紅蓮仙途【第45話】水の術掴む 【第46話】火と水の均衡
【第45話】水の術掴む
西へと続く山道は、細く曲がりくねり、足を踏み外せばそのまま谷底へ真っ逆さまに落ちるような断崖絶壁に沿って延びていた。朝露を帯びた木々の葉が風に揺れ、霧が低く垂れ込めている。
鳥の鳴き声は遠く、聞こえてくるのは自分たちの足音と、時折、風に乗って響く獣の吠え声だけだ。
蓮弥とルナは、慎重に進んでは立ち止まり、耳を澄ませ、気配を探りながら歩を進めていた。シュウ廉が言った通り、この道は妖怪や山賊の巣窟であり、どこに敵が潜んでいるか知れたものではない。
だが、強者と遭遇したときのことを想像するだけで、蓮弥の背筋には冷たい汗が伝った。彼の修為はまだ錬気期を抜け切らず、筑基期の境地には遠く及ばない。
「もっと早く……錬気を極めて、筑基へ進まねば……」
低くつぶやく声は、霧にかき消されて消える。
火の術を学び始めて数日、蓮弥は足を止めるたびに掌で霊力を練り、火を灯す修行を続けていた。初めは指先に火花を散らすことすらできずに苦しんだが、今は小さな炎を安定させ、形を変える程度までは成長した。しかし、それ以上は進展がない。いくら集中しても、炎はただ揺らめくだけで、自在に操る境地には程遠かった。
「……駄目だ。ここで足踏みしている……」
その瞬間、脳裏にシュウ廉の冷ややかな声が響いた。
――火ばかりに固執するな。火と水は陰陽の双。水を学べ。流れを知れば、火の本質もまた新たに見えてくる。
「水の術……」
蓮弥は懐に手を差し入れ、一冊の古い冊子を取り出した。表紙は擦り切れ、墨の匂いが微かに残っている。かつての戦いで得た戦利品のひとつで、初歩の水術が記されているという。ページを開くと、筆の跡も荒い古文字でこう記されていた。
――水は形を持たぬ。しかし流れを持つ。掴むのではない。寄り添い、導け。
短い言葉だが、胸に深く響いた。蓮弥は顔を上げ、足元の小さな沢を見下ろした。
「……やってみよう」
さらに谷を下ると、轟音を響かせて落ちる大きな滝が現れた。岩壁を伝う白い飛沫が霧のように漂い、湿った空気が肌にまとわりつく。水音が地面を震わせ、胸の奥まで響いた。
「ここなら……流れを感じられる」
蓮弥は草履を脱ぎ、冷たい水に足を沈めた。途端に刺すような冷気が足首を打ち、身震いが走る。腰まで水に浸かると、滝壺の水流が彼を押し流そうとする。だが、両足を岩に踏ん張り、心を静めた。
「火は激しさ。水は……静けさ……」
呟くように言い、両手を広げる。丹田に意識を沈め、霊力をゆっくりと練る。火の術で得た感覚を応用しようとしたが、水は火のように応じてはくれなかった。冷たい流れが指先を撫で、霊力はそのまま吸い取られるように散ってしまう。
「……難しい」
額に冷たい汗が混じり、滝の飛沫が顔を打つ。だが諦めるわけにはいかなかった。何度も霊力を巡らせ、川に手をかざす。しかし水は応じない。
「蓮弥っちー!」
岸辺で見守っていたルナが声を張り上げる。
「焦るなよ!水は逃げるけど、全部拒んでるわけじゃない!流れに乗るんだって、その本にも書いてあったでしょ!」
「……流れに……」
蓮弥は深く息を吸い込み、瞼を閉じた。滝の轟きに耳を澄ませ、川の音を聞く。激しい奔流の音、その下に潜む細いさざめき。大小さまざまな水の音が重なり、一つの調和を奏でていた。
「……」
