道は山の尾根沿いに続き、両脇の杉木立は朝露をまとって沈黙している。霧は次第に濃くなり、遠くでせせらぎの音がかすかに響いた。


 鳥の鳴き声は途絶え、風も音を失ったようだ。まるで自然そのものが、彼らの進む先に待つ何かを察して息を潜めているかのようだった。


 ふと、ルナが立ち止まった。

 「……今の、聞こえた?」

 狐耳がぴくりと動き、尾の一本が警戒心を帯びて立ち上がる。


 「何かあったのか?」

 蓮弥が問い返すと、ルナは耳を澄ませ、山道の右手に目を向けた。


 ――そのとき、微かな声が霧を裂いた。

 「……う、うぅ……」

 それは弱々しい呻き声だった。風が吹けば消えてしまいそうなほどのか細い声。


 「人の……声だよね?」ルナが小さく呟く。

 蓮弥とシュウ廉は目を合わせた。山中に倒れている旅人か、それとも罠か――。

 この出会いが、彼らの旅路を大きく変えることになる――そんな予感が霧の向こうから迫っていた。


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