心を鎮める。霊力を水に押し付けるのではなく、流れと共に運ぶように意識を変える。ゆるやかに指先を動かすと、川面の上に小さな水滴がふわりと浮き上がった。
「……動いた……!」
水滴はわずかに揺らぎ、霧のように散ったが、その一瞬の感覚は確かだった。
「やったな!蓮弥っち、初めて水が応じたぞ!」
ルナが跳ねるように叫び、笑顔で手を振る。
蓮弥の胸に達成感が広がった。これまでの火の修行とは全く異なる感覚。水は決して力でねじ伏せられない。ただ共に流れ、自然のままに導くことが必要なのだ。
彼は再び両手を広げ、霊力をゆっくりと練った。今度は急がず、川の流れを身体で感じながら、静かに霊力を流し込む。やがて川面の水がゆらぎ、彼の指先に向かって一筋の流れが集まり始める。その水は細い糸となり、やがて彼の掌に小さな水の球が浮かんだ。
「……っ、成功した……」
滝の霧の中で、小さな水球は淡い光を宿し、ゆらゆらと揺れていた。
「すげぇ……!」
ルナが目を丸くし、拍手を送った。
蓮弥はゆっくりと水球を消し、冷たい水の中に膝をついた。胸の奥にこみ上げてくる喜びと疲労。それでも、彼の瞳には確かな光が宿っていた。
――火は掴むのではなく導く。水もまた、掴むのではなく寄り添う。
彼はその感覚を心に刻んだ。修行の道は長い。だが一歩を踏み出せた。その確信が、滝の轟音にも負けず胸に響いた。
【第46話】火と水の均衡
滝壺の轟音が谷にこだまし、しぶきが白い霧のように漂っている。朝の光が霧を透かして虹を描き、蓮弥はその中で膝を川底の石に据えて座っていた。水は氷のように冷たく、足首から上がる感覚が彼の全身を引き締める。それでも、彼は眉一つ動かさず、両の手を胸の前に広げて霊力を流し込んでいた。
「……っ!」
指先の周囲でわずかに集まりかけた水が、次の瞬間には力を失って四散し、勢いよく弾け飛んだ。顔に冷たいしぶきがかかり、衣はすっかり濡れてしまう。それでも彼は肩で息をしながら両目を閉じ、再び霊力を巡らせた。
「もう一度……」
今度は流れをより強く意識し、水を操ろうと試みる。しかし、意識を強めるほど霊力は硬直し、水の流れは暴れ始めた。小さな渦が水面に浮かび、彼の周囲の水が泡立つように乱れる。まるで川そのものが拒絶しているかのようだ。
「……駄目だ」
両の手を川に沈め、力なくつぶやく。冷たい水の中で体温が奪われ、心まで凍えそうだった。
岸辺の岩の上から、ルナが大きな声を上げる。
「力入れすぎなんだよ、蓮弥っち!火のときと同じで、ガッてやるから水が怒って逃げんだろ!」
「わかってる……でも、力を抜けば形にならない……」
悔しさが滲む声が、滝の音にかき消された。
その瞬間、蓮弥の耳の奥に、静かな声が響く。
――火と水は相反するもの。だがどちらも術の本質は『流れ』だ。火は燃え広がる流れ、水は巡る流れ。お前は火で掴もうとし、水で縛ろうとする。その両方が、流れを断ち切っている。
「……流れ……」
蓮弥はその言葉を反芻した。火を扱うときも、水を扱うときも、彼は「形を作る」「押さえ込む」ことばかり考えていた。火は暴れるものだから力で抑え、水は逃げるものだから掴む――そう決めつけていたのだ。
蓮弥はゆっくりと息を吐き、腰を上げて川の中央まで進んだ。足元は滑りやすい岩だが、滝壺から吹く風が冷たさを増し、彼の集中を研ぎ澄ませた。
右手には火の霊力、左手には水の霊力を流す。右の掌には朱の光が宿り、左の掌には青い輝きが浮かぶ。その光が同時に強まり、彼の両手の間でぶつかり合った瞬間――
「……っぐ!」
激しい蒸気が立ち上がり、白い霧が爆ぜるように広がった。炎の熱と水の冷気が一度に押し寄せ、皮膚が焼けるような痛みと凍るような感覚が同時に襲う。指先から肘まで、激痛が駆け抜けた。
「だ……駄目だ……!」
必死に気を張ったが、均衡は一瞬で崩れた。炎と水は互いを押し退けるように四散し、滝壺の水面が激しく波立つ。水しぶきが嵐のように飛び散り、蓮弥の体を濡らした。
「蓮弥っち!」
ルナが悲鳴をあげて駆け寄り、岩の上から飛び込むように川に入る。彼女の金色の髪が濡れて張り付き、青い瞳が不安げに揺れた。
「大丈夫か!?手……火傷してない?」
蓮弥は痛みに歯を食いしばりながらも、苦笑いを浮かべた。
「……大丈夫だ……ただ、少し熱いだけだ」
腕を見れば、火傷には至らないが赤くなった皮膚が痛々しい。冷たい川の水がじわりと熱を和らげてくれた。
――火と水は対立するのではない。交われば霧となり、雨となり、大地を潤す。二つを力でねじ伏せるのではなく、調和を探すんだ。
シュウ廉の言葉が脳裏に蘇る。火と水は互いを消し合う存在ではない。世界を形作る二つの力。強者はそれを意のままに扱うのではなく、均衡を理解し、流れを共鳴させるのだ。
「……もう一度だ」
蓮弥はゆっくりと立ち上がった。滝の水しぶきが再び顔を打つ。指先の震えを押さえ、深く息を吸った。
川の流れを感じる。足元の石の感触、肌を流れる水の速さ。火の霊力は体の奥底、丹田の熱から引き上げ、水の霊力は静かに呼吸とともに循環させる。二つの霊力を無理に合わせるのではなく、互いを尊重し、響き合わせるよう意識を変えた。
両手の掌で、朱と青の光がふたたび灯る。だが、今度は先ほどのように激突するのではなく、渦を描くようにゆっくりと混ざり合った。炎の熱が水の冷たさを和らげ、水の静けさが炎の荒ぶりを鎮める。
「……っ!」
掌の上で、火と水が小さな光の珠となった。その表面は薄い霧をまとい、わずかな熱気を放ちながらも、冷たい気配を宿している。不思議な均衡を保ったまま、それはふわりと浮かび上がった。
ルナが目を見開き、歓声をあげそうになったが、蓮弥が手を軽く上げて制した。
「まだ……崩れる……」
その言葉通り、光球はわずかに揺れ、均衡を失いかけている。蓮弥は集中を切らさず、霊力を細い糸のように流し続けた。やがて、球は静かに川面の上に降り立ち、消えるように霧散した。
「……」
膝をついた蓮弥の肩が大きく上下する。疲労は重いが、胸の奥に確かな達成感があった。
「今の、見たぞ……!」
ルナが駆け寄り、にこりと笑った。
「均衡が取れてた。ちゃんと火も水も、あんたのことを認めてたよ!」
蓮弥は頷き、額の汗を拭った。
「まだ未熟だ……でも、確かに見えた。火と水の流れ、その調和が……」
滝壺の轟音が耳を打つ。その音が、まるで修行を祝福するかのように感じられた。
火と水。相反する力が一つになった時、きっと今まで見たことのない世界が開けるだろう。
「さあ……もう一度やる」
蓮弥は静かに立ち上がり、再び手を広げた。
その瞳には恐れはなかった。疲労の底で燃える決意の炎と、水のように澄んだ冷静さが、彼の中に同居していた。
修行は始まったばかり――しかし、確かな一歩が今、刻まれた。